平成13年1月27日
平成13年1月27日
チベット訳『一万頌般若経』について
林 純教 研究員
この『一万頌般若経』は他の諸般若経典と比較した場合、内容的にいくつかの点で極めて特異な面を有しているのであるが、会衆についての表現にも特徴的な点がうかがえるのである。
この『一万頌般若経』冒頭に於ける会衆についての表現は他の新古の層の諸般若経典と比較すると、最も古い漢訳である古訳の『方光般若経』、『光讃般若経』、『大品般若経』等に近く、特に冒頭の菩薩衆の名目、配列については、『一万頌般若経』に「月蔵菩薩」の名が存在する以外は『大品般若経』と最もよく一致していると思われる。
このことは速断することはもちろん危険であるが、ある程度は『一万頌般若経』の経典史的位置を考える場合、1つの指標となりうると思うのである。
というのは、古訳である『大品般若経』、梵本『二万五千頌般若経』、新訳『大般若経二会』、西蔵語訳『一万人千頌般若経』、西蔵語訳『二万五千頌般若経』等々に於いてはその順序に従って、冒頭の会衆についての表現、菩薩の名目等のついての明らかな増広が見られるからである。
特に、諸般若経典中に見られる菩薩の名目と列挙の順であるが、ほぼ一貫してどの経典も、いわゆる「十六正士」をまず列挙し、その後につづいて「無比慧菩薩乃至、弥勒菩薩」が列挙される様式を持っており、時代の変遷と共に「十六正士」の1団、「無比慧菩薩乃至、弥勒菩薩」の1団、共に、その中に菩薩名の増広を見るのである。
今、試みに古訳の『大品般若経』を基準にした場合、梵本『二万五千頌般若経』、『大品般若経二会』、西蔵語訳『一万人千頌般若経』、西蔵語訳『二万五千頌般若経』等のそれら全ての経典が、「十六正士」の1団、「無比慧菩薩乃至、弥勒菩薩」の1団、共にその中に新しい菩薩名が増広されており、いずれか一方にのみ菩薩名が増広されていることはないのである。
このような状況の中で、『一万頌般若経』中に見る「十六正士」の1団の中に「月蔵菩薩」1人だけが増広されて、「無比慧菩薩乃至、弥勒菩薩」の1団は、そのままの形というのは異例である。
しかも、この「月蔵菩薩」という菩薩名は「二万五千頌」系般若経の新古を含めた諸漢訳、および梵本『二万五千頌般若経』、更に、西蔵語訳『一万八千頌般若経』等には見られず、「二万五千頌」系般若経では最も新しい資料と思われる西蔵語訳『二万五千頌般若経』に於いてはじめて登場するのである。因みにこの西蔵語訳『二万五千頌般若経』中の冒頭の菩薩名を列挙する部分の「無比慧菩薩乃至、弥勒菩薩」の1団には『大品般若経』と比較すると実に多くの菩薩名の増広が見られるのである。
『一万頌般若経』中の「十六正士」の1団に、「二万五千頌」系股若経では最も資料的には新しいと考えられる西蔵語訳『二万五千頌股若経』、及び、「十万頌」系般若経である新訳『大般若経初会』、梵本『十万頌般若経』、西蔵語訳『十万頌般若経』に於いて現出するこの「月蔵菩薩」の名前が加えられ、しかも、「無比慧菩薩乃至、弥勒菩薩」の1団は古訳の『大品般若経』と同じく当初のままにというのはどのように解釈すべきであろうか。今仮に、『一万頌般若経』が、西蔵語訳『二万五千頌般若経』の原典になったであろう増広された『二万五千頌般若経』、或は『十万頌般若経』からの省略された形での経典であるとしても、「無比慧菩薩乃至、弥勒菩薩」の1団だけ当初の増広前の形をとり、「十六正士」の1団にだけ1名の菩薩が、しかも、菩薩名としては新しいこの「月蔵菩薩」が残されているというのは少し不自然のような気がするのである。
あるいは、意図的に「月蔵菩薩」だけ残したのであろうか。若しそうであるとしたならばその理由づけははたしてどのようなものであろうか。
いずれにしても『一万頌般若経』に於ける「月蔵菩薩」の存在は多くの問題を残すのである。この問題は少なくとも、上述の各経典の冒頭部分に於ける会衆についての他の表現にも気を配りつつ考察していかなければならないものである。
日本における韓国系唯識の研究経緯
ーその諸間題と展望ー
橘川 智昭 研究員
日本に伝わった所謂正系法相宗は中国からの教学であるが、その伝統的教学が構築されていく過程において新羅人唯識との関わりが無視出来ない。例えば、法相宗第二祖慧沼(650―714)『成唯識論了義灯』では円測(613―696)と道証(?―692―?)の『成唯識論』解釈の内容が厳しく批判されたが、その批判のあり方などは、後世の日本の善珠(723―797)の著作や鎌倉初期の『成唯識論同学銹』その他において大きく議論されている。それから、そのような系統とは別に、景法師なる人物の学説が法相宗祖の慈恩大師基(632―682)の学説に影響を及ぼしていること、遁倫の『喩伽論記』が基の『喩伽論略纂』の影響の下に述作されている点なども明らかにされてきている。本発表では、こうした円測、道証、遁倫、景法師と、さらに勝荘、海東喩伽祖とされる太賢の、日本における従来研究の状況を整理して報告し、韓国系唯識に対する日本国内研究の問題意識等にも触れて論じる。
