東西宗教文化の比較研究
東西宗教文化の比較研究
研究調査活動
大地母神信仰をめぐる北欧と日本の比較研究における、ノルウェーとデンマークにおける初期キリスト教会遺跡の調査
中里 巧 研究所員
期間 平成11年8月5日〜8月26日
調査地 ノルウェー アルタ、トロムセー、オスロ、ノツトデン、ダールのStavkirkeの遺跡
デンマーク コペンハーダン、イェリング、バイレの教会遺跡
北欧とりわけノルウェーには、約1000年前に建築されたスターヴ教会遺跡が29残っており、これらの周辺には青銅器時代からの遺跡、最初期キリスト教会の遺跡がみられるが、文化人類学。精神史的観点から調査されたことはかつてない。今回は木造の外壁部carvingを主として調査した。これに関する本格的な調査は、ノルウェーでも行われていない。アルタに残っているサーミ文化の stone carving類似していることが、今回判明した。
ノルウェーにおけるスターヴ教会Stavkirkeは、本の柱と木の壁から成る建築構造物であるが、ここに「スターヴ教会遺跡」と称しているのは、ウルヌス型・ボルグント型建築構造物・宗教祭式の場・精神史的キリスト教以前の古層すなわち石器・青銅器・鉄器時代の墓および祭式の場・carvingが保存されていること・周囲地域の民俗伝承が集約されていること・壁画がみられること・ゲルマン=ケルト的装飾があることなどが、有機的にからみあっている遺跡のことである。carvingは本格的研究がなく、サーミ文化の stone carvingときわめて類似している点は、サーミ文化のcarvingも、スターヴ教会の要素の 1つということを許すだろう。
トロムセーに保存されているサーミ宗教民俗は、北欧の古層と接続している。ノットデンとダーレン近郊のスターヴ教会は、ともに古代祭式の場であることが確認された。これによって、スターヴ教会の1000年前の構造および北欧神話時代の寺院の原型が類推可能となった。オスロのスターヴ教会からは、rune 文字が発見できたし、ライオン・ドラゴンの carvingを発見した。
デンマークでは、 Jelling に残っている Jelling stone を調査した。〕 Jellingは、北欧にキリスト教が導入された公的には最初の土地である。今回、 Jelling stone に関する研究成果が、デンマークでは研究者や時期によlってきわめて異なっていることがわかった。Jelling stneをはじめスターヴ教会の carvingについては、方位・長さ・大きさなど詳細に記録した。 Jellingにおける Jelling stone 調査からは、石の性質が異なり、異なる場所から切り出されたことがわかった。 Jelling stoneの方位についても、またcarvingの長さや大きさについても、計測した。これによって、全部で40本におよぶフイルム撮影をしたので、コンピユーター分析が可能となった。またバイレでは、人口の発展具合、コペンハーゲンではシンボルとしての十字架(1000年前後)の計測を行った。
シンポジウム
「東西宗教思想の課題」
平成12年1月22日(於東洋大学白山校舎1205教室)
このシンポジウムは、河波研究所員の長年の学究活動を讃え、その精神を継承することを目的として開催されたものだが、河波研究所員の講演の後、テーマとして掲げられた「霊性」をめぐって、パネリストとして迎えた金子晴勇・聖学院大学教授、量義治・東洋大学文学部教授、および参会者の間で、きわめて活発かつ充実した討論が行われた。以下に河波研究所員の講演の要約と、講演者とパネリストとの質疑応答の模様を概略的に記す。
講演 「東西宗教思想の課題―とくに霊性をめぐって―」
河波 昌 研究所員
近代ヨーロッパ哲学を一言でいえば、「理性の哲学」であり、啓蒙主義から Idealismus という形で、「理性的である」ということが、近代の最大の特徴であったように思われる。ヘーゲルの『法哲学』にある「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という言葉(「現実的」と訳されている″wirklich"という言葉には「真実の」「本当の」という意味がある)には、ヘーゲル哲学全体、さらに言えば近代哲学全体がこの言葉に要約研究されているほど、「理性的」という言葉の重みが感じられる。しかし、ヘーゲルのすぐ後にシェリングやキルケゴールが登場してきたように、理性でもって全てをカバーできないことが指摘されるようになった。そうした段階で、理性に対して「霊性」という言葉が次第に浮かび上がってきたといえる。すなわち、理性中心の立場を越えた立場、それを「霊性」といってもよいのではないかと考えられる。
この霊性ということについては、鈴木大拙博士が、『日本的霊性』(昭和19年)を著し、霊性というレベルで日本の精神史を考えていこうとしている。この『日本的霊性』での博士の広大な独自の立場を私なりに「『日本的霊性』について」(『大乗禅』第73巻第8号No.862)で論じたが、そこで真言密教や天台の声明、仏教音楽とグレゴリオ聖歌との関連で述べたとおり、フランスにおいて永年間き親しんでいたグレゴリオ聖歌を聞く機会を、戦争等の理由で50年もの永きにわたって失っていたある教会の人たちが、仏教音楽である声明に触れて感動の極に達する話が伝えられている。フランス人にはフランス的霊性、日本には日本的霊性という、それぞれの民族がもっている特殊性が考えられるが、この場合には、声明となって鳴り響く日本的霊性とグレゴリオ聖歌に培われたフランス的霊性との感応道交がある。
