平成13年11月10日
平成13年11月10日
『正法念処経』における風(rlung)について
石川 美恵 研究員
風(ルン rlung)は、仏教において世界を構成する4大の1つであるが、後期密教では生理学的技法によって身体内の風を統御することで、修行者を解脱に導く重要な要素となっていく。本発表では『正法念処経』身念処品を取り上げ、そのチベット訳を中心に、本経に詳細に説かれる身体内の風について、同じく人の身体内に宿住するといわれる「蟲(Skt. Krimi, Tib. srin)」との関わりを通して眺めた。 『正法念処経』の特色は、聞慧・天眼によって五趣や四洲を観じ、内観によって身体内の風を観るという、修行者の実践書としての方向性を示す一方で、身体を不浄と観る見方からさらに踏み込んで、その原因を体内に巣くう約80種の汚穢の蟲におき、内観によってこれらを観じ、人の臨終時には各々の蟲に対応して、それらを破壊する77種の風があると説くことにあった。種々の風と蟲の記述は『大宝積経』や『修行道地経』にも見られるが、それまで別個に説かれていた両者が、『正法念処経』身念処品では″風が蟲を破壊する″という形で明確に結びつけられたと言える。
また、本経において風は、禅定の安楽とも密接に関わり、風の乱れが心身の疾病を引き起こすのみならず、場合によっては狂気や死さえもたらすことが述べられていた。これは、本経が小乗経典に分類されてはいるが、実践という観点から見ると後の密教に発展していく萌芽を内包していることを示すものと思われる。
さらに、本経中に説かれる蟲は、寄生虫や昆虫毒だけでなく、病原菌や体内細菌の存在すら想定していたインド古典医学と通底するものであり、後のチベット医学において、蟲やルンの概念が洗練されていく上での、過渡的状況を示すものと言える。現代のチベット医学では、風の統御によって精神的な統合失調も含めた種々の病を治す行法すら存在するが、″風が蟲を破壊する″という身体に対する捉え方は、そのチベット医学の思想的基礎を形成している密教において″ルンの統御によって心身を調整する″という思想に整う基と考えられ、それはまた、ウイルスやバクテリア、自身の蛋白質自体が突然変異種を生み出す現代社会にこそ、まさに生かされるべき1つの姿勢であり、『正法念処経』身念処品はそのための豊富な資料を提示していると言えよう。
超能力と認識論
―『プラシャスタパーダ・バーシュヤ』における 「特別」な認識―
三浦 宏文 研究員
インド正統派六派哲学の1つである、ヴァイシェーシカ学派は、独自の精密な範疇論を展開している。そして、その範疇論の土台ともなるべき認識論は、基本的に、経験論的に合理性もって現象を説明することを目的としている。しかし、同学派の認識論が最も体系的に整備された『プラシャスタパーダ・バーシュヤ』においても、「聖仙知」、「ヨーガ行者の直接知覚」は、認識論の中でしっかりと1つの位置を占めている。本発表では、あくまで合理的に経験論的認識論を展開しようとするプラシャスタパーダにとって、聖仙やョーガ行者などの「特別な人々」の認識形態は、どのように位置づけられるのかを考察した。
まず、ヨーガ行者の直接知覚は、ヨーガを修している時の、ヨーガより生ずる法に助けられた意識によって生じる、アートマンなどについての誤りのない本質の知覚と、ヨーガをしていない時の、ヨーガにより生じた法の助けの力により生じる、微細なものや何かに隔てられたもの、および遠く離れたものについての直接知覚の2種類である。
次に聖仙知は、直観的な知識であり、(1)過去、現在、未来のことがらにおいて、(2)超感覚的なことがらにおいて、(3)法などにおいて、(4)書物に記録されたものでも記録されていないものにおいても、アートマンと意識の結合と特殊な法によって生じる知識である。また、この聖仙知は、多くは聖仙たちにあるとされるが、時には世俗の人たちにも、少女が「明日私の兄弟がやってくる、と心臓が私に語る」というようないわば虫の知らせのような形で現れるとする。
結局、「特別な人」の認識とは、感覚器官と対象が直接接触できないか、証相ぬきにして推論される認識である。これは、感覚器官と対象との接触を大原則とする直接知覚学説と、徴証をもとに類推する推論学説のいずれからも説明がつかない種類の認識である。したがつて、この2つを骨子とするヴァイシェーシカ学派の認識論の範囲外のものである。『プラシャスタパーダ・バーシュヤ』では、このヴアイシェーシカ学派の経験論的認識論からはみ出す認識を、いわば追認する形で認識論的に位置づけたのである。
古代インド運動論の認識論的な側面
大網 功 研究所員
古代インドにおいて、運動を体系的に取り扱っているのはVaiśeṣika学派の運動論である。この学派の運動論では運動はすべて瞬間的と考えられ、継続運動は意志的努力やヴェーガなどの動力因によって瞬間的な運動が次々に引き起こされるために生ずるとされた。そして″運動は運動するものをある場所から分離させ、次の場所に結合させる″という考え方が基本となっていた。また、物体の継続運動では、その運動を引き起こす身体の動作から始まってその運動に至るまでの運動過程がVaiśeṣika学派の因果律によって記載されている。今回はこの学派の運動論の認識論的な側面を6世紀の著作Praśastapādabhāṣyaおよびその10世紀の註釈書、VyomavatīとNyāyakandalīによって紹介する。
Praśastapādabhāṣya の運動論の継続運動について述べた節、第4節、5節において注釈書、Vyomavatīでは、内属因、非内属因、動力因という言葉が多く注釈されている。そこで運動論において因果関係が注釈されている個所をPraśastapādabhāṣyaとVyomavatīについて比較し、その結果をPraśastapādabhāṣya記載の個々の運動すべてに適用した。その結果、運動を結果と考えたとき、その原因を遡って追求してゆき、最後の原因が意志的努力にたどり着いた一連の運動過程が第4節「アートマンに支配された運動」、原因が他の動力にたどり着いた一連の運動過程が第5節「アートマンに支配されない運動」に記載された運動である。このようにVaiśeṣika学派の運動論は因果律によって記述されていた。
Vaiśeṣika 学派では運動の種類として瞬間的な5つの運動、持ち上げること、振り下ろすこと、屈曲、伸張、進行が考えられていた。これらの内、進行を除いた4つの運動は方向の定まった運動とされ、持ち上げるなど特殊な意志的努力によって運動の方向がすべて縦方向に規定されている。進行は方向の定まらない運動とされている。横方向の運動はすべて方向の定まらない運動とされ、進行に含まれている。Vaiśeṣika学派では5つの運動を独立した種類と考える理由はそれぞれの運動の群に普遍が伴われているからであるとしている。普遍、すなわち運動の種類は客観的な実在であるとされた。運動を種類として客観的に捉えるために、方向の定まったものと定まらないものとを分けることが必要であった。定まった方向の運動が独立した種類と考えられた。定まった方向はすべて縦方向であるため、持ち上げること等縦方向の4つの運動が種類となった。そしてそれ以外の運動は方向の定まらない運動とされ、進行という種類に入れられた。以上より、Vaiśeṣika学派で運動をこの5種類と考えたのは運動を瞬間的な場所の移動として捉えたことに起因すると考えられる。