死の物語研究
―文学、哲学、ライフヒストリー、ナラティヴ・アプローチ―
死の物語研究
―文学、哲学、ライフヒストリー、ナラティヴ・アプローチ―
本研究は、戦争経験等において直面せられた死について、語られたことをどのように記していくか、記されたことを何も知らない方々にどのように照射していくか、という問題に取り組むために、記されたことの読み手に対する迫真性、語り手の語りとその内実に照らして、文学・哲学・社会学(ライフヒストリー研究、ナラティヴ・アプローチ)の側面から「死の物語」の諸相を総合的に捉える事を目的とする。研究スタッフ・役割分担は次のとおりである。
研究代表者 役割分担
竹内 清己 研究員 研究総括・戦旅の文学の研究
研究分担者 役割分担
朝比奈 美知子 研究員 フランス19世紀文学における死の言説
原田 香織 研究員 能楽における死の語り
野呂 芳信 研究員 詩に語られる死
中里 巧 研究員 フィールドワークにおける死の物語
大谷 栄一 客員研究員 死についてのナラティヴ・アプローチの可能性
川又 俊則 客員研究員 老年期における死の語り
本年度の研究調査活動は、以下の研究計画に従って行われた。
研究に先立ち、研究メンバー相互の役割の確認と研究の進行について調整をするため、打合会を開催。
竹内清己:文学作品における死の語りの研究日本海軍の軍港広島呉の調査
朝比奈美知子:19世紀を通じて展開される都市の放浪のエクリチュールから、精神的な死をつねに抱く「喪」のイメージを探る。研究にあたっては、文学作品とともに、当時のパリに関する資料を重点的に収集したうえで検討する。
原田香織:能楽における死について、特に修羅ものの壮絶な死の「語り」について検討する。方法としては、文献調査と実地調査(屋島・鳴門・須磨)を行い、修羅ものの魂塊の在り方が、後代へどのような影響を与えたか、考察する。
野呂芳信:萩原朔太郎の死に関する言及死〈に関連する一般的言及、他者の死についての言及、自死に関する言及〉の収集と考察
中里巧:オホーツク海沿岸域およびアイヌなど先住民族を中心とした現代における伝統的死生観とターミナルケアの調査。
大谷栄一:山梨県南巨摩郡増穂町の日蓮宗寺院における、参与観察とインタビユー。甲府市内にある山梨県立図書館での文献調査。
川又俊則:東京・大阪にある私設自分史図書館および愛知県春日井市にある自分史センターなどに所蔵されている自分史の検討。
以上の研究について、研究会を年3回開催。公開とし、参会者のレビューを受けると同時に研究者間の討議を行う。
学外文学研究者を招いての公開講演会の開催。
年度末に研究報告会を開催し、課題の提示と来年度への計画の調整を図る。
次に、今年度の研究経過を報告する。
本研究所プロジェクトが採択されたことを受け、平成19年5月26日、打合会を白山校舎3205教室にて開催。
研究代表者竹内清己は本研究立ち上げに至るまでの経緯として、「文学文化テクストに見る中高齢期の研究」を進め、また、葬制・墓制にみる死生観の研究、死の準備教育を研究テーマとする研究に研究分担者として加わってきたことを述べ、伊藤桂一等の戦旅の文学や『シリーズ物語り論』、戦争論等関係する既研究、文学にみる物語性に触れたあとで、『戦争はどのように語られてきたか』(朝日新聞社)等を通じて、死の受容による生の充足、物語の幻想性、個人の立場から個人の生死を通して歴史を顧みる視座、国家構造や経済体制の分析、群集心理学やイデオロギー的な検討を踏まえ、死の物語の諸相がどのように捉えられるのか問題提起した。そして研究分担者の原田研究員より能楽に見る死の物語、中里研究員より北欧ホスピスやフイールドワークにおける死の物語性、川又客員研究員より「自分史」の研究にみられる老年期の死の言説が語られ、相互に研究を進めていく方向性を確認した。
