平成12年12月16日
平成12年12月16日
不二一元論学派における「大文章」について
佐竹 正行 研究員
ヴェーダーンタ学派は、本来ウパニシャッド聖典の解釈学として成立、発展した学派である。申でも″tat tvam asi"などの文章は、「大文章」(Mahāvākya )と)呼ばれ、重要視されてきた。本発表では、不二一元論学派における、この「大文章」と解釈方法に重要な寄与をなしたサルヴァジュニャートマンを中心に、不二一元論学派における「大文章」と解釈方法について考えた。
まず、″tat tvam asi”などの文章で表わされている「大文章」という語について考察する。一般的に不二一元論学派特有の術語と考えられているが、元々は、ミーマーンサー学派などで使用されていた語であり、「複合文」を示す語として考えられていた。さらに、初期不二一元論学派では、″tat tvam asi"に関する言及はあるものの、これを「大文章」と呼ぶ例はなく、「大文章」という語も殆ど使用されていない。
サルヴァシュニャートマンにおいて、はじめて、明らかに不二一元論学派における特別の術語として言及され、使用されている。そこでは、「ブラフマンとアートマンの同一性」を示す、従属的な文章の助けによりその意味が明らかにされる「複合文」であると定義されている。
次にその解釈方法であるが、初期不二一元論学派では、シャンカラによる一致と矛盾の方法がある。それは、″tat″と″tvam"が共通の拠り所を持つもの、同一の対象を持っているものとし、この両方の単語に存在する、または両立する意味を追及していく方法を一致とし、逆に両立しない意味を排除し、両立しうる意味を追及する方法が矛盾として解釈方法を形成している。
サルヴァジュニャートマンは、シャンカラなどによる方法の困難を取り除くために、本来の意味では同一でない″tat″と″tvam"の両者の中の意味の一部、限定であるものを取り除くことで、両者の中の意味の一部分を示し、両者の同一性を証明する、部分的間接表示を作り上げた。
このようにサルヴァジュニャートマンが、はじめて不二一元論学派で「大文章」の語を術語として使用した人物であり、これを″tat tvam asi"などの文章と結び付け、1種の「複合文」と定義した人物であり、そしてその解釈方法として、初期の不二一元論学派の解釈方法を、整理し、体系化して、不二一元論学派の伝統的な方法である部分的問接表示方法を作り上げた人物であり、この問題の考察にとって、特に重要であることを明らかにした。
『マハーバーラタ』における不殺生
高木 健翁 研究員
『マハーバーラタ』は、領地相続を巡るバラタ族の大戦争を描いたインドニ大叙事詩の1つであり、10万頌といわれる長大さのうちにインド文化のあらゆる要素を内包している。
この作品の中から、古来インドで重要なダルマとされてきた不殺生( ahiṁsā)が、どのように扱われているか資料を提示し、次のようにまとめた。
不殺生への言及は、『マハーバーラタ』の大戦争終結後の第12巻(Śānti-parvan )第13巻(Anuśāsana-parvan )に集中している。
不殺生は、他のダルマに優先する「最高のダルマ」であり、ダルマは、「不殺生を柱とし」、「不殺生を印とする」。ここに言うダルマとは、正しい生き方のことであり、正しい生き方とは、現世での繁栄と、次の世での幸福をもたらす諸々の行為のことである。
不殺生は、人間を殺さないばかりでなく、すべての生物を傷つけないことである。これは、心と、言葉と、身体的な行為によって行われるものであり、他者に対しても、自己に対しても行われるべきものである。不殺生はまた、4階級すべての人が、4住期にわたり常に行うべき共通のダルマである。その果報として、現世では健康や長寿が得られ、次の世(死後)には、天界あるいは解脱が得られる。
このような現世での繁栄や次の世の幸福をもたらす不殺生は、言葉や心の制御が「言葉の苦行」あるいは、「精神的苦行」と言われるのに対して、「身体的苦行」と言われ、苦行と同等の果報をもたらすものとも捉えられている。
だが、実際には、生物は、他の生物を殺さずに生きることはできない。また、クシャトリヤ(王族)は、人民を保護するため、ときに戦争や刑罰といった殺生を行う必要がある。さらに、ヴェーダが規定する祭祀(供犠)は、家畜の犠牲を伴う。これらは不殺生に相反するものである。
その者の身になってあえて他者を傷つけないのが不殺生であるが、自已の身体もまた愛さなくてはならない。したがって、身体の維持のための殺生は認められるが、肉食を避けることが勧められる。また、正しい人を保護するための戦争や罪人への刑罰は、クシャトリヤの義務として定められている。
さらに、理想の時代クリタ・ユガにおける祭祀は、家畜を殺さなかったと説く。しかし、実際にそのような祭祀を示すのではなく、苦行の場合と同様に、不殺生を「最高の祭祀」とたとえ、あらゆる祭祀に代わるものとして、ヴューダが規定する伝統と不殺生の調和を図っている。
20世紀モンゴル人の日本留学
―内モンゴルを中心として―
バイカル 研究員
20世紀モンゴル人の日本留学史を、その社会と歴史背景により、初期(1905―1930年)、中期(1931―1945年)、後期(1972―2000年)の3つの時代にわけることができる。
初期時代:モンゴル全地域で、近代学校教育も確立されていない頃、内モンゴルのハラチン右旗グンセンノロブ王と日本語教師河原操子(長野県松本に生まれ、東京高等師範卒)の努力により、1906年3名のモンゴル人少女を日本に送った。これがモンゴル人の日本留学の始まりである。
中期時代:満州国と徳王政府(蒙彊政府)が、数多くのモンゴル人留学生を日本に派遣した。彼らは、善隣高等商業学校、興亜密教学院、長野師等学校、陸軍士官学校、麻布獣医専門学校、東洋大学、早稲田大学、北海道帝国大学、東京帝国大学などの日本各地のあらゆる教育機関で、主に教育学、医学、獣医学、仏教学、軍事科学などを勉強していた。モンゴル留学生は、「留日蒙古同郷会」という組織を持っていたし、『祖国』、『新しいモンゴル』などの定期刊行物を編集発刊していた。戦後、内モンゴルの代表的な文化人は、ほとんどこの時期の日本留学生である。彼らの努力により、中国近代モンゴル文化教育がつくられた。
後期時代:日中国交の樹立により、最初は少数の国費留学生のみであったが、80年代後半から90年代にかけて、日本各地で日本語学校が開校したことをきっかけに、多くのモンゴル人私費留学生が日本に来た。現在500人以上のモンゴル人留学生が日本の各地で勉強している。初期と中期時代の留学を比較してみると、後期時代留学生は以下の特徴をもっている。
1.日本留学前の学歴が高い。国で大学卒業、あるいは大学院修了者も、私費留学生として、日本に来て勉強することがよくある。 2.勉強実績が著しい。これまでに、日本で約20名が博士学位を取得し、博士課程に約60名がいる。
3.研究成果が多い。日本語、英語、中国語とモンゴル語で約200篇以上の学術論文と文章を発表し、約20部の訳著作品共(訳著
をふくむ)を出版させた。
4.日本では大学院終了後、モンゴルに帰る人がいれば、日本や欧米などの先進国で就職する人もいる。
21世紀の新しいモンゴル文化には、彼らの貢献が期待されうる。