平成12年11月25日
平成12年11月25日
心身の変容と危機
甲田 烈 研究員
伝統的な諸宗教においては、修行中の心身の変容が、しばしばその行者にとって、修行の過程を逸脱する危機として認識されてきた。しかし現代において、その成果が宗教的修行を志す人間の共有財産となっているかというと、それは充分とは言えないであろう。ユング心理学とトランスパーソナル心理学は、伝統的な諸宗教に素材を求めるだけではなく、より臨床的な観点から、心身変容とそれに伴う危機について分析している。本発表では、C・G・ユング(1875―1961)の論考である「集合的無意識の諸元型について」と、K・ウィルバー(1949ー)の初期の著作である『アートマン・プロジェクト』の研究を検討しながら、心身の変容と危機について分析することの意義について考えてみた。
ユングは心身の変容を意識と無意識との統合の過程として把握していた。患者が自己の集合的無意識からの働きかけを意識化していない場合、それは危機となるのであり、集合的無意識の内容である元型と対話を続けていくとが、その危機から脱する方法であるとユングは考えた。元型の内容は人格化された形態として夢やイメージの中に現われ、それとの対話は、影、アニマ/アニムス、老賢者という経過をたどるが、その過程そのものは変容の元型として示され、例えば、クンダリニー・ヨーガの体系として示されていると考えられている。ユングはこのような意識と無意識との統合の過程を個性化過程と呼び、それを臨床上において必要な概念として提唱しているのである。
これに対して、トランスパーソナル心理学の臨床的成果を理論化したウィルバーは、心身の変容について、それを意識の同一化と脱同一化の過程として整理した。通常の自我の段階においても近親相姦や去勢不安などの精神病理が生じる可能性があるのと同様に、自我を超越した変容の段階においても、やはり近親相姦や去勢不安は存在し、それが修行者の危機に陥らせるが、同一化と脱同一化の過程を段階的に歩むことによって、危機は回避されると考える。ウィルバーもユングと同様に、こうした変容の過程が、クンダリニー・ヨーガに示されていると考えたのである。
『チベットの死者の書』からのメッセージ
川崎 信定 研究所員
本書は、チベット語で『バルドゥ・トエ・ドル(中有で、み教えを聴くことによる解脱)』と呼ばれる。「バルドゥ(中有)」とは、「中陰」と同じ意味で、人が死んだ後で次の生に生れ変わるまでの間にある、最長で49日にわたる、死と生の中間時期のことである。チベットで死者が出ると密教古派の僧侶や行者が招かれて死者の枕辺でお唱えする実用のお授け経典として使われており、いわば死の世界の中でのルート・マップともいうべきものである。8世紀にチベット密教の大行者パドマサムバヴァ(蓮華生)によって著され、女弟子イェシェツォゲルによってヒマラヤ山中の岩窟に秘匿されたテルマ(埋蔵経)の1つと権威付けされてきた。今から70年ほど前にアメリカ青年エヴァンス・ヴェンツがダージリンでこれを入手して英訳した。本書にThe Tibetan Book of Deadと命名したのも彼である。その後、西欧ではこの英訳が注目を呼ぶ機会が数度あった。1935年にスイスの深層心理学者カール・グスタフ・ユングが注目した。ユングは「近代西欧型の合理追究の知性の調教に慣らされたものたちがその限界を越えて、隠された無意識の領域にまで入り込む」ために、また人間の生そのものが全体としての完全性を明らかにした元型・祖型を感じ取るために、本書を読むことを強く勧めた。1960年代にはアメリカのヒッピーやフラワー・チルドレンたちがこの書の示す個我意識を超えた普遍世界の境地にあこがれた。彼らはLSDなどのドラッグでラリった状態で日常的自我の枠を超えた境地を体験した。イギリスでは「あの世に生きる」ことの意味を真剣に問う論理実証主義の哲学者たちがいる。また最近では、臨死者が死を垣間見ながら自我の自己統制がはずされた瞬間に体験する「光の体験」・「受胎感覚」・「明るく広い花園」・「渡ろうとして呼び戻された川辺」・「天井近く浮かび上がり、自分の横たわる身体を上から見る離身体験」などのレポートと本書の叙述の共通性が、アメリカ西海岸の医療の現場で注目されている。本書において49日間に次々と現出する寂静尊・忿怒尊の光景は、ヨーガ的観想・精神統一の進展・深化につれてこころの内面的体験が視覚化されてくる記述と考えられる。まさに人間の意識存在の元型・祖型に触れてそのエネルギーを語り出すものであろう。『死者の書』と呼ばれながら、生きている人にその生の意味と内容を問いかける、また常識的な生死の枠組を超えて、永遠のいのちの世界を開示する書から現代日本の我々への発信を読み取ってみたい。
自我と意識の相関性
―『プラシャスタパーダ・バーシュヤ』の アートマンとマナスー
三浦 宏文 研究員
はじめに
精神性の問題は、洋の東西を問わず様々な形で議論されてきた。インドの哲学・思想史上でも、精神性の問題は神話の時代から何度も言及されている。正統派六派哲学の1つである、ヴァイシェーシカ学派は、精神性の問題について、自我(我、アートマン)と意識(意、マナス)という2つの実体カテゴリーによって説明する。
では、どのような時、どのようなケースで自我と意識は連関しあっているのだろうか。本発表では、ヴァイシェーシカ学説が最もよく整理されている『プラシャスタパーダ.バーシュヤ』を基本資料として、自我と意識の相関性について考察してみたい。
1 自我
自我すなわちアートマンは、行為の主体たる精神であり、認識も含めた全ての身体活動の原因とされる。また、諸生命活動は、すべてアートマンによるものである。したがって、アートマンは1種の生命力的存在(あるいはその保持者)である。このようなアートマンは、目に見えず、直接感覚器官でとらえることは出来ないので、推論によって存在が論証されるのである。
これらを見てくると、『プラシャスタパーダ・バーシュヤ』のアートマンは、我々が現在、自我・自己と言い表している概念にはぼ近いものであると言えるであろう。
2 意識
意識は、自我と感覚器官と連動して、対象をとらえて認識を成立させる認識成立の必要条件である。また、外部の感覚器官がとらえられないいわば「感情的」な知識をとらえる「内部の器官」である。しかし、意識は認識する主体ではなく、認識主体はあくまで自我である。したがって、意識は単独で知識を成立させることはできず、あくまで自我との連関で諸知識を成立させるのである。
3 まとめ
自我は、全ての身体的活動および生命活動の主体である。意識は、自我と連関して認識を成立させる器官であるとともに、外部の感覚器官でとらえられない感情的な感覚をとらえる「内部の器官」である。したがって、楽・苦・欲求・嫌悪といった感情的な精神活動は、この意識と自我の結合から起こる。それに関連して、善・悪といったものを生じさせる原因もやはりこの意識と自我の結合である。
自我と意識という問題に関して、プラシャスタパーダが意識したのは、いわば生物学的レベルに近いものである。その例として、睡眠時の夢のケースがあげられる。睡眠は、意識が停止した状態で自我と特殊な結合をはたしており、その時に他の感覚器官を媒介として夢の知識を得るのである。