2002年度 公開講演会 発表報告
開催日:2003年1月25日
2002年度 公開講演会 発表報告
開催日:2003年1月25日
藤原俊成の和歌に見られる仏教理解と信心
講演者:檜垣 孝 教授 (大東文化大学)
藤原俊成(1114〜1204)における仏教理解と信心の有り様について考えてみた。
俊成の仏教理解の深さは、彼が編纂した勅撰和歌集『千載和歌集』において初めて「釈教歌」の部を1巻として独立させたことによって確認できるということを最初に紹介し、その「釈教歌」部の構成が中国の天台宗の開祖智顗の『摩訶止観』の構成に倣ったものであること、37歳のときに詠んだ「久安百首」釈教歌五首の歌題に智顗の教えである「五時教判」を取り入れていることなどを指摘し、俊成の仏教理解の根本には天台宗・智顗の教えがあったことを確認した。また、天台座主を3度努めた俊成の実兄・快修を俊成の天台理解に影響を与えた人物として想定してみた。さらに、俊成の仏教理解の到達点を示すものとしてよく知られている『古来風外抄』を紹介した。
次に、俊成における信心の有り様について考えてみた。まず、俊成の近親者に僧籍に入った者が多いことを指摘し、次に、俊成に影響を与えた人物として、『本朝新修往生伝』で浄土往生者とされている養父・顕頼と、若年時から俊成と交孝遊関係にあった西行をとりあげてみた。特に、西行は俊成に出家希求の思いを増大させた人物であったであろうと考えてみた。
俊成の出家は、現実には重病に陥ってなされたもので、出家希求の思いを貫徹してなされたものではなかったが、人の死や仏教の中心思想の1つである「無常」を詠んだ俊成の和歌を、出家以前と出家以後とに分けて集成して検討してみると、全体的にいって、出家以前には人生の無常や人の死を嘆き悲しむという姿勢で詠まれたものが多いのに対し、出家以後にはそうした姿勢で詠まれたものはなくなってゆくことがわかり、出家を機縁としてあるいは50歳代から60歳代にかけて、それまでの自身の人生を省察し、客観的に捉え直そうという意識の変化が、俊成にはあったのではないかということを考えてみた。その1例として、『法華経』「信解品」の「周流諸国五十余年」を題にした釈教歌「うらやまし磯路の波にしをれてもかひある浦に廻りあひけん」(『長秋詠藻』460番)を吟味し、この歌が、俊成における仏教理解と信心が過不足なく満たされた和歌として詠まれていることを確認した。
なお、発表後の質疑応答において、「俊成の釈教歌は出家後に増えるのでしょうか」という御質問があり、「俊成の和歌は定数歌が多いので釈教歌だけを特に多く詠むようなことはなかったと思います」というお答えをしました。それはそれで間違いないのですが、俊成には出家以前に依頼されて釈教歌だけをまとめて詠むということが2度あり(「法華経二十八品歌」32首、「極楽六時讃歌」19首)、結果的に出家以前の釈教歌の方が出家以後の釈教歌の数より上回る大きな要素となっていることを前提にしてお話ししなければいけなかったのに、そのことを正確にお伝えできなかつた点、ここに訂正してお詫びいたします。