本研究の本格的調査や文献研究に先立つ一歩としての研究発表会を6月30日に開催。発表者は原田研究員。発表題目は「死を謡う―金春禅竹における哀傷―」で、禅竹における「恋慕」と「哀傷」、魂塊における魂の永遠性と世界から離れてしまう物哀、また金春禅竹の『楊貴妃』の悲劇性を取り上げながら、華やかな美を覆う無常の提示による死の物語のあり方を披露した。
そして研究代表者、研究分担者は研究調査活動に入る。代表者の竹内は、9月25〜28日に広島、呉を調査した。広島の字品港を展望し、字品港の字品波上場公園にある元軍用駅跡や保存されている旧陸軍の「六管桟橋」を見やりつつ、字品を発った国木田独歩の「愛弟通信」、正岡子規の「陣中日記」、田山花袋の「第二軍従征日記」に描かれる光景と対比した。また、広島平和記念資料館においては、被爆の語りに注目し、「原爆体験記」を検討。江田島では、菊村到の「あゝ江田島」に関連して、江田島の「教育参考館」に展示される特攻隊の辞世の書類を調べる。そして、呉では、「旧海軍墓地」から「入船山記念館」に入り、「呉海軍鎮守府司令長官官舎」「郷土館」の資料を閲覧した。
中里研究員は9月25〜28日、網走・常呂遺跡関係の調査を行った。まずは網走北方博物館において、シャーマニズムやオホーツク海域の少数民族の生活実態の調査。そして登呂遺跡の調査。登呂遺跡の森博物館・登呂遺跡埋蔵文化センター・東京大学登呂遺跡陳列館を訪問する。擦文文化とオホーツク文化の接触について詳細に埋蔵文化センターの学芸員から話を伺う。この調査において、社会的には相互扶助と平和志向的なアニミズム観についての知見を得たという。
大谷客員研究員は8月23〜27日に山梨県南巨摩郡増穂町の日蓮宗寺院における参与観察とインタビュー、および笛吹市内にある山梨県立博物館、甲府市内にある山梨県立図書館での文献調査を行った。南巨摩郡増穂町の日蓮宗寺院において、生と死の捉え方、施餓鬼会の意義と法要、仏教の役割について、また当該地域の講についての話を伺う。
川又客員研究員は9月5〜6日に大阪天王寺区の新風書房を訪れ、私設自分史図書館にて、未見の自分史および自分史を題材とした研究を閲覧した。また、新風書房会長で自分史講座を行っている福山琢磨氏に面会し、氏が毎年刊行している『孫たちへの証言』に関する話を伺う。この調査結果が、後に述べる研究発表に見られる成果につながる。また川又客員研究員は、9月18〜21日に、東京中央区。新宿において私設自分史図書館に所蔵されている自分史の調査(自費出版図書館、キリスト新聞社、自費出版ネットワーク)、自費出版図書館館長伊藤晋氏へのインタビューを行っている。
こうした研究成果の発表については、まず10月20日の研究発表会において示された。甫水会館201室にて開催されたこの研究発表会において、中里研究員が「祖霊を語り伝える2つの現場から―大学教養教育と北海道オホーツクー」、川又客員研究員が「『孫たちへの証言』で描かれた「死」―1599編の戦争体験記を読む」という発表を行う。中里研究員は現在学生に伝えていくことが困難な精神のあり方について、いかにリアリティをもって伝えるかを映画『奇跡の人』等のワンシーンを交えながら議論し、また、オホーツク文化の精神性をいかに語り伝えていくかを検討した。教壇に立って語る立場において、非常に参考になる発表であった。川又客員研究員の発表は、上記の調査結果を反映したものであり、戦争体験というテーマで「死」がどのように描かれたのかを分析した。そこで、会場に訪れていた70歳代の参会者よリコメントや意見が述べられ、資料研究の成果と実体験者との語りが饗応するという、非常に貴重な場となった。 また、12月1日には、大谷客員研究員が「死の語りにおけるナラティヴ・アプローチの可能性」に関する発表、東洋大学文学部の教授を務められた中島尚・千葉大学名誉教授による源氏物語と死に関する講演が行われた。
以下に、研究調査活動を行った調査者のテーマ・期間・調査地および調査報告と、研究発表会、公開講演会の概要を記す。
研究調査活動分担課題
「死についてのナラティヴ・アプローチの可能性」に関する研究調査
