平成23年7月16日 東洋大学白山校舎1202教室
平成23年7月16日 東洋大学白山校舎1202教室
陽明学のおける「四有説」「四無説」について
伊香賀 隆 院生研究員
『伝習録』下巻に、「天泉橋問答」といわれる間答が収録されている。これは王陽明の高弟である銭徳洪と王龍渓がそれぞれ「四有説」「四無説」を主張して決着が着かず、その裁可をこれから戦地に向かおうとする師陽明に問うたものである。 1527年、王陽明最晩年の出来事である。『伝習録』下巻記載の「天泉橋問答」は銭徳洪側から記録したものであるが、王龍渓側から記録したものも『王畿集』巻一に「天泉證道紀」として収録されている。銭徳洪が主張する「四有説」とは、「無善無悪は、是れ心の体。有善有悪は、是れ意の動。知善知悪は、是れ良知。為善去悪は、是れ格物」である。これは王陽明が門人たちと学問をする際に、常に掲げて教法としていたものであって、銭徳洪はこれを一字一句変えることの出来ない絶対的なものであると主張する。これに対して王龍渓は、「心は是れ、無善無悪の心なるを悟り得ば、意は即ち是れ無善無悪の意。知は即ち是れ無善無悪の知。物は即ち是れ無善無悪の物」と主張する。師陽明はこの両者の主張に対して、「四無説」は素質の優れた人(上根)のための教えであり、「四有説」はそれより一段落ちる人(中根以下)のための教えであり、あらゆる段階の人を導くには両者が手を取り合うことが大事であり、自説に執着してはいけないと教えた。これが有名な天泉橋問答の概要である。
本発表では、『王畿集』にみられる「四有説」「四無説」についての王龍渓の発言を検証し、「四有説」には賢人以下、「四無説」には聖人が割り当てれられ、前者における工夫(修養努力)は「勉然」「著力」「有可用力処」、後者の工夫は「自然」「省力」「無可用力処」といった言葉で説明されていることに注目した。つまり、王龍渓のいう工夫とは、「勉然」から「自然」へ、「著力」から「省力」へ、「有可用力処」から「無可用力処」へと変化していくものであり、そこには「次第(順序)」があると明確に述べている。つまり、「四有説」と「四無説」にいう工夫とは全く別個の工夫なのではなく、修養工夫を続けていくことによって「四有説」から「四無説」へと移行していくものであることがわかる。そして、その具体的な例が顔子にみられ、その変化の過程が『論語』「唱然の嘆」章に記されていることを確認した。王龍渓といえばとかく「四無説」ばかりが強調され、何の修養努力もなしに、 一足飛びに「四無説」の境地に至ることが可能であると説いたかのような論調が非常に多いが、『王畿集』を全体にわたって丹念に読んでみれば、実はそうではなく、以上にように、非常に現実的で、着実な修養努力を説いていたのである。
量子力学と向きあう今世紀の存在論
―場所的論理の視座から
橋 怜 客員研究員
本論は、以下の2つの観点を基軸に展開した。
科学の思考法と哲学の思考法(=比較論と学際的視座)
量子力学の西田哲学における受容と場所論展開への影響(=場所論的視座)
西田は「客観論理」(科学的観察と客体への分析的論述)と「主観論理」(人間性、自己、普遍の真実等への考察、哲学、人文系学究)を弁別しながらも、中期以降は両者を「対象論理」と位置づけ、独自の「場所的論理」の立場に転じた。 一言でいうと、「思考する純粋自己を大前提におき、自己の視座を中心として論考対象を論述する」(西洋哲学一般に共通の大前提)からの大転回が場所論では前提となる。即ち、「思索し行動する経験世界の自己」が「自己を中心として世界を判断する」視座を逆転させ、「世界という場所においてある自己の行動と思索の内容」を日常底から透徹した視座で内省し、かつその思索道程を自己の即今の生活に投影する行き方である。そこでは純粋思索も「叡智的な経験」の一つとして理解され、西田哲学において「真理を認識する」とは、「把握した真理を自覚し、人生の場において日一日と真実を体現しゆくこと」である。そこでは〈存在と無〉は必ずしも二元対極化しない。生滅する光、生滅する時間、消滅する「絶対現在の自覚」においては、有も無も、まさに消滅し変転してやまない「非連続の連続」であり、「絶対矛盾的自己同一」である。西田の存在論の根には経験界と観念世界の統合があり、最終的な「個」としての自己探究においては〈自己‐他者〉、〈自己‐世界〉が相互浸透し、呼応しあうものとして「〈Aと非A〉の〈関連性の論理〉」でとらえられる。ここに、東洋思想に根ざして成立した西田哲学の独自性があった。
他方、西洋哲学では「絶対的実体的な個の論理」がアリストテレス以来確立し、近世以降の古典物理学では「〈物理学的実在〉による個々の運動系の原理とその構造論」が十九世紀に確立する。が、周知の通り、古典物理の思考法は二十世紀量子力学の登場によって根本からの再検討を余儀なくされた。本論ではハイゼンベルク「不確定性論理」成立の素粒子論を論述し、なぜアインシユタインが「EPR パラドックス」その他の論文で、量子論的物理論的体系への疑間を終世投げかけたかについては、それぞれの原著を引用しながら論考した。数式は、あくまで人文系一般の人材にわかりやすい言語に翻訳して説明した。
ここで「量子力学的論理の根幹」と、前述した西田の「場所的論理の根幹」を比較論考すると、東洋思想と量子論的存在観の「近さ」が克明になる。「場所的論理の今世紀における実効性」については西田に触発されての筆者の用語体系、「〈間〉の場」The Field of ’Between’ /Das Feld des ’Zwischen’を引用し、学際的視座から論述した。