平成12年9月27日
平成12年9月27日
地球時代の多文化哲学における比較論理のあり方
―ヘーゲル大論理学における矛盾律の問題と
鈴木禅学・秋月禅学における『即非の論理』―
橋 怜(はし・ひさき) 研究員
ある主語Sが述語Pによって記述される。S→Pが真であるならば S→non-Pは真たりえないA=Aであるならば、A=非Aは即ち矛盾となる。アリストテレス論理学の同一律、排中律の原理から発展した論理学だが、大乗仏教にはこれと対極をなす「般若即非の論理」が鈴木大拙、秋月龍珉らの20世紀禅学で提唱された。周知の通り漢訳「金剛般若経」に起源をもつ「仏説xxx、即非xxx、是名xxx」の語法 、 漢訳独自の「即」の1字に凝縮された「即非」の立場が禅では 古来挙揚されてきたわけだが、これは西洋論理学の原理からみると矛盾・背理を真っ向から是とする立場である 。 古来西洋哲学でも矛盾律の問題は多様な手法で取り組まれてきたが、わけてもヘーゲルのそれは興味深い。アリストテレス以来通俗化されてきた排中律、無矛盾追求の原理それ自体に根本的な矛盾が隠されてはいないか。アリストテレスが本来探究したのは単なる形式論理ではなく、出身・民族・言語・文化の相違を超えてなお共通 の思考を形成しうる普遍の論理であった。プラトン的ヌース(理性)、アリストテレス的ロゴス(論理)そのものを具現すべく普遍の理知が理知そのものの形式を反省し、その内容を深化させかつ理性の体系を完成すべく起動してやまないのがヘーグル論理学(Wissenschaft der Logik)根幹といえよう。他方「即非の論理」では理知ならぬ般若の叡智体得がその根幹にある。「即非の論理」は単なる机上の学としての論理ではなく、生活世界・日常即今の場に生々と体現してやまない「命の根源に追る無窮の叡智」の探求である。ヘーゲル絶対知の精神が理性の体系学としての論理の完成を究極とするなら、即非の論理は叡智の実践における根幹論理の究明であり、両者の地平の違いは理知とその論理・叡智とその実践行で明白きわまりない。一者Xに欠落 したものは他者non-Xにあり、non-Xに欠落したものがXにある。こ れら一目瞭然の違いを大前提とした上で、 両者間(絶対知の矛盾律・ 般若叡智の即非)に1つの普遍的な地平が比較哲学の見地で見出せるかどうか。当発表では両者の「論理」で問題とされる事象の違いをそ のつど浮きぼりとしつつ、対極にある2つの論理構造に焦点を当てて両者共通の地平の有無を探った。
禅と西洋哲学の比較、従来欧州では主として神学界から(キリスト教神秘思想を主軸として)活発な求めがあり、それは現今、1部のキ リスト者のキリスト教信仰に基づく「坐禅」(瞑想)実修を含めて定着したといえる。他方哲学の側からは、坐禅なら坐禅、瞑想なら瞑想 という実修を1つの根幹的柱としつつ 、 両者間になおも介在する思惟構造・論理・認識のあり方の数々の相違点をめぐり、論理学や議論の 立場から更なる探究が絶えず求められてきた事実がある。当発表では後者に重点をおいての論述とした。詳細は今後の『東洋学研究』に発 表させて頂きたく、なおも練っていきたいテーマである。