平成18年7月8日 東洋大学白山校舎6302教室
平成18年7月8日 東洋大学白山校舎6302教室
司馬遼太郎 『峠』について
―河井継之助と陽明学、その生と死―
吉田 公平 研究所長
〔発表要旨〕長岡藩の武士であった河井継之助(文政10年(1827)―慶応4年(1868)は所謂会津戊辰戦争の中で壮絶な敗死を遂げた。佐久間象山・古賀謹一朗などの開明的知識人に師事し福沢諭吉・勝海舟などと遅近してその聡明さを称賛された人物ながら、長岡藩の武士であることに自己を位置づけて、その長岡藩を中立国にして政局の混乱期を乗り切ろうとして藩の財政を再建し組織を一変し洋式兵器を購入して準備をするも、時勢は長岡藩の中立を許さなかった。司馬遼太郎の『峠』はその河井継之助に武士道の美学を見出した物語である。講演では司馬遼太郎が創作するに当たって用いたであろう基礎資料を紹介し、また、河井継之助を巡るもう独りの英雄である小林虎三郎を合わせ鏡に用いながら、『峠』における河井継之助叙述はあくまでも作者の物語であることをのべた。さらに河井継之助が陽明学と言われることの理由が山田方谷に師事したことにあることを述べ、しかし、山田方谷には財政再建の基本姿勢を学んだのであり、その手法を模倣したのではないこと。とりわけ、陽明学が特色である心性論については、河井継之助は若年の頃より積極的に関心を示さなかったこと。それは当時の儒者が習練した漢詩文作成には冷淡であったこと。また政策論・外交論にしても一般的抽象論には関心を示さずに、現場に飛び込んでその中で具体的行動を起こして具体的成果を挙げることにこそ、関心があったこと。このようなことを指摘することは、河井継之助理解としては誤りではないが、実行・実践を重視したから、あるいは陽明学者の山田方谷に師事したから、河井継之助を陽明学の徒であるというのは、適切ではない。中国では陽明学徒は心性論に耽る回舌の徒である、そのために明王朝は崩壊したのだという痛烈な批判がある。日本における通俗的陽明学理解と正反対である。その理解を司馬遼太郎は踏襲している。なぜに日本ではこのような誤解が一般化したのかを、王陽明の知行合一思想の特色を説明し、江戸期の当初から「合一」の意味を測りかねたがためであることを、朱子学の知行先後論と対比して説明した。最後に王陽明の死生観を述べて、河井継之助の最期を武士道の美学として司馬遼太郎の筆致を紹介した。