現代における老年期の位置づけと生きがいに関する研究
―文学・哲学・ 宗教・社会学からのアプローチー
現代における老年期の位置づけと生きがいに関する研究
―文学・哲学・ 宗教・社会学からのアプローチー
巷では「すこやかな老い」「認知症にならない生き方」などと老年期がひどく矮小化され、あるいは忌避のニュアンスで語られることが多いように見受けられる。また、90歳を超えて一線で活躍している医学者などの話が様々なメディアや講演をにぎわしているが、それは、成功し、活躍している学者の姿であり、その姿が理想化されることにもつながり、老年期と向き合うことをそらしているともいえよう。「このように老いたい」という願望は、老いと相反する若さへの願望ではないか。
ところで、エリクソンらは一生を8段階に分け、その最終段階にあたる老年期に統合と絶望、英知を見ている。統合(integrity)は、この段階に充満する絶望という感覚との間でのバランスを追求する上で支配的な同調的性向であり、またそうでなければならない、といい、英知(wisdom)は、死そのものを目前としての、人生そのものに対する超然とした関心である、という(エリク・H・エリクソン、ジョーン・M・エリクソン、ヘレン・Q・キヴニック『老年期』(朝長正徳・朝長梨枝子訳、みすず書房、1990年、37頁)。しかしながら現在、こうした英知よりもむしろ、老年期においては絶望のみが充満し、老いを避ける知識のみが流布している。だが、老年期というものは生の消化期間というよりもむしろ、可能性に満ちた沃野として捉えるべきものではないか。そこで、こうした可能性を探求し、老年期を改めて位置づけ、そこに生きがいを見いだすことを本研究の目的として掲げ、各分野の研究分担者の協力のもと研究を進めていければと考えるにいたった。
本研究は本年度の東洋大学研究所プロジェクト追加募集に応募して採択されたものであり、研究期間は1年間で、本格的な研究に入る前の萌芽的研究として位置づけられている。研究方法としては研究分担に沿った形で主に文献研究・研究調査を進め、その成果を公開の講座で発表するという形をとった。東洋学研究所の研究発表会および講演会等には、広い年齢層にわたる参会者が足繁く通っている。そこで、広く一般に周知して、多くの参会を呼びかけ、公開講座での討議において、研究者と、参会者の方々とのコラボレーションとして意見を交え、その成果を印刷物など様々な媒体に伝えることができればと考えてみた。学生から生涯学習を営む方々まで、幅広い年齢層の参会者と、研究者が共に老いの可能性について検討し合う双方向の場として、研究を進めていき、その討議の検討を踏まえて、次年度の研究に向けて研究を深化させていきたい。成果発表――発表内容に関する広く一般からの、実体験に照らしたレビュー――そのレビューを踏まえての研究の再検討、そしてその成果の発表、この方向性が本研究の特色である。
研究組織
研究代表者 役割分担
高城功夫研究員研究総括・遍路と中世仏教文学と老い
研究分担者 役割分担
谷地 快一 研究員 老いと俳諧
神田 重幸 研究員 近代文学における老いのあり方
山崎 甲一 研究員 近・現代文学における老年期像
川崎 信定 客員研究員 仏教における他界観と老年期の問題
渡辺 章悟 研究員 生前の功徳と老年期における不安
相楽 勉 研究員 老年期における関心と存在
大鹿 勝之 客員研究員 終末期の問題と老い
菊地 章太 研究員 道教における養生と年齢の超越
井上 治代 研究員 死者祭祀と老年期
本研究は、上記目的達成のため、各研究員の個人としての研究調査・文献研究を進めると同時に、公開講座における研究成果の発表や討論をする中で、異なる課題の相互理解を深めていった。