明恵の歌に、
あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月
という有名な歌があるが、ここでは、「私」という主観および「月」という客観があって、「私」が客観的な「月」を対象的に見ているというわけではない。ただ、「あか」としか言いようがない。つまり、主客の分別を超えて、月と一体化して月のあかるさを詠んでいるのである。こうしたところに、「あか」における霊性そのものの全面的な現前が見られるのである。先に、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というヘーグルの言葉を取りあげたが、本当は、現実性wirklichkeitは理性の立場を越えたところにあるのではないか。へーゲルの言うような「理性的なものは現実的である」というよりは、あらためて「霊的なものは現実的であり、現実的なものは霊的である」と言えるようなもう1つのより根源的な精神的な地平というものを考えることも必要なのではないかと思われる。
この講演の後、パネリストの金子晴勇・聖学院大学教授、量義治東洋大学文学部教授から以下の発言と質問がなされた。
金子晴勇教授
霊性(spriituality)という概念はキリスト教に由来するものであり、人間学的に捉えた心性の3段階(感性・理性・霊性)として歴史的に発展してきている。伝統的な哲学的人間学の3区分法によると、「霊」が1番高い位置にあり、そして理性と感性という3段階の図式となる。霊というのは、エックハルトによると魂より高い、つまり魂のより深い根底Seelen-grundと言われているものである。
西田幾多郎の『場所的論理と宗教的世界観』から、鈴木大拙に言及している箇所に注目してみると、「霊性」を「心の根底」と読み代えていくわけだが、西田では「我々の自已の根抵には、何処までも意識的自己を越えたものがあるのである。これは我々の自己の自覚的事実である」とあり、鈴木大拙はそれを「霊性」だといっている、と語られている。そして「心の底」の「底」というのは、エックハルトの観点からすると、まさしく Grundとまったく同じ言葉であって、心性の最高段階である霊のところに位置していることに気づく。つまり、霊性の事実というのは心の奥にある1つのはたらきであると言える。
4つの質問をあえてしてみたい。
1.河波先生の『東西宗教哲学論攷』と『場所論の種々相』によると、比較思想が分析的ではなく総合的になっている。そうすると共通点が明瞭になつてくるが、対立点が際立たないのではなかろうか。ある視点に立って共通点を拾いあげるという「総合」のはたらきに対して、違いを分けて明らかにしてゆくことが「分析」である。すると河波先生の考え方には総合性が強すぎると思われる。
2.宗教を文化現象として捉える視点が随所に表れているが、単に原典に即して解釈するのみならず、考察する対象や発言の時代拘束性(Zeitgebundenheit)も問われるべきではないか。ある1つの書物、例えばクザーヌスのテキストを扱う場合には、クザーヌスの思想がどういう時代の背景から生まれて、どういう意味を当時持っていたか、というようなその時代との関わり方というものを問う必要があるのではないかと思う。どのような思想もその時代に特有なものを多く含んでいるからである。河波先生が挙げておられるテキストはいつたいどういう背景をもち、どういう意味を当時もつていたかを問うという考察が不可欠ではないかと考える。
3.そこから主として禅の立場に立つ京都学派における霊性論理の閉鎖性、つまり「絶対矛盾的自己同一」や「逆対応」また「即非の論理」が理性から分離して説かれるという特質が起こってきているのではなかろうか。最初に「絶対矛盾的自己同一」という原理があり、そしてそれによってすべての思想が構成されてゆくとすると、歴史の材料を自分流に自分の意識に合うものだけ使っていることになってしまう。それは「体系」というものをもっている人の陥りやすい傾向ではないかと思う。
4.親鸞とルターとの比較研究はこれまで東西双方から行われているが、法然とアウグスティヌスの比較は可能であろうか。河波先生は法然の研究家であり、そして私はアウグスティヌスの研究家である。そこで、先生とお話しすることによって、まったく今まで試みられていないような、比較研究をしてみたいと思って、このような質問を考えたわけである。
量義治教授
『日本的霊性』の初めにあるように、大拙が「日本的霊性」と言ったとき、当然西洋的霊性を考えている。そこには、日本的霊性と西洋的霊性とは違うのだ、という意識がある。であるからして、最初に「霊性とは精神ではない。精神はもちろんのこと物質をも内に含んだそういう二元論を超えるものである」ということを大拙は言っている。確かに西洋の霊性には大拙が暗暗裡に批判しているような二元論的な要素がある。英語でspiritualityフランス語でspiritualitēドイツ語でGeistigkeitという場合に、どうしてもそれは、物質とか自然とかいったものに対するものである。
しかし、ヨーロッパの思想にはそういうギリシア以来の思想と同時にキリスト教、聖書の思想が入っている。聖書の思想にはそういう二元論的葛藤はない。 spiritusあるいは新約聖書のプネウマ(霊と訳しているが)、旧約聖書のルアッハ(霊)、こういうものは二元論的ではない。
