日本における葬送儀礼
―異界と現世をめぐる文学・芸能・思想・社会・比較文化の研究―
日本における葬送儀礼
―異界と現世をめぐる文学・芸能・思想・社会・比較文化の研究―
本プロジェクトは、私たちの日常を支える必須な事柄として、葬送儀礼をとらえて、異界と現世をめぐる文学・芸能・思想・生命倫理・社会・比較文化の研究をおこなうことによって、行きすぎた近代性や死に対する隠蔽性について批判吟味し、人間にとって避けようのない生と死の問題を、多層に及ぶ深層意識の働きの問題として理解し、現代人が決して見失ってはならない「生きがい」を具体的に提示することを目的とするものである。
研究スタッフ・役割分担は次のとおりである。
研究代表者 役割分担
中里 巧 研究員 研究総括・葬送儀礼・死霊観の精神史的研究
研究分担者 役割分担
原田 香織 研究員 能・狂言にみる死後の魂の存在
野呂 芳信 研究員 詩作における死と魂
朝比奈 美知子 研究員 葬送儀礼と死生観に関する比較文学・比較文化的研究
竹内 清己 客員研究員 戦争文学と民俗に見る死生観と死後の魂
大鹿 勝之 客員研究員 宗教・習俗にみる死生観・倫理観
川又 俊則 客員研究員 葬送儀礼における地域の宗教的慣行の研究
竹内清己客員研究員は、昨年度まで東洋大学文学部の教授を勤め、東洋学研究所に研究員として所属していたが、定年退職により平成24年度から客員研究員として研究所に所属し、引き続き本プロジェクトに参加した。
次に、本年度の研究経過を報告する。
まず平成24年5月19日に打合会を開催。出席した研究代表者・研究分担者が、研究分野におけるテーマ設定と研究計画について話し、相互に研究内容の確認を行った。また、研究発表会の日程と担当者について協議した。
各研究者の研究の概要は以下の通りである。
中里は、11月1日~11月3日、旭川市立博物館、北鎮記念館、三浦綾子記念文学館、井上靖記念館、旭川市科学館に赴き、旭川の自
然・気象、第7師団と旭川の郷土性との関係、文学と地域性や北方文化との関連、北方少数民族の木偶・イナウ・神像・クマ像など、シャーマニズム関連の事物の特徴について調べた。原田は、死者の物語を語る際の音曲の特質について、囃子事と世阿弥の音曲系伝書から、検討した。野呂は、萩原朔太郎の死と復活に関する思索をたどり、近代日本人の死生観の1つの例として考察した。朝比奈は、19世紀フランス文学にみられる近代文化批判と死のイメージを検討し、現代に通じる近代の問題、すなわち貨幣による価値の物象化、死の隠蔽性、社会において共有された死から個人に限定される死への変化といった問題を考察し、19世紀の詩人ネルヴァルの作品に現れたパリとコンスタンチノープルの葬列の描写を辿りながら、東西の死生観に対するネルヴァルの視線を追った。竹内は、10月1~4日、ソ連参戦による日本軍の敗走・戦死者と千島引き揚げ者について根室への調査を行った。年度当初は中国・大連に赴き日本軍の敗走について調べる予定だったが、中国の国内事情に鑑みて根室への調査に変更した。大鹿は、弘圓上人や夢賢上人が補陀落渡海したとされる熊本県玉名市、舜夢上人が渡海したとされる鹿児島県南さつま市加世田に赴き、史跡および地勢について調査を行った。川又は、三重県の仏教寺院(鳥羽市(答志島・神島)、伊勢市、松坂市、尾鷲市)を中心に、葬送儀礼の簡略化および供養の変化の実態を確認し、地域社会における宗教的慣行の変化と既成宗教の対応を考察し、人口減少に伴う葬送儀礼や年中行事の維持の問題について、三重県の調査をもとに考察を進めている。
以上の研究に示された同時多角的視点について、(1)分担者間の討議(2)各分担者オープンパネルディスカッション、(3)研究発表会