(山梨県南巨摩郡増穂町の日蓮宗寺院における参与観察とインタビュー、および笛吹市内にある山梨県立博物館、甲府市内にある山梨県立図書館での文献調査)
大谷 栄一 客員研究員
期間 平成19年8月23日〜8月27日
調査地 山梨県南巨摩郡増穂町及び笛吹市、甲府市
地域社会の宗教的・民俗的伝統にねざした「死の物語」を、物語の供給者(僧侶)の意識と実践、受容者(檀信徒)の意識と実践の双方から検討していくことが本調査。研究の課題である。それを、聞き取り調査と歴史的資料から明らかにすべく、今回は聞き取り調査と文献調査を実施した。
まず、23日、山梨県立博物館を訪れ、事前に閲覧申請していた江戸後期から大正期までの信徒集団・題目講の史料を閲覧する。
翌24日、南巨摩郡増穂町の日蓮宗寺院・昌福寺の岩間湛教氏(35歳)を訪れ、生と死の捉え方、施餓鬼会の意義と法要、仏教の役割について伺う。
25日には、同町の日蓮宗寺院・真浄寺の秋山湛勇氏(80歳)を訪ね、当該地域の講(南條講、13日講)の活動(現在は消滅)について貴重なお話を伺った。また、この日は、同町の町民図書館にも行き、増穂町の郷土資料を閲覧。
26日は山梨県立図書館に行き、身延山久遠寺の身延文庫の目録や山梨の葬送儀礼に関する文献を閲覧。今後は法要への参与観察も取り入れた包括的な調査を行う予定である。
分担課題
「老年期における死の語り」に基づく調査
(私設自分史図書館に所蔵されている自分史の調査、代表福山琢磨氏へのインタビュー)
川又 俊則 客員研究員
期間 平成19年9月5日〜9月6日
調査地 大阪市天王寺区(新風書房、ブックギャラリー上六)
株式会社新風書房内に設置されている私設自分史図書館「上六Bookギャラリー」にて、近年に刊行され、出張者が未見の自分史および自分史を題材とした研究を検索・閲覧した。甲南女子大学で自分史を授業に活用している島田博司教授、自分史調査をもとに教育心理学の分野で博士号を取得した山田典子氏などの研究を確認し、全国各地で活動を続ける自分史友の会の年報等を読み、今後のインタビュー調査につながりそうな該当者をリストアップした。
新風書房会長で自分史講座を東京・大阪等で長年行っている福山琢磨氏に面会し、氏が毎年刊行している『孫たちへの証言』20集刊行に関する様々なお話をうかがった。同書に関してはテレビ・新聞等のメディアで取り上げられるが、社会学的視座の研究はないことをうかがい、現在その方面で出張者が分析を進めていることを報告、今後の研究協力も快諾していただいた。
分担課題
「老年期における死の語り」に基づく調査
(私設自分史図書館に所蔵されている自分史の調査(自費出版図書館、キリスト新聞社、自費出版ネットワーク)、自費出版図書館館長伊藤晋氏へのインタビュー)
川又 俊則 客員研究員
期間 平成19年9月18日〜9月21日
調査地 東京都中央区日本橋蛎殻町東京都中央区日本橋蛎殻町(自費出版図書館)、東京都新宿区新小川町(キリスト新聞社)、東京都中央区日本橋小伝馬町(NPO法人日本自費出版ネットワーク)
キリスト新聞社にて、自分史の出版状況について、一定程度あるが格段には増えていない現況だった。また、同社で刊行されたものなど所蔵する自分史を確認した。
自分史および自費出版の動向を、日本自費出版ネットワークにて確認した。地方の印刷社・出版社等が文化活動として定着するためにも自分史友の会や自分史図書館を作っている状況だった。
自費出版図書館にて、所蔵する3万冊以上の蔵書から本研究の目的に適う自分史をリストアップした。主に「闘病」「看護」「遺稿集」を中心に、現在生存可能性の高い人物(来年以降インタビュー予定)で、内容が充実しているものを50冊ほど挙げた。伊藤晋館長にこの10年ほどの動向や、他の自分史図書館等の状況などをうかがい、今後の本研究に対する協力を快諾していただいた。
分担課題
「フィールドワークにおける死の物語」に基づく調査
中里 巧 研究員