先に述べたとおり、本研究は本年度の東洋大学研究所プロジェクト追加募集に応募し、平成19年5月に申請書を提出、6月に採択されたものであり、研究の開始が7月となった。そこで7月17日に研究打合会を開催し、討論をもとに、各研究者が担当分野における役割意識を深めた。そして、研究調査を行い、研究発表としての公開講座を開催した。以下に、平成19年内に行われた研究調査、また、公開講座の概要を示す。
研究調査分担課題
「老いと俳諧」に基づく調査(芭蕉関連の調査および芭蕉門人曽良の足跡の調査)
谷地 快一 研究員
期間 平成19年8月30日〜8月31日
調査地 大津(三井寺・本福寺・石山寺等)、京都(大原等)
30日はまず石山寺へ行き、元禄四年の曽良日記に見える宝塔院なるものが実在したかどうかを調査。あらかじめ訪間の御願いをしていないにもかかわらず、座主に面会を許された。結果として現在はなくなっている堂塔の古記録の中に「宝塔院」の名を発見。時間が不足しているので、タクシーで次の訪問地別保の幻住庵へ。これも飛びこみだから成果はあてにならないが、入庵して3か月という庵主と面会できた。その話を受けて大津市歴史博物館に行き、和田学芸員に地誌類の閲覧を希望して、次の訪問先である長等の本福寺の近世史料を含めて見せてもらう。元禄4年にこの地を訪問している芭蕉・曽良のルートと宿泊先の確かな手掛かりを得た。その足で本福寺の住職に会い、堅田の本福寺との関係について座談。すぐ傍に来ていながら、三井寺の調査は時間的に不可能となった。
31日は朝から豪雨。京都駅まで出て市バスで大原へ1時間10分ほど。雨が少しでも書れるのを祈るしかない。傘をさしながら、元禄4年の曽良の行程にしたがって歩き始める。魚山来迎院、音無の滝、呂川、律川等を確かめつつ、3000院門前を経て勝林院に向かい証拠の阿弥陀を拝し、鈍捨藪を確認。大原バス停まで戻って寂光院へ向かう。道々、朧の清水、落合の瀧、を確認し寂光院へ。本堂は近年放火にあっているから建礼門院・阿波内侍の像は新しく作られて、曽良が見たものとは違うが、その他は曽良の日記の難読箇所を解明するに有効な手掛かりを得る結果となった。
公開講座
平成19年12月15日東洋大学白山校舎3203教室
〈老い〉を生きる芭蕉―浮世の果てはみな小町なり―
谷地 快一 研究員
芭蕉は30代で、すでに自分を〈翁〉と称している。その翁が人生の晩年をどのようにとらえ、どのように生きたか。手掛かりを生涯と文芸作品とに求めながら、生老病死に対するものの見方を問い直す。
『田舎の句合』は桃青(芭蕉)が其角の発句25番に判詞を加えたものだが、それによると、37歳の芭蕉はのちに江戸蕉門双璧の地位を築く其角と嵐雪から〈翁〉と呼ばれていた。この〈翁〉の名が現れるのは江戸市中における俳諧師を廃業して、江戸の外の深川に引き籠もる年で、〈翁〉と呼ばれる俳諸師の「老い」の内実は、
かれ朶に烏のとまりけり秋の暮 (噴野)
という句に象徴されるように、反俗・孤高・閑寂・貧寒の姿で示される。この句は当時、高政『ほのぼの立』という本では当風、つまり今風。現代風という評価が与えられ、新風と評価されていたことがわかる。それは『続深川集』所収の「柴の戸に」句文その他に明らかなように、芭蕉が9年間暮らした江戸市中を自楽天が名誉と利欲の巷と断じた長安の都に等しいとして捨て、中国の詩人の隠逸な姿に擬するところから生まれる自画像であった。芭蕉における〈翁〉とはいわゆる〈老い〉の実感に裏付けされたものでなく、中国の詩人を擬装する演出であったのだ。擬装された自画像である以上、そこから生まれる作品も擬装と言わねばなるまい。芭蕉もその擬装に長くは満足できなかっただろう。
では、芭蕉における真実の(老い〉の自党はどのような生活として現れたのか。それは〈老い〉の第1義的な意味とは正反対の、漂泊という積極的な人生としてあらわれる。いわゆる『野ざらし紀行』以後の旅人芭蕉がそれである。芭蕉の〈老い〉とは『おくのほそ道』冒頭に明らかなように〈百代の過客〉として永遠に旅を重ねる積極的な人生として具現する。旅とは他者と〈行きかふ〉ことという認識が、〈老い〉を若者の人生に増さる積極的なものにした。〈老い〉の自覚とは死の隣り合わせという常識ではなく、死を生の埒外に置くという哲学であった。そうした思想を象徴的に示すのが『猿蓑』所収〈市中は〉歌仙の次の付合である。
