平成14年1月23日
平成14年1月23日
技術的経験への問い―西田哲学を手がかりに―
相楽 勉 研究所員
クローン人間作成など技術的適用の是非を問う倫理的判断の難しさは、自然に関する我々の理解自体が既に技術的経験の媒介を経ていることに由来する。倫理問題の本来の所在を明らかにするためにも、そういう技術知の本性やさらには人間の知の技術的本性を問う必要がある。本発表は、その手がかりを西田幾多郎の哲学に求めた。
彼の最初の著作『善の研究』(1910)に技術知に関する言及を探すと「知的直観」に辿り着く。これは真実在との合一経験という人知の可能的到達点であるが、その範例が技術や藝術という物の制作行為に求められている。つまり、西田は反省的思惟ではなく知覚の高度化として実現される技術知をこそ人知の理念と考えている。この感覚知の高度化の内的構造の分析が以後の西田の課題となる。
中期の著作藝『術と道徳』(1923)においては、表象同士の識別関係である感覚が「純なる感情」によって活性化される制作経験が「藝術的直観」の名で呼ばれる。単なる快不快や「貪欲」など利害関心に囚われる不純な感情から脱して、その感情の動き自体を「純なる1つの人間性」として経験するような純粋感情こそが、研ぎ澄まされた感覚的識別と結びついて創造行為へ展開するのであり、西田はそれを「大いなる生命」の活動であると語る。
しかしこういう藝術創造も、技法を学ぶ身体的訓練、素材の開発や操作技術と不可分の歴史的経験でもあるっこの制作知的本質と歴史的現実の経験の動きを捉える際立った枠組みが、『哲学の根本問題続編』(1934)以降「弁証法的一般者」や「行為的直観」を鍵概念として語られる。我々は自分の身体を道具としてものを操作したり観察したりしているが、西田はそういう身体は歴史的に形成されたものだと言う。真の直観は突然内心から出てくるのではなく、外なるものを見、他者に出会うことから始まる。身体を持つことにおいてこそ私たちは自分の「個」を超えた「一般」に関わる。「行為的直観」とは他者との関係において物を作る技術的経験の本質のことなのである。
西田の行為的直観概念によって今日の技術と人間の関わりを考えるとどうなるか。高度な機械技術は人間の身体の関与を抹消するように見えるが、むしろそれは我々の身体性の変容をもたらしたと考えるべきである。我々が現代技術によって現に経験しまた経験可能になるのはどのような歴史的身体なのかを問うことが、西田を手がかりに問う哲学的可能性だと思われる。
戯作文学における思想的要素
山杢 誠 研究員
最初に、人情本やその主要作家である為永春水について概観し、そのうえで、春水人情本は、低俗さや完成度の低さ、紋切り型であることなどさまざまのマイナス点も指摘されるが、庶民に最も近い散文の文芸であり、教訓的性格が読者に対して影響力を持っていたことを確認した。そして、全国展開したその広がりと読者の多さの故に、近世後期の庶民文学として無視できない存在であると位置づけをした。
次に、為永春水以前の作家における思想や宗教への関わりを述べてみた。具体的には、山東京伝が国学に少なからず関心を持っており、黄表紙『心学早染草』(寛政2年、1790)の着想がそもそも本居宣長の所説に基づいているものであることを、国学者平田篤胤『古道大意』(文化8年、1811)の記述によって示した。また、春水の師でもあった式亭三馬は、滑稽本『浮世風呂』三編(文化9年、1812)の中で、古典古文を学ぶ女性を描くなど、国学に取材することがあった。ともに、国学が戯作者にとってまったく無縁ではないことを示すものである。
3つめに、春水人情本における「もののあはれ」を巡る説を取り上げた。すなわち、「もののあはれ」を重視する春水の主張は、本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』(寛政11年、1799)の所説に基づくものだという丸山茂氏の説、および、「江戸時代人のごく普通の生活意識として保持されてきた、他人の立場を思いやり、『物のあわれを知る』ことを重視する思想の伝統が、春水の前にはあった」として、本居宣長の影響を否定する日野龍夫氏の説である。
筆者は、これについて以下のように考えた。春水作品中には仏教批判と神道宣布の部分が指摘でき、間接的ではあるが、国学の影響と見られる部分がある。また春水の理解者である文亭綾継は国学者足代弘訓の門人であり、彼を経由した国学の影響というものは十分にあり得る。さらに作品中に本居宣長その人の名も見えており、春水が宣長の著作に全く無縁であったとは考えにくい。確かに、春水の主張する「もののあはれ」については、やはり日野氏の説かれるとおり江戸人の共有した感覚と見るべきであろう。しかし、春水は国学あるいは本居宣長に対する関心も相応に持っていた、と言えるのではないか。
雑誌『救済』にみられる近代大谷派の社会事業観
鈴木 善鳳 研究員
仏教と社会福祉との関係をみていく上で、過去にこの問題がいかに取り組まれたかを知ることは重要である。今回の発表では、明治44(1911)年~大正8(1919)年2月まで大谷派慈善協会の会報として月刊で発行(9号2巻まで)された雑誌『救済』をもとに、当時の教団関係者が慈善活動をどのように位置付け、いかなる思想的根拠で受け止めていたかを考察したい。
本誌記事において浄土真宗の立場からの慈善活動の論理づけをみると、そのいくつかは、「報恩」の思想をもとにしていることがわかる。しかし、さらに大きくいえば、本誌の慈善論の特色は、物質と精神、真諦と俗諦の二元対立から慈善活動が位置付けられている点である。ことに封建教学の概念である真俗二諦の俗諦として慈善活動を位置付ける視点が、多くの記事に提示されている。
慈善活動の上での真諦と俗諦との関係づけをみると、両者を一体とする論(真諦の信仰の上に俗諦の慈善活動は自ずと出るものとする。近角常観、河野純孝等)、両者を別のものとする論(信仰への方便として、また信心の利益としての慈善活動。関根仁応、山崎嶽充等)に大別できる。その位置付けをさらに形態化してみると、(1).二者択一的立場(仏教者は真諦〔精神的救済〕にのみかかわり、俗諦にかかわるべきでないとする立場)、(2).二元分立的立場(両者は位相を異にし、世俗秩序たる慈善は、真諦とは別次元であるとする立場)、(3)真諦一元論(真諦に徹する所に、俗諦たる慈善は自ずと出てくるものとする立場)の3つに分類される。のちの巻では、とくに(3)を信仰的自覚から深めた論稿もみられるようになる。
一方、教団外の人たちも、教団に対してさまざまな期待をよせている。内務省書記官・中川望は、本願寺門徒の人的・経済的動員力に慈善的可能性を期待し、司法省監獄局長・小山温ら司法関係者は、当時未整備だった刑期終了者保護を、広範な門徒層をもつ寺院に期待している。同様の期待は、犯罪防止の機能においてもなされる。その他、同和地区改善等の社会改良、ハンセン病者への対応、地域での情報の拠点としての寺院、リーダーとしての僧侶、その期待に沿うための資質向上への努力が求められている(東京帝大教授・藤岡勝二)。
本誌の刊行期は感化救済から社会事業への転換期で、それ故に時代の模索と社会対応への情熱が垣間見られる記事が多く、今日の社会福祉にも重要な視点を提示するものである。