期間 平成19年9月25日〜9月28日
調査地 網走(常呂遺跡関係)
9月25日:網走北方博物館において、シャーマニズムやオホーツク海域の少数民族の生活実態の調査をおこなう。また、網走現地の宗教実態について聞き取り調査をおこなう。
9月26日:登呂遺跡調査をおこなう。これに関してとりわけ、登呂遺跡の森博物館・登呂遺跡埋蔵文化センター・東京大学登呂遺跡陳列館を訪間する。とりわけ、遺跡の森博物館の調査と、埋蔵文化センターで学芸員から詳細にはなしをうかがう。話題はとりわけ、擦文文化とオホーツク文化の接触についてである。さらに、登呂遺跡の広範な地域全般の立地について訊いた。
9月27日:東京大学登呂遺跡陳列館でコレクションの写真撮影を行う。
9月28日:西5線バス停付近の登呂遺跡現地の調査を行う。また、網走郷土博物館において、3日間の調査について確認や照合を行う。
分担課題
「戦旅の文学の研究」に基づく調査
竹内 清己 研究員
期間 平成19年9月25日〜9月28日
調査地 広島(平和記念資料館他)、呉
「死の物語研究」のなかで「戦旅の文学」は、まさに死生極まる臨場を集約的に表現することにおいて貴重な資材を提供する。その場合、「軍港」というトポスは出征の出入り口として様々な物語を生んできた。この度、日清、日露戦争以来第二次大戦・太平洋戦争終結まで、日本軍の大本営がおかれた広島地区、とくに陸軍の字品、海軍の呉、江田島を実地調査し死生の物語を採集した。
日清戦争において国民新聞社の従軍記者として字品を発った国本田独歩は「愛弟通信」を、同様に日本新聞社の正岡子規は「陣中日記」を、日露戦争では軍医森鴎外(林太郎)は「うた日記」、田山花袋は「第二軍従征日記」を残している。まず元字品の丘から対岸の字品港を展望した。字品港の字品波上場公園には元軍用駅あと、旧陸軍の「六管桟橋」が保存されていた。
世界最初の原爆被爆の地広島市街。「広島平和記念資料館」歴史。被爆の語り。音声が聞ける。無数の詩と文学の部隊。「原爆体験記」を読む。
江田島の「海上自衛隊」は、旧海軍兵学校の校舎の「大講堂」「生徒館」がそのまま使われていた。菊村到の「ああ江田島」。「教育参考館」には兵学校の歴史、特攻隊の辞世の書類が展示される。
呉港の「大和ミュージアム」に戦艦大和の10分の1の実物。吉田豊の「戦艦大和の最期」。「旧海軍墓地」から「入船山記念館」へ。「呉海軍鎮守府司令長官官舎」「郷土館」の資料を閲覧。
分担課題
「能楽における死の語り」に基づく研究調査
(能楽、とりわけ修羅ものの舞台に関する実地調査)
原田 香織 研究員
期間 平成29年12月22日〜12月24日
調査地 須磨(兵庫県)、屋島(香川県)、鳴門(徳島県)
「死の物語研究の課題」において分担課題である死の語りの舞台は、源平の古合戦場が中心となるが、まさに死に臨んでの悲壮感漂う情景を確認すべく、調査を実施した。
22日は雨天強風であったが、兵庫県須磨地区にある須磨寺・1の谷の古戦場・須磨浦・敦盛塚・須磨浦山上を踏査し、修羅物『敦盛』・『忠度』・鬘物『松風』の舞台を調査した。雨天のため山上からの展望は不可能であった。
23日は曇天で香川県高松市屋島において、安徳天皇社・屋島寺・那須与一の扇の的の伝承の場。義経弓流し。平家船隠しの場など屋島合戦の場を踏査し、修羅物『八島』(屋島)の舞台を調査した。源平合戦の遺品は屋島寺宝物館にあり、源平の古合戦場は船戦で、現在崖になっているため山上からの確認となった。
24日は徳島県鳴門市の鳴門浦「土佐泊」。小宰相墓を踏査し謡曲『通盛』の舞台を調査した。謡曲における死の場面が確認でき有意義な調査であった。
研究発表会
平成19年6月20日東洋大学白山校舎3203教室
死を謡う―金春禅竹における哀傷―
原田 香織 研究員