本発表では、円測の従来研究を中心として、以下の様に整理を行って報告した。
I円測 A伝記問題B著作認定C教学(1)旧訳系思想・新訳系思想の受容態度をめぐって(2)蔵訳資料にもとづく研究(3)他経疏との比較研究a『仁王経疏』b『仏説般若波羅蜜心経賛』(4)『成唯識論』に対する解釈―慧沼『成唯識論了義灯』との関連―(5)その他 D後世への影響面(1)華厳宗(法蔵教学)等(2)敦遵〜チベット(3)日本 a行信・善珠等b『成唯識論同学砂』Ⅱ道証 Ⅲ太賢 Ⅳ遁倫 V景法師 Ⅵ勝荘
特に円測研究について見るならば、古く大正時代に羽渓了諦氏によって円測を一切皆成思想を認容した人と規定され、その点こそ慈恩系の法相教学と対立した根本と見なされて通説として定着してきた。円測教学の後世への影響面を研究する中に一乗仏教との接点を探る論孜が見られるのは、そうした前提で論じられたためである。しかし、伝統的な法相教学において円測が一切皆成を認容したことはどこにも指摘されておらず、近年になって、真諦系思想よりむしろ玄奘系思想を重視したこと、また一切皆成の立場ではなくやはり五性各別の立場であることが明らかになってきて円測研究が再度ふり出しに戻った形である。法相教学と天台等との論争として三一権実論争が有ったことは周知のごとくであるが、従来の定説は、慈恩系教学と円測系教学との相違についても同様にあてはめて、法相教学の分流を示しやすくするための整理措置として結論が急がれすぎたものと思われる。
また、なぜ十分な再検証が行われることなくそのような通説が定着したのかという点について考えてみると、①円測が新羅出身という点で民族的な枠組みで片付けようとして、元暁などの新羅仏教の特質とされる所謂通仏教或いは総和性という一乗的な視点から捉えていこうとする研究事情が有ったこと、②日本においては、韓国系唯識の究明という直接的な視点に立ったのではなく、中国〜日本の法相教学に主眼が置かれ、異派については補助的に位置づけられて、あまり関心が払われてこなかったことなどがあげられる。
円測の著作である『解深密経疏』を詳しく見ると、実は慈恩教学と殆ど共通していることが知られる。今後、新訳系唯識の一解釈として捉え直すことにより円測思想の解明に進むと思われる。
『日本大蔵経』に収められた修験道資料
中山 清田 研究員
修験道資料は『増補改訂日本大蔵経』財団法人鈴木学術財団刊行 第92巻、第93巻、第94巻、第95巻、第96巻を中心として『山岳宗教史研究叢書』名著出版 第1巻より第18巻、『修験聖典』修験聖典編纂会編 歴史図書社、『明治維新神佛分離史料』名著出版第1巻より第5巻、『神道大系』財団法人神道大系編纂会第1巻より第100巻、その他地方自治体が発行している報告書が多数現存している。
その中でも『増補改訂日本大蔵経」に収められている資料には、日本各地の修験道行事に関する資料は少ない。当山派(真言宗系)、本山派(天台宗系)の教義に関する資料が多く収められている事を重視している。
『増補改訂日本大蔵経』に収められている修験資料、161点の解説は紙数が限られているので略すが、その中でも特に、修験道教義を表しているのは、『山伏二字義』であると考えている。
『山伏二字義』は、「山と伏」2字に修験道思想を説いている。奥書に正保2年(1645)で定本は正保2年の書写本である。その他に寛文13年(1673)刊本がある。修験道の文献はほとんど口伝で伝えられており、刊本は江戸時代がほとんどである。
『二字義』の原文に類似した文献は、『日本大蔵経』に収められているが、『修験秘決集』と『修験三十三通記』にも収められている。『二字義』の原文は『三十三通記』を中心とし、口伝、秘決の中から宥銭(―1645)が編集したとされている。
山を図説している。山として「山即一合行一合ナリ」としている。則ち仏教思想を利用して、三即一 一即三の思想を示している。この事は、天台宗でいう『山王一実神道』の思想とも一致していると思われる。
伏を図説して伏として伏は不二であるとしている。犬を無明とし、人を法性として、無明と法性は不二の関係である。仏教でいう「煩悩即菩提」の思想と同じような思想であると考えている。
『山伏』という2字に修験道思想の「三即一、一即三の思想」、「不二思想」を象徴化したものと考える。
修験道思想は仏教思想が大きなウエイトを占めているが、「山伏」という2字も、仏教思想で説明していることが理解できる。