平成14年10月23日
平成14年10月23日
高見順の戦時下の思索
―南方と大陸、2度の徴用のはざまとそのあとに―
百瀬 久 研究員
左翼運動からの転向後、果たせなかった社会改革の夢を、転向の代償のように高見順は徴用の地・ビルマで実現しようとする。彼の視線に映ったビルマの民衆は自己の投影であった。帰国し1年半後の再徴用では中国大陸で名ばかりの「共栄」を目にし、自己の転向後の在り方への疑間を高見は抱く。その後の高見順の思索が到達したのは最後の作品となった『死の淵より』での境地を予期させるものであった、ということを戦後発表される詩との関連を視野にしつつ戦時下で書き続けられた日記の、特に昭和20年の記述を読むことで考えた。
詩人高見順の出発は戦後と考えられるが、習作を除けば、既に昭和16年から戦後発表される詩は、ノートや日記に書き留められていたことを指摘した。高見順が生涯抱えていた問題が小説という文学形式では克服しえなかったとき、それに代わってなしえたのが詩であったろうことを、小説『故旧忘れ得べき』や評論『昭和文壇盛衰史』と詩を対比しつつ論じた。
さらに昭和16年の詩人としての出発と生前最後に発表された詩集『死の淵より』に強い関連のあることを指摘し、戦時期の高見の詩人としての課題が結果的に人生の終焉の時期に昇華していったことを論じた。また、日記に昭和20年2月に集中して詩が書かれていることに注目し、この理由を小説「馬上侯」との関連において原因を考察した。自己を取り巻く閉塞した状況を打破しえる存在としての詩人に自らがなろうと高見が望んでいたであろうことを論じた。
また、この昭和20年の2月から敗戦までの日記の記述に植物と庶民に向けられた高見の視線に注目し、生命という点で両者が結びつけられることを説きつつ、高見順の生命の発見の契機を論じた。さらに、この時期に発見された生命を尊重する姿勢が詩集『死の淵より』において到達しえた1つの境地をあらかじめ示したものであったことを論じた。
そして、明治40年生れの高見順は昭和40年に、還暦を迎える前に亡くなる。昭和20年は日本にとっても、昭和にとっても、そして高見順にとっても区切りの年であった、として論をまとめた。
百人一首絵について
―東洋大学附属図書館蔵「百人一首絵巻」を中心に―
千艘 秋男 研究所員
歌仙絵は歌合形式に歌人の姿を書き添えたもので、平安末期から盛行をみる。以降鎌倉初期から江戸時代に至るまで、6歌仙・36歌仙・時代不同歌合などを対象に描かれてきた。その形態は様々で、冊子・色紙・絵巻・画帖・扁額・掛物などとして伝存する。遺品としては6歌仙は少なく、時代不同歌合絵にも完本はなく多少の断簡が伝存するに過ぎない。36歌仙絵は佐竹本を初め、上畳本・兼業本等々の多様な逸品が伝存する。
江戸時代に盛行する「百人一首絵」は、36歌仙絵や時代不同歌合絵の流れを汲み、画像も歌仙絵の図柄に多くの影響を受け、専門絵師の狩野派や土佐派の手に成るものは、祖型(範型)が踏襲されて類型的な構図が多い。
百人一首絵は、室町時代以前の作品は見出し難く、その遺品の殆どは江戸時代のもの。江戸時代に入ると、画帖を手始めに、版本・カルタ・扁額などの種々の形態で制作されるようになった。数年前の「奈良絵本百人一首」の出現は世の耳目を惹いた。その公刊は広汎な研究領域に稗益するものである。
近年、私は江戸時代に制作された巻子本と扁額との2点の百人一首絵を調査する機会に恵まれ、その流布状態と文化的享受の実態とを確認することが出来た。
1点は、東洋大学附属図書館蔵の巻子本である。本巻は「小倉百人一首」の全歌人の百図を描くが、絵師は未詳。明和4年(1767)の制作に成る。絵は狩野探幽筆画の系統に属する歌仙絵に淡彩を施した略画で、全長212㍍余の巻子装仕立て。各歌人の詠歌を欠くが、概ね上部に歌意絵を配す。歌人及び歌意絵には彩色を施すための書入れが存する粉本である。東京国立博物館蔵本・南葵文庫本等を再検討する上での好資料と考えられる。
もう1点は、長野県穂高町の穂高神社所蔵の扁額である。絵師は望月章斎、筆者は高島章貞。嘉永2年(1849)の制作で、奉納者は小川国重ほか6名。58歌仙(原形を留めるもの)が現存する。既存の神護寺・厳島神社・牟佐坐神社・八幡神社等の作品に追加し得るものである。
本発表では、これら2点に関して、内容の紹介と現状、画像の特長、百人一首の本文、絵師と江戸狩野との関係等々に関する些かな考察結果を提示してみた。