「哀傷」とは、死者を悼み悲哀の念を示すものである。金春禅竹『五音三曲集』の理論の中では、「哀傷」は夢幻に漂う亡魂を表現する場合(魂塊体)と無常の理を示す場合(物哀体)に分かれる。禅竹は、五音理論において「恋慕」と「哀傷」との関係に関して、隣接する領域にありながらも「諸曲を極め尽くして、恋慕の深さに猶染め勝らん哀傷の色をあらはし謡はん事、一大事とも云つべし。たとへば、諸木の冬枯になり果てたるがごとく也。」と、「恋慕」を「哀傷」に包摂しつつもその上位概念に定位する。これにより、「哀傷」の範疇がより切実な心理状態を伴い、生前の両者の関係性から死後に到るまで連続する恩愛の情を示す。それを「冬枯れの木」の比喩により「枯淡」に示すことにより、空間を異にする美的な情感を醸成する。これは中世文学独自の美的な達成と言えよう。
具体的な作品として、「哀傷曲舞」「反魂香」や『楊貴妃』等の詞章をめぐり、死の世界に愛が入り混じる様式性を追究した金春禅竹独自の「哀傷」の表現性について検討した。
特に『楊貴妃』の作品世界は、自楽天の『長恨歌』を典拠とするが、死後の世界の存在、魂の永遠性を伝える思想があり、死者との交流を認めるものである。作品内で、魂塊のありかを捜すが、死後の世界は茫漠として「上碧落下黄泉」といくつもの層に分かれている。楊貴妃が死後存在した層は、仙界であり蓬莱宮という空間であり、審美的で幻想的な要素が強い。死者の魂塊は生前の要素すなわち容姿や価値観をそのまま維持すると考えられており、黄泉国の不浄はなく、天界に近くまた唐の時代を模した宮殿など上流社会の美がある。ここで楊貴妃の悲哀の美の強調をし、悲しみの中の美しい容姿と優艶さを伝えるが、それは無常観および死の思想に繋がる。死を語りつつ、諦念を導入しようとする点に謡曲の独自性があるが、諦念は謡曲の中ではシテの直接表現ではなく、死によって別離が齋され、その別離が恋慕の情を掻き起こし、さらに一層現世への愛着を感じる楊貴妃が往年の舞いを舞うという展開の背後にある。
つまり、謡曲独自の思想として、楊貴妃の悲嘆性の中に、仏教的な会者定離や輪廻転生、未来永々の流転という思想を入れる。楊貴妃は輪廻転生の思想での前世諄は上界の諸仙という格の高い存在であるが、人間界に降りたために悲嘆を得るのである。
この絶望感の強調。無常の理と感情的な絶望感、悲嘆性を交互に入れることによって、律しきれぬ人間感情の深淵を伝える。しかしながら、悲嘆が濃ければ濃いほど、死後の世界に留められた魂塊の非力性を伝えることになる。歎きは何を生み出すか、という問題にも繋がる。それによって、背景にある仏教的な教えが際立つのである。最終的には禅竹の世界が、華やかな美を覆う無常の提示により中世的な審美性の1種の様式であることを指摘した。
研究発表会
平成19年10月20日東洋大学甫水会館201室
祖霊を語り伝える2つの現場から
―大学教養教育と北海道オホーツクー
中里 巧 研究員
1.大学一般教養科目「応用倫理学」の事例
応用倫理学は、西欧哲学の範疇であり、一見しただけでは東アジア文化特有の「祖霊信仰」とは無関係に思われるであろう。しかし西欧哲学の人間理解の伝統は、精神・心理・身体の3区分法であり、とりわけ精神は神の似像・神の分有として捉えられ、永遠・理性・不滅の依拠する場所であり人間存在の尊厳の在処であった。この精神は、霊魂不滅という仕方で捉えられもしてきた。現今の学生は、こうした精神に対する理解が不得手であり、学生たちに精神というものをリアルに伝えるのは、容易なことではない。ここではひとつの試みとしておこなっている映画「ビルマの竪琴」「ガンジー」「奇跡の人」による視聴覚教育や死生学レポートの事例について、報告する。
映画『ビルマの竪琴』のなかで私が学生たちに見せるのは、「屍の山」というシーンである。私は学生たちに質問して、君たちは死後自分自身の墓を必要とするかどうかと尋ねると、彼らの大半は、墓を必要としないと答える。私は今1度質問して、では君たちのご両親が不幸にも亡くなられたとき、君たちは墓に埋葬することはしないのか、と尋ねると、両親のばあいは墓に埋葬したいというのが、大半の学生の答えなのである。これは興味深いことである。なぜなら、死という出来事は形而上学的な事象ではなくて、社会的―対他的な事象だからである。