(4)公開講演会における討議(5)個々の討議を踏まえた、研究成果、参加者の意識調査の結果公表にとりわけ集中する仕方で統括を進めている。
(1)分担者間の討議(前期複数回)
5月19日に研究打合会が開催され、各研究者の研究の方向を確認したほか、以下のテーマで研究者間の討議を重ねてきている。
1.アイデンティティと生きがい 2.現代社会の問題点と、その解決の糸口
(2)各分担者オープンパネルディスカッション各研究者の発表とパネルディスカッション
平成24年10月27日に、公開のパネルディスカッションを開催した。
(3)研究発表会
平成24年11月10日に公開の研究発表会を開催した。
(4)公開講演会
平成24年12月8日に、朝日新聞「こころ」欄の編集を務めた菅原伸郎氏を講演者に招き、公開講演会を開催した。
(5)研究成果・参加者意識調査を踏まえた総括
個々の研究者の研究報告と、意識調査を踏まえた研究の総括について、冊子体の研究報告書を発行した。
以下に平成24年度に行われた研究調査、パネルディスカッション、研究発表会、および公開講演会の概要を示す。
分担課題
「葬送儀礼における地域の宗教的慣行の研究」に基づく研究調査
(伊勢市楠部町の墓地、鳥羽市答志島の集団墓参、志摩市大王町波切の大念仏調査)
川又 俊則 客員研究員
期間 平成24年8月13~14日
調査地 伊勢市楠部町、鳥羽市答志島、志摩市大王町波切
13日。伊勢市「笹飾り」見学。楠部町の寺院墓地で住民より地域墓地でのものとうかがう。場所を確定できず、一色町でも同様の民俗
があるということで同地へ移動。2ヶ所の墓地で確認。「南無阿弥陀仏」と書かれた5色の紙を笹に吊るす。子供から老人まで家族で墓参。
新盆は大きな笹、他は小さな笹だった。
14日午前。小雨のなか、鳥羽市答志島で10時から約40分間の「火入れ」(集団墓参)見学。約200人以上の地域住民が、水・米・線香を持ち、自らの先祖・親族・寝屋関係者の墓地を廻る。昨年見学した15日6時と同内容。午後1時から施餓鬼法要のため檀家は菩提寺へ。
同日夕方、志摩市大王町波切で行われる「波切の大念仏」見学。31名の新仏戒名を記した紙の幟を竿竹に吊るし「ガチャガチャ」とぶつけ合う。そして、約2時間、約500名程度参列し、和傘の周りに布をたらした傘奉供に屋号や俗名・年齢を書いた紙を貼り、内側に小さな提灯や扇子・数珠などをひもで吊るし、親戚・知人の男性が交替しながら持ち、女性は団扇で仰ぎ、輪になって歩く。参加者はほぼ喪服。設営場所で焼香も。
伝統的盆行事3つの若い世代への浸透を確認した。
研究調査活動
分担課題「宗教・習俗にみる死生観・倫理観」に関する研究調査
(弘圓上人らの補陀落渡海に関する、資料、渡海碑、地勢の調査)
大鹿 勝之 客員研究員
期間 平成24年8月17日~8月20日
調査地 熊本県立図書館、熊本県玉名市(繁根木八幡宮ほか)、鹿児島県立図書館、鹿児島県南さつま市加世田小湊
九州における補陀洛渡海について、関連資料および論文の確認・蒐集と、板碑や墓所の調査を行った。調査を行ったのは、弘圓上人の補陀洛渡海碑、夢賢上人の補陀洛渡海碑、舜夢上人が補陀洛渡海を行ったと伝えられる維雲庵跡である。
熊本県玉名市繁根木八幡宮裏の稲荷社の一画に、三基の板碑と宝塔塔身があり、その1つが弘圓上人の補陀洛渡海碑である。繁根木八幡
