平成23年12月14日 東洋大学白山校舎第1会議室
平成23年12月14日 東洋大学白山校舎第1会議室
井上円了における神の本体の論証とキリスト教者の批評
―「哲学一夕話』第二篇をめぐって―
佐藤 厚 客員研究員
従来の日本哲学研究において、井上円了(1858-1919)の思想は、「日本型観念論」、「現象即実在論」という流れに位置づけられている。私はそうした位置づけに注意を払いつつも、井上円了の著作ごと解明の研究を行なっている。その目的は2つある。1つは、従来は見過ごされてきた著作のより細かな内容の解析であり、もう1つが、円了の思想を、いわゆる哲学の枠だけでなく、普通の人間がどのように受け止めるべきかを考えることである。
本発表では、円了初期の著作である『哲学一夕話』(以下本書)をとりあげた。本書をとりあげた理由は、第1に、本書には円了思想の基本構造が現れていること、第2には、本書の主題について、キリスト教者が批判的な批評を行なったことによる。よって本書とそれを批評する立場の検討は、円了思想自体の解明になると同時に、それが異なる思想からどのように評価されるかを探るよい材料になり、われわれにとって複合的に円了を判断する材料を提供するのである。
本書の構造は、まず円了先生が、宇宙の原理について、唯物論、唯心論および有神論の2つの類型(神を物心の中にあると見るか、外にあると見るか)の四者を奉ずる弟子たちの意見を提出させ、次いで円了先生が考える真理である「円了」という概念で包括する。本書の価値は、明治初期において、唯物論、唯心論のみならず、キリスト教の神を、同一の土壌に並べ、それらを包括する概念を示したということであり、哲学と宗教を包括する立場を示したことで評価される。ただ、問題点としては、肯定と否定とが混在する「円了」という概念のわかりにくさである。
続いて『六合雑誌』79号(明治20年)に収録された「西のやの主人」というキリスト教者の批判を検討する。批判の論点は、第1に、「円了」概念の不明確さを指摘するものであり、第2に、「円了」概念が新しいものではなく、西洋近世のスピノザが説く汎神論と同じであるというものであった。
この批評について、私は一部では同意し、一部では同意しない。まず前者への批判は、私も一部では同意する。しかし、真理の表現というものが、肯定と否定とが同時に成立する形式になることは考えられるため、批評者が言うように全面的に排除することはしない。続いて後者の問題については、思想の構図が類似する点については同意する。しかし、内容を検討すると、スピノザの説く神は、永遠、普遍という属性を持つのに対し、「円了」の内実は肯定と否定とが同時に成立する大乗仏教の概念が背後にあることが考えられるため、同一とはいえないと考える。
江 戸 期 に お け る 老 荘 研 究 に つ い て
王 迪 客員研究員
江戸時代300年間の近世は、文化の面において、平和で安定した環境の中で、仏教中心を離れて儒学が重んぜられて来た。特に程朱学は尊重されるようになった。ただ、江戸時代は程朱学のみならず、さまざまな学問が起こり、まさしく各学派の開花する時代だったとも言える。西島醇の『儒林源流』は、程朱学、陽明学、敬義学、古義学、復古学、古注学、折衷学、及び考証学の八派に分類している。これらの学派の中で老荘研究と関わりのある学派がどのような研究成果を見せているか、そして、これらの学派に特に老荘関係書物を著した有名な学者を幾人か取り上げて、その老荘に対する見解を論じた。
周知の如く、今まで、江戸時代の程朱学派の泰斗林羅山には江戸初期における老荘関係著書があるが、彼の老荘思想の研究が五山禅僧の系統を受け継いでいることは余り知られておらず、そして、老荘を林希逸の口義で研究したため、江戸中期まで、大いに流行していた。特に江戸初中期、程朱学派の殆どが林希逸の口義を用いて老荘思想を探究していた。ところが、僧侶山本洞雲は、『老子紅諺解大成』の序に「口義之を諸家に比ふれば頗る優と為るなり」と述べながら、『荘子諺解』において、老荘は「老荘の字義で読むベき」とあたかも矛盾する主張をしている。