私は、かつて『残された人々への手紙』と題する遺書をレポートとして学生たちに書いてもらったことがある。これは授業のひとつの課題であり、ターミナルケア教育の一環としておこなったのであった。学生たちに対して、彼らが終末期癌患者であり余命2ヶ月であるという条件を与えて、終末期患者の気持ちを追体験する目的で『残された人々への手紙』と題する遺書をレポートとして書いてもらつたのであった。1000通近い遺書レポートが私の手元に集まった。それらすべてを読んでみて、学生の年齢・家族構成・経済状態などによって、『残された人々への手紙』が帯びている死のリアリティの深さに違いが生じていることに気づいたのであった。1部(昼間部)の学生たちのうち18歳〜20歳の者たちのレポートは、死の理解がステレオタイプであるのに対して、2部(夜間部)の学生たちのうち30歳を超え所帯を持っていたり主な家計の担い手であったりする者たちのレポートは、両親・兄弟姉妹・妻・子供・恋人・友人・恩師などへの配慮がきわめて具体的かつ個別的であり、死の理解の内実がきわめて豊かだったのである。むしろ私が、学生たちから重大な事実を教えられたわけである。その重大な事実とは、死のリアリティをめぐる理解が社会のなかで人間関係を様々に育むなかで培われるということであり、決して形而上学的―抽象的思索のみを以てしてえられるものではないということである。
リチャード=アッテンブロー監督『ガンジー』を取り上げるとき、私が学生たちに見せるシーンは、「製塩工場におけるサティヤーグラハ運動」、「1947年の暴動とガンジーの断食」である。
私が学生たちに質問するのは、たった1人の人間の断食によって一体なぜ、インド全体に波及した暴動が収束しうるのかということである。こうした出来事こそ奇跡と呼ぶべきではないだろうか、と学生たちに問うてみるのである。
形而上学や既成宗教は、奇跡の事実を前提してしまう。しかし前提してしまうと、奇跡が有するリアリティや驚嘆は、消失するのである。奇跡のリアリティや驚嘆が消失するということは、奇跡を体験しないことに等しい。前提するということは体験するということとは異なる。前提するということは、前提する当体については不間に付するということであり、前提する当体について精査しないということであり体験を必要としないということである。
アーサー=ペン監督『奇跡の人』のうち私が学生たちに見せるのは、「ウォーター」というシーンである。映画のなかのヘレンは、水を理解して「ウォーター」と声に出して言い、続けて自分から地面を両手で叩いてそれがgroundであること、井戸を叩いてそれが pumpであること、本の枝をつかんでそれがtreeであること、玄関の階段や鐘を叩いてそれらが stepやbellであること、そして両親をつかんで mamaとpapaであること、サリバン先生をつかんでteacherであることを一挙に理解するという、劇的展開を見せる。
実際にこのとき、ヘレンはすべてを知ったのであろう。世界が一挙に開かれたのである。その世界は、それまで指文字をとおして覚え込まされてきたようなたんなる知識ではなくて、リアリティそのものである。リアリティとは、そのなかで実際に自分自身が生きているという実感に他ならない。
2.北海道オホーツクの樺太協会活動と古代文化
樺太協会の活動は、樺太(サハリン)引き揚げ者による慰霊やサハリンとの交流が主であるが、その背景には望郷やアイデンティティの問題がある。また古代オホーツク文化は、シャーマンの呪術用具などをとおしてその精神性がきわめて高度であったことがわかる。アイデンティティ問題や先史文化の質は、ローカルな無文字性に依拠している。古代オホーツク文化には、日本人の日常性を支える世界観や価値観の深層が保存されているように思える。西ヨーロッパの世界観や価値観とは異なって、自然との皮膚感覚に類似した接触をとおして、神聖・崇高・生命・畏敬等の聖性を理解する神話的―古層的―アニミズム的能力が基層となっているように思われるのである。またそうした能力は、今なお日本人のなかに何らかの仕方で継承され根強く残っているように思われるのである。こうした能力は、西洋哲学では感性と知性の間に埋もれてしまうか、1種の生理的感覚に還元されてしまうか、単純な幻覚や知的誤謬とみなされるか、忌避すべき宗教性と受けとらえるか、いずれにしてもこうした能力は西洋哲学では隠蔽する方向にむかう。
