平成16年10月16日 東洋大学甫水会館401室
平成16年10月16日 東洋大学甫水会館401室
智証大師円珍の円密一致思想
土倉 宏 客員研究員
〔発表要旨〕今回の発表では、智証大師円珍における円密一致思想と円劣密勝思想との関連を考察した。
円珍(814―891)は円仁、安然と並ぶ日本台密草創期の中心的学匠である。円珍の代表的著書の1つに『大日経指帰』があるが、そこには「法華尚及ばず、矧んや自余の教をや」という1文が述べられる。つまり、大日経(密教)は法華経(円教)以下その他すべての教えに勝れる、と解釈できる1文であり、ここに円劣密勝思想が見て取れるのである。このことから円珍は円劣密勝思想が濃厚な学匠と捉える向きも出てくるのであるが、円珍の著作全般から見ていくとき、必ずしもそうとは考えられないのであり、円珍の思想は円密一致思想という大きな綱格の上に、付随的に円劣密勝思想が展開されているということを本発表の結論として、論証を試みた次第である。
『大日経指帰』には先のような円劣密勝思想を示す内容も確認できるが、全体としては円密一致思想を示す内容が一層多く確認できるのである。例えば、「今大日如来の一切法を説く意は、方に此の秘要を説くなり、倶に是れ終窮円満の教なり」(智証大師全集665下)、「今此に顕す所の常住本地は、即ち彼に指す所の久遠真如なり」(同673下)、等々である。
また『大日経指帰』以外でも、『法華論記』巻5、巻8末、巻9末、『諸家教相同異略集』、『普賢経記』巻下末、『授菩薩戒儀裏書』、『授決集』、『菩提場経略義釈』巻3等に、円密一致思想が展開されており、円珍の基本的立場が円密一致であることが確認できる。
では円珍における円密一致と円劣密勝の関係は如何なるものであるのか。この問題を、安然の『菩提心義抄』における与奪の2論を参考にして考えれば、円珍においても安然と同様、この両者の関係は、第一義的には円密一致、第二義的に円劣密勝という傍正の構造になっていると考えられるのである。円珍にはそのことを明言する文言は見られないが、最澄以来、日本天台が『大日経疏』(『大日経義釈』)の円密一致思想を根本に据えながら自らの教理を構築していったことを踏まえるとき、円珍においてもこのような流れになることは必然であったと考えられる。
以上のような内容で発表を行い、最後に日蓮における台密批判の文献を資料として付し、参考とした。
『修験道修要秘決集』に収められた 「肩箱」「金剛杖」
「引敷」「脚半」など修験道法具について
中山 清田 客員研究員
〔発表要旨〕『修験道修要秘決集』は『日本大蔵経』に収められている。異名を『修要秘決』『修要秘決集』『修験道切紙』『修験修要秘決集』とも称されている。
表題に『修験道修要秘決集』と「道」を入れたことにしたのは、「道」に特別に意味を感じたからである。
編者は彦山の阿吸房即伝(1509―1558)とされているが、本文には署名がない。不慧が元禄4年(1691)に校訂した『修験道切紙発題』により知ることが出来るが、証資料は見当たらない。「肩箱(形箱)」は笈の上にのせる木製破蓋(やぶれぶた)である。破蓋は「観音開き」の扉のことで、長さ1尺8寸、横穴は、高さ5寸の箱で下から白色の索を通して、上布を蓮状にしばってある。
正先達はこの中に「袈裟袋」「折頭巾」等の法具類を、新客は「長頭襟」「螺緒」等々の法具類を入れる。
肩一箱は金剛界を表わし、笈は胎蔵界を表わしている。修験道の金胎一致を表現している。密教思想での金胎不二である。
「引敷」は修験者が入峰修業の時に腰につける皮の敷物である。修行者が獅子に乗ることにより、無明を断じて法性に入ることを表わし、字義は「引」は衆生を引導する意で、「敷」は大日如来の大きさが広大無辺であることを示している。「引敷」は縁覚の乗物であることを示す為に鹿皮で作られる事が多い。
「脚半」は足の保護の為に脛に巻く布製の物である。大峰では、春峰は筒脚半で先が四角形になっている物を用いる。秋峰では上端が剣先形の剣先脚半を用いる。夏峰は金胎不二の脚半で駈路に普通に用いられている。胎、金、胎金不二の思想が「脚半」で表現されている。
羽黒山では、死者の頭につけるものと同様な3角形の和紙をつける。これは、剣先のひもかくしと言われているものだが、修験者が峰で疑似死を表現している。