渡辺蒙庵は『老子』と『荘子』の関係は、『春秋』と『春秋左氏伝』と同じように『老子』は経で、『荘子』は伝であると考え、『老子』を読む前に、まず、よく『荘子』を読むべきだと述べている。これは山本洞雲の「老荘の字義で読むべき」に似ていると言える。江戸中後期になって『河上公章句』を措いて、専ら口義注を用いることは理学者の愚行であると非難した陳元賛もいれば、禅語による老子の解説を退け、王弼注を見るべきだと主張する荻生狙篠もいた。故に、徂徠の弟子宇佐美濤水ははっきり王弼の老子註は旨をしるすとし、口義注のように文章と字句を解説するのではないと述べ、『王注老子道徳経』の考訂を著した。
更に林希逸の解釈は老子経の本文に合わないものが多く、研究者を誤った道に引きこんでしまう恐れがあるとする渡辺蒙庵もいれば、全く諸家の古い注釈を参考せず、専ら自分なりの注解を施す太宰春台もいた。近藤舜政は林希逸を誹り、日義は無用の長語でとりとめもなく注解を施して人の目をくらますと述べ、古注学派の中井履軒も明解な注解ではないと批判していた。老荘思想の研究書である口義本は、室町時代から江戸時代初中期にかけて、長い間老荘学研究の主流を占めていたが、江戸中期になってその研究姿勢に変化が見られ、後期になると寧ろ専ら口義を悪評するばかりで、口義本の終焉期を迎えたと言っても差し支えない。一方、江戸中後期の老荘研究は多岐多様な思考の展開する時代になって来ており、正しく老荘研究の開花期とも言えるのである。
今は無仏時代か有仏時代か?
岩井 昌悟 研究員
ある世界(三千大千世界)において仏がいなくなって から次の仏が出現するまでの期間を「無仏時代」と言う 。 一般的に は 、 1人の仏の入滅後から次の仏の誕生までの時代であると考えられていよう 。 この我々の住む娑婆國土に適用するならば、釈尊亡き後、 弥勒仏が下生するまでの間(一説には56億7000万年の期間) 、 我々は無仏の世にあるということになるであろうか 。 しかしながら南 方上座部の見解にしたがえば、今現在も未だ釈尊の時代が続いてお り 、 今も有仏の世であるかのように伺える 。 パーリ聖典にはそのよう な記述は見出されないが 、 南方上座部の『マハーヴアンサ』や諸註釈書(アッタカター)に「遺骨 が存続している間は仏が生きている」との見解を示す記 述があるからである。
『マハーヴアンサ』(大史) にはスリランカに仏教を伝 えたマヒンダ長老の「遺骨が見られる時 、 勝者が見られる」という言葉を受けて 、 デーヴアーナンピヤテイッ サ王が仏塔を建立するとい う記事がある。また『増支部 註』には「一世界において二人の正等覚者が先でも後でもなく〔すなわち同時に〕生じることはな い」という聖典の文章の中の「先でも後でもなく」という句を註釈す る箇所において 、 「菩薩の結生の刹那」から「般涅槃以降芥子ほどで も遺骨があるうち」は他の仏の出現は遮られると述べ 、 「遺骨がある 間は仏がいるのであるから」と付け加えている 。
しかしながら遺骨が生きている仏と同じであると言っても制限があるようであり、『ブッダヴァンサ』によれば、菩薩の初発心時に仏になるための希求が有効に働くための8つの条件の中の一つに「師に会うこと」(仏を面前に見ること)があるが、これを『ブッダヴァンサ註』は「師に遇うこととは、もし生きている仏のもとで希求するならば、希求は有効である。世尊が般涅槃した時に仏塔のもとで、あるいは菩提樹のもとで、あるいは仏像の前で、独覚と仏の声聞のもとでは希求は有効ではない。どうしてか。可能か不可能かを知って業異熟智・他心智によって決定して授記することができないからである」とある。
一方、説一切有部は「遺骨は生きている仏ではない」という見解を有しているらしい。これは以下の2点からかなりはっきりと見て取れる。ひとつは倶『舎論』の「業品」に見られる議論であるが、仏塔への布施は、受け手がいないのに、なぜ福徳を生じるのかというものである。仏塔に施す布施によって生じる福徳は、施捨に由来する福徳であって、受用に由来しないとする。「受け手がいない」ことが議論の前提になっており、遺骨が存続していても受け手たりえないことを端的に示している。もうひとつはトーイカーという場所において釈尊が迦葉仏の全身遺骨を諸比丘に見せる記事である。説一切有部の見解では、生きている仏と過去仏の遺骨が一世界に同時に存在しても問題がないようであり、これは遺骨が生きている仏ではないことを示すと考えられる。