研究発表会
平成19年10月20日東洋大学甫水会館201室
『孫たちへの証言』で描かれた「死」―1599編の戦争体験記を読む
川又 俊則 客員研究員
『孫たちへの証言』は、1988年より毎年刊行されている戦争体験談シリーズであり、2007年には20集が刊行された。近年は、第二次世界大戦の体験者ばかりではなく、その子・孫世代による投稿も多い。戦争体験談を綴つた書物は数多あるが、一定の編集方針に基づき20年も続けて刊行されているなど、このシリーズは類似書とは異なる特色がある。原稿用紙4枚という字数制限のため、執筆者の半生を描き切ったとは言えないが、自分史研究の1つとして、テーマを限定し、事例の典型性を抽出する考察は可能であろう。そこで、発表者は今回、この『孫たちへの証言』において、「死」がいかに描かれているかを読み解こうと試みた。
まず、実際に戦闘を経験した執筆者は、戦闘場面や沈没などで「死」が描かれていた。猛烈な射撃戦、「他人を殺す」という戦場体験、亡友の小指を遺骨として持ち帰ったことや、駆逐艦の撃沈で海に投げ出され、多くは海の彼方に消えるも自らは幸いに助かったなど、各人が日の当たりにした様々な「死」の場面が詳細に描かれていた。南方戦線においては、撤退で餓死が続出し、死骸を見ても誰も埋めないほど感情を喪失した状況などが記述されていた。戦後のシベリア抑留でも、「朝起きたら、隣に寝ていた友が死んでいた」など、当然ながら、兵士たちにとって「死」はたいへん身近なものであることが示されていた。
これに対し、銃後の人びとたちの戦争体験に関しても、広島や長崎における原爆、東京や大阪・他の都市における空襲、そして大陸からの引揚げなどで様々な「死」が描かれていた。とくに、焼け焦げた死者、川を流れる死体などが、「地獄絵巻」との表現で、何十年を経ても決して忘れられない場面だと述べられていた。また、当時の家族たちの「死」を丁寧に綴っている者も多い。栄養失調で亡くなった者、焼夷弾の直撃で即死した者など、生前の暮らしを含めて、戦争を体験した自分たちの姿を、あるいは戦争で亡くなった家族達のことを、後の世代へ伝えたいとの意図が読みとれる。
今見たような記述は、決して「物語」としてではなく、執筆者たちにとって1つ1つが「歴史的事実」として語られるのが、このシリーズの特色の1つだろう。さらに、孫世代のなかで、それを受け継ぐ動向があることは見過ごせない。亡くなった祖父から生前聞いた話を投稿した者もいるし、日記等の記録をまとめ直した者もいる。祖父母世代の「生と死」が綴られている「戦争体験」は、戦争を全く知らない現代の孫世代に、少しずつでも、受け継がれつつあるのである。
研究発表会
平成19年12月1日東洋大学白山校舎6301教室
「死の物語」研究におけるナラティヴ・アプローチの可能性
大谷 栄一 客員研究員
近年、人文科学・社会科学の諸分野で、「物語(narrative)」に対する注目が集まっている。こうした研究動向を踏まえ、本報告では、近現代日本社会における「死の物語」研究におけるナラティヴ・アプローチの適用可能性について考察した。
日本人の伝統的な「大きな死の物語」を形作ってきたのは、「家」や村落社会という社会基盤に支えられた「神」「仏」「先祖」のリアリティと慣習的な儀礼だが、(慣習的な宗教行動のみが取り残されたように存在する)現代日本社会において、「死の物語」ははたしてどのように変容したのだろうか?