草庵に暫く居ては打やぶり 芭蕉
いのち嬉しき撰集のさた 去来
さまかぐに品かはりたる恋をして 凡兆
浮世の果ては皆小町なり 芭蕉
この付合の面影にある西行や、実名として出る小町の老衰・零落の姿を積極的に受け入れること、すなわち、存分に現実を生きることが芭蕉の〈老い〉の創造であった。死は必ず訪れる。だがそれは生の領域にはなく、アクシデントなのである。
公開講座
平成20年1月26日東洋大学白山校舎6307教室
子規から漱石ヘ
山崎 甲一 研究員
正岡子規晩年の姿が、どのように漱石の生き方に係わっていったか。両者のその生きた関係に焦点を当てた。晩年の子規の随筆と漱石の作品との対応を、主に用語や表現、モチーフの点から具体的に押えてみた。
2人の、真の朋友、心友としての内面的な対話の成立とその実現された相貌。その具体相を辿ってみれば、亡友子規の病を得て生きた、すこやかでひたむきな姿勢は、終生漱石の文学的営為、不退転な志のその原点でありえたことを述べた。
以下かいつまんで、要点を摘記して置く。
『吾輩ハ猫デアル』中篇自序に表明されている、漱石の故子規への深く尾を引く罪責感。倫敦からの漱石の手紙を「待ち暮らした甲斐もなく呼吸を引き取った」子規のことを、「此気の毒を晴らさないうちに、とうく彼を殺して仕舞った」。と受止める漱石独得の感性。
そしてこの深い罪責感を、5年後の現在晴らすことの出来た、ひとまずの安堵感。その双方のベクトルが濃縮された1文が、『猫』の序文である。簡明に言えば、亡友子規への消しがたい罪責感と、この「往日の気の毒を――今日に晴さうと思ふ。」という真底の安堵感。その双方のベクトルの絶え間ない力学への志向が、漱石の文学的営為というものを支えた1つの根本的な要因ではなかったか。
「季子は剣を墓にかけて、個人の意に酬いたと云ふから、余も亦「猫」を褐頭に献じて、往日の気の毒を5年後の今日に晴さうと思ふ。」と序文に言う。この季子の剣に喩えられた関係こそ、漱石が「殺して仕舞った」子規と、その子規故人が「故人の意に酬い」させるべく、終生漱石に働きかけつづけた「地下」からのメッセージであった。「憐れなる子規(が)余が通信を待ちくらしつゝ」書いて寄越した最後の手紙、――「筆力は垂死の病人とは思へぬ程性である」その亡友子規の肉筆の文字が、これを大切に仕舞う「筐底」から、何くれとなく、生き残る漱石の日常性の中でふと立ち現われてくる。
「吾人が依然として生前、死後同一の感じをもって約束に対す。……彼の情緒が友の死後に於ても生前に於けるが如く約束の履行を彼に促したるが故に」云々と述べる、『文学論』での漱石自身の季子の剣の説明が、何よりも雄弁に故子規との関係というものを物語っている。
「此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞った。」と受け止める消しがたい罪責感と、心の底から「地下」の「亡友に安心させる為め」といういわば贖罪の意識。これが、漱石のその文学的営為の核を形成するものであった。
その具体相を、故子規初墓参の「無題」の文章を起点にして、「猫」や「倫敦塔」から「坊っちゃん」、「永日小品」や「こゝろ」に至る迄、それらの作品の背後に、子規晩年の「墨汁一滴」や「仰臥漫録」、「病沐六尺」、絶筆3句などの子規の肉声が、確実に控えていることを指摘した。
本講座プロジェクトの課題「現代における老年期の位置づけと生きがい」を考える上で、右に述べた、子規晩年の独自に生きる姿勢と、これを独得の感性で受け止めつづけた漱石との生きた心の交流、――その肉筆・肉声での交信の実際は、乾いた人間関係を強いられる現代の人々に、1つの学ぶべき重要なヒントを与えてくれることを述べて、締め括りとした。