この「霊性」というもの、ヨーロッパで哲学などでいうところの「精神」と訳しているものは、二元論的なものの1契機なのである。物質、自然に対する霊性である。だが、聖書の思想におけるプネウマとかルアッハというのはそういう二元論的なものではない。要するに「霊」というのは聖書においては、決して心というだけでなく、身体と結びついている。霊の特徴は非常に身体的である。つまり「霊」というのはある特定の聖所と結びついている。場所と身体とであって、決して幽霊のように何か時間・空間的なものを離れて飛んでいるものではなく、それゆえ決して二元論的なものではない。
ギリシア思想と聖書の思想では違う。そういう点をまず指摘しなければならないだろうと思う。
それから、東洋の霊性と違うところだが、「霊」というのは決して「霊性」という、能力のようなものが人間にあるのではない。感性、悟性、理性、精神、あるいは実存といった、人間の諸能力あるいはそのあり方の1つとして、あるいは最高のものとして「霊性」があるのではない。聖書の宗教は、「霊性」の自覚によって、内なる「仏性」を見て悟りを開くというものではない。「悟り」は外にあるのではなくて、われわれの内にすでにあり、そのことに気がつくというような、つまり修行によって、自力で己を救済できるというようなものではない。やはり、霊は外から入ってくる。決して、単に内在するというものではない。だが、外なるものが内在するという、超越しながら内在するということが「聖霊」の特徴である。
以上のパネリストの質問に対して、河波研究所員より以下のような応答がなされた。
金子教授の質問について
1.私の比較研究に対立点が際立っていないという質問について。これは私も承知していることだが、しかし、やはり課題として東洋と西洋が21世紀に向かって対話するときに、やはり相違点よりは共通点を強調する必要があると思う。私はグローバルな立場から、異質性よりは共通性を捉える必要があると考えている。それぞれの風土の違いから様々な相違点が出てくるが、違いは十分認めるとしても、やはり銀河系宇宙とかグローバルな地球の大地の上に根ざした人間には、やはり共通点というものを考えてゆくべきではないだろうか、と感じられる。
2.「宗教を文化現象として捉える視点が随所に表れているが、単に原典に即して解釈するのみならず、考察する視点の時代拘束性(Zeitgebundenheit )も問われるべきではないか」という質問は、文化をどう捉えるかという問題に関わってくる。文化人類学的立場で捉える方法もあり、宗教哲学的に根源的に文化を捉えることも可能だと思う。そのようにしてみると、文化をまた非常に違った深い視点からの考察によって、深い意味で捉えていくことが必要だろう。
3.京都学派に対する批判については、私もある面では賛成である。特に霊性論理の閉鎖性ということで賛成である。というのも、京都学派における霊性論理は、あまりにも臨済禅という形で限定されているからである。私は禅というのは中国で土着化した仏教で、およそインドの大乗仏教からは縁遠くなっているのではないかと思う。インド大乗仏教はむしろギリシャ哲学・ギリシャ文化との数100年にわたる交流を予想しないといけないのだが、そういう要素が脱落して、徹底的に中国的に抽象化されてできたのが禅だと思う。であるから、京都学派の1つの批判点は彼らの範囲が中国禅という1つの範囲に限られている、ということを私は感じる。この点、霊性論理の閉鎖性という点では、金子先生に全面的に共鳴する。
4.親鸞とルターとの比較研究についてはよく言われるけれども、法然とアウグスティヌスについてはどうか。これについては、法然とアウグスティヌスにも何か密接な関係が出てきそうであるが、金子先生はアウグスティヌスの専門家なので、もしできれば今後また両者の関係をめぐって勉強させていただく機会を得るとありがたいと思う。量教授の質問について聖書において、聖霊は二元論的ではない、ということについて。これは私にとって非常に示唆深い考え方である。「超越と内在」、「超越神と内在神」ということについて考えてみると、「超越と内在」というものを、もう1つの別な方法で考えることもできる。例えばドイツでは19世紀の半ば頃、クラウゼという人が出てきて、 Panentheismusという、Pantheismusでもなく、Theismusでもなくて、どこにも神が内在するという思想が出てくる。この Panentheismusというのはまったく仏教的だと思う。「超越が内在で内在が超越」という点でそのように言える。華厳経には『宝王如来性起品』があるが、ここでの「性起」とは、性(如来)が生起する「性起」である。『八十華厳』だと「如来出現」というが、私は、ヘーゲルの『現象学』Phänomenologie の「現象」という言葉と「性起」というものを、もう1度改めて考え直してみる必要があると思う。カント的な「現象」でなくて、そのカントの考え方に全面的に反対して「精神現象学」という学問ができてくるのだが、性起はそういう問題とも関わってくる。「超越即内在」「内在即超越」この2つのものが1つのところに仏教があるので、この問題については、量先生の聖「霊論」との関係で、私自身もう1度本格的にキリスト教の勉強をさせていただきたい。
この質疑応答の後、パネリスト間での質疑応答、そして、フロアーからの質問に対する講演者・パネリストの応答がなされ、きわめて活発な意見交換がなされた。