個人が自分では体験できない「死」という現象を、ナラティヴ・アプローチは次のように分析する。「死」そのものは体験できないが、それを「物語」として理解することはできる。つまり、「死」が語られることで、その個々人の「死」をめぐる「さまざまな出来事や経験や意味」が「整理」「配列」されて、「ひとつの物語が構成される」(cf.野口裕二『物語としてのケアーナラティヴ・アプローチの世界へ』医学書院、2002年)。研究者は、調査対象者の「死」の語りの分析を通じて、その調査対象者の「死の物語」にアプローチすることができるのである。
現代日本社会では、「公的な死の物語が不在となり、代わって死の物語は私的な物語として案出せざるをえないものとなった」(澤井敦)。つまり、「大きな死の物語」の不在と、「小さな死の物語」の群立という状況が、現代日本の「死の物語」をめぐる様相である。ただし、「死」に関するマスター・ナラティヴ(大きな物語)が不在(あるいは脆弱)でも、「一定のコミュニティのなかで機能するモデル・ストーリー」(桜井厚)はあるのではないか。
「死の物語」研究の課題としては、このモデル・ストーリーや、個々人の「小さな死の物語」を、ナラティヴ・アプローチを通じて、分析し、明らかにすることであろう。また、「死の物語」の個人化に対して、「死の物語」の共同化という動向にも注目すべきである。それは、「死の語り合い」という新たな共同性の生成と形成の動向である。具体的には、セルフヘルプ・グループ(自助集団)や市民運動、新たな試みをしている伝統的寺院等の存在が挙げられる。「小さな死の物語」を紡ぎあい、共有することで、新たな社会関係を築き上げることの重要性に注目する必要がある。これらの小グループは、個々人にとって、リアリティのもてる「死の物語」を提供しており、それは、個々人にとっての自覚的な「小さな死の物語」の保持を意味する。
こうした個人の「死の語り」や、集団の「死の語り合い」にアプローチすることで、現代日本の「死の物語」を調査。研究の対象とすることができるのではなかろうか。
公開講演会
平成19年12月1日東洋大学白山校舎6301教室
物語の死―源氏物語の方法―
中嶋 尚 千葉大学名誉教授・元東洋大学文学部教授
源氏物語は「死」をテーマにして書かれた作品とは言いがたいが、平安時代の物語文学の歴史を辿ってみると、他の作品には考えられない、「死」をキーワードにした場合の特別な問題が存在しているように思われる。今回はそれを、1源氏物語の構造から 2源氏物語の主要登場人物の描かれ方からの2つの視点を設けて考察する。
1については、光源氏の登場している時間帯における、桐壺巻の桐壼更衣・御法巻の紫上、薫の登場している時間帯における、総角巻の大君・浮舟巻の浮舟と、その最初と最後とに女人の死ないし失踪が配されている構造と整理できる。いずれも、その死を悼む男性の存在があり、その哀惜の気持を通して、忘れられざる存在としての代替的な人物を産み出す形をとる。時間は当初の人物から次なる人物へとふつうに流れるとともに、当初の人物を次なる人物を介して追憶する、逆流する形を作り出してくる。桐壺更衣の死は「横ざまなる死」と表現されたが、浮舟の死も同様の表現で示される。男と女の愛恋の世界で、添いとげられない悲しみがこのような強い表現を生み出すのだが、その背景に、桐壺更衣の場合は自居易の「長恨歌」が、浮舟の場合は「生田川伝説」などがあって、その異常といえる事態を不自然でなく了解しうる形になっている。更に、前者の場合は、「家」の繁栄への望みがからみ、後者の場合には、むしろ「家」から認知されないものとして描かれ、それをカバーするものとして宗教的世界が提示されてくる。
2については、個人の生きている過程で、死に類似する場と、そこからの蘇生・復活が描かれている人物が、光源氏・紫上・浮舟の3名に設定されているらしいことである。光源氏の場合は、夕顔巻がその恋愛(私的)面で、須磨・明石巻が政治(公的)面でのそれである。光源氏はその双方を一身に体現させられたことで、物語の真の主人公たりえたと考えられる。また、若菜下巻の女三宮降嫁における紫上の音悩は、人々に「幸ひ人」の死と噂され、そこからのよみがえりを通して、光源氏と条件を共にする最高の伴侶として扱われることになった。更に、浮舟巻で、浮舟の入水への行程、そこからのよみがえり、また、小野の草庵の老人たちの間での臨死体験は、生きる希望を失った人間に死ねぬ状況を設定して、女人のあり方を突きつめて捉えようとしている。そこには、仏教による救いが手を指しのべているように見えるものの、真の光明は遠く、安易な解決は示されていない。