平成11年9月25日
平成11年9月25日
萩原朔太郎とキリスト教・聖書
野呂 芳信 研究員
本発表は萩原朔太郎と聖書の関係の一端を探究するものである。朔太郎は若き頃からキリスト教に興味を持ち、距離を置きながらも聖書をよく読みこんでいた。そして彼が読み、傍線などの書き込みをしたその聖書が今日前橋文学館に展示保存されている。
この聖書に対する朔太郎の傍線部分は、すでに昭和50年代初頭に和田義昭氏によって不十分ながら紹介されている(『山村暮鳥と萩原朔太郎』、昭和51年7月、笠間書院)。しかし朔太郎に与えた聖書の影響を重視する私の立場からはより詳細な紹介が必要と考え、前橋文学館の協力のもとこの聖書の傍線部について再確認したところ、朔太郎の傍線部分を50箇所確認し、また和田氏の誤りもいくつか発見した。しかも同じく朔太郎の傍線とはいっても、黒鉛筆でなされたもの、赤インクでなされたもの、赤鉛筆でなされたものなどいろいろとあり、また線の野引き方も棒線、波線など数種類確認されたのである。
このような傍線の細かな種類の確認は、傍線を引いた時期の推定に役に立つものであるというのが私の考えである。そこで発表では、朔太郎の傍線の箇所や種類などを具体的に紹介し、また幾種類もある朔太郎の傍線のうち、赤鉛筆で波状に引かれたものに注目した。これは主に「旧約全書」の「創世記」第1章、および「利未記」に多く見られるものである。
ある程度まとまった箇所において同じ種類の傍線が施されている場合、それは近い時期に引かれた可能性が高いと仮定してみると、この赤鉛筆の波線のある「創世記」第1章と「利未記」とをあわせ読むことで朔太郎のある時期の関心のありどころが推定できそうである。それは「創世記」におけるエホバの意図としての、エホバの創造になる様々な生物がエホバの定めたそれぞれの種類に従って、つまリエホバの定めた基本的な秩序に従って存在すること、また「利未記」におけるそのような秩序を逸脱した罪としての同性愛、異種交合の戒め、そして罪の汚れと清めに関する部分であり、これらの部分の多くに朔太郎の傍線が見られる。こうした関心のあり方から推測すると、これらの赤鉛筆で波線を引いた箇所はいわゆる「浄罪詩篇」期のものである可能性が高いことを指摘した。
また朔太郎が聖書や人格神に関心を持ち続ける生活的背景として、生家の近くの一角にいくつかの教会のまとまった地域があることを指摘し、実際の作品草稿にその影響の痕跡の見られるものがあることを指摘して発表内容の補強とした。
堀辰雄における西欧文学
―モダニズムの旗手として―
竹内 清己 研究所員
堀辰雄は、日本の1920年代における〈新感覚派〉を継ぐ先端的モダニストとして文壇に登場し、やがて〈新心理主義〉の主要作家となった。ここでは、その堀が新文学のよりどころとした20世紀同時代のフランス文学、とくにアポリネール、コクトー、ラディゲらの詩文について堀がどのように翻訳しエッセイを書いたか、それらをどのように自己の文学の創造の糧としたか、まずその実態を整理し報告するところから始めたい。
大正15(1926)年から昭和5年までの5年間に堀は、圧倒的な量の翻訳をこなし、その間『ルウベンスの偽画』から『不器用な天使』を経て『聖家族』に至る初期代表作を発表している。ここに、西欧のモダニズム受容による〈日本モダニズムの旗手〉の誕生がうかがえる。
堀の西欧文学受容は、1高時代の「フランス象徴派の詩人の作品」を中心とした受容から、東大時代のアポリネール、コクトーらの所謂〈エスプリ・ヌーボー〉の受容へと転換をみせている。その転換は、すでに大正14年の神西清宛書簡などで明らかだが、明確にその姿勢が打ち出されたのは、翌大正15=昭和元年4月の「驢馬」創刊号においてだった。それは、「杖のさき(アポリネエルその他」)と総題するアポリネール、コクトー、サルモン、ジャコブ、カルコの詩8編の翻訳だった。続いて「ジャン・コクトオ詩抄」「マックス・ジャコブ詩抄」「ギヨム・アポリネエル詩抄」などを「驢馬」に発表するとともに、エッセイ「石鹸玉の詩人」「アルテユル・ランボオ」「貝殻と薔薇」「ギヨム アポリネエル」を発表してゆく。近年私は、それらの翻訳とエッセイの引用の東について逐一原典を特定する作業をしてきたが、現在の段階で報告できるところを挙げてみた。そこに、すでに大正14年『月下の一群』を出した堀口大学の翻訳がいかに多く重なるかも明らかとなろう。また、それらの原典がどのように受容され、堀の創造、つまリオリジナルにどのように影響、反映したかの一端をここで報告させていただく。従来指摘されてきた詩「病」の「小鳥よ肺結核よ/おまへが嘴で突つくから……」とコクトーの「夜曲」の「僕の骨の森の中で……」との影響関係は無論、詩「天使達が……」についても各パートが、コクトーのみならずアポリネールの詩句と呼応することも指摘できる。
コクトーの愛した少年――20歳で夭折したラディゲの影響については明確な形で取り上げられる――は、昭和4年4月の『コクトオ抄』出版以後だが、ここでは、〈エスプリ・ヌーボー〉とラディゲの初期堀文学における混交をできるだけ選り分けつつ考察することになる。