宮裏手には、天長元年(824)に創建され、繁根木八幡宮の神宮寺となった壽福寺という天台宗の寺院があったと伝えられている。明治初年の廃仏毀釈の政令によって廃寺となったが、その跡が玉名市図書館の建物の裏手にある。弘圓上人の補陀洛渡海碑は、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩が刻まれ、「永禄十一年戊辰十一月二十八日武州住秀誉上人作補陀落渡海下野國弘圓上人同舩駿河善心行人遠江道圓行人」とある。この碑は永禄11年(1568)11月に建立されたものと伝えられる。
夢賢上人の補陀落渡海碑は、玉名市伊倉北方の本堂山緑地にある。この地は報恩寺という、伊倉五山の1つとされ、繁栄した寺院の跡である。渡海碑には阿弥陀三尊の種字であるキリーク(中央)・サ(右)・サク(左)の梵字があり、キリークの下に「補陀落山渡海行者下野之住夢賢上人」、サの下に「本願尾州之住月照上人」、サクの下に「時天正四年丙子八月彼岸敬白」とある。夢賢上人の渡海を伝える、天正4年(1576)と示された碑である。
舜夢上人の補陀洛渡海については、島津家文書小箱88番箱『神社調』薩摩国之部十加世田の、維雲庵についての記述の中で「補陀洛舜夢上人碑有」「補陀洛渡者自寺之近所被乗舩由申伝候」と示されている。維雲庵は日新寺の末寺で、その跡が鹿児島県南さつま市加世田小湊の正信寺裏の墓地にある。この維雲庵跡には墓や板碑などが20数基集められていて、文字判読の困難なものが多いが、開山天澤の卵塔を確認できた。
以上の調査において、実地に碑や墓塔を確認することができたことは、補陀洛渡海の考察にあたり大きな収穫となった。
分担課題
「戦争文学と民俗に見る死生観と死後の魂」に基づく調査
(ソ連参戦による日本軍の敗走・戦死者と千島引き揚げ者の調査)
竹内 清己 客員研究員
期間 平成24年10月1日~10月4日
調査地 根室、納沙布岬、弟子屈
第1日:根室。ときわ台公園の根室女工節歌碑・護国神社跡の戦没者慰霊之碑など。
第2日:納沙布岬。四島のかけ橋・寛政の蜂起和人殉難墓碑(寛政元(1789)年5月「クナシリ・メナシの戦い」と呼ばれるアイヌの蜂起で死亡した日本人71人の墓標)・チャシ(アイヌの施設跡)・北方館・望郷の家・花咲の根室市歴史と自然の資料館(大湊海軍通信根室分遣所の跡)・北海道立北方四島交流センター北方資料室などを踏査研究。
第3日・第4日:釧路から摩周。塘路の塘路駅逓所・標茶町郷土館におけるアイヌの生活と民俗資料の調査・釧路川とアレキナイの合流
点二股にある遭難碑(塘路小学校長と生徒が遭難し二基の石地蔵がある)・小学校の校庭にある頌徳碑。屈斜路湖畔のアイヌ民俗資料館を断念し川湯。川湯温泉生成碑・原田康子文学碑・弟子屈=摩周の更科源蔵「雲」碑・更科源蔵文学資料館(釧路圏摩周観光文化センター)にて踏査研究を終えた。誠に有意義な収穫があった。
分担課題「葬送儀礼・死霊観の精神史的研究」に基づく調査
(アイヌシャーマンや死生観に関する、アイヌの地域・民俗の調査)
中里 巧 研究員
期間 平成24年11月1日~11月3日
調査地 旭川市立博物館、北鎮記念館、旭川兵村記念館、旭川文学資料館、三浦綾子記念文学館、井上靖記念館、旭川市科学館
旭川市科学館では、旭川の自然・気象等について調べた。また旭川科学館で調べた内容との関連で、旭川市立博物館に行き、大雪山域の気象や気候ならびに地形について調べ、それらとシャーマン儀礼との関連についてさらに調べた。
11月2日:北鎮記念館に行き、第7師団と旭川の郷土性との関係ならびに幽霊譚や鎮魂碑などについて、さらに第七師団と日露戦争・ノモンハン事件・ガダルカナル島派遣部隊全滅・アッツ島派遣部隊玉砕・沖縄派遣部隊の苦闘・北方守備隊の苦闘などから、慰霊についてどのような扱いがなされているか調べた。さらに、屯田兵の子細について旭川兵村記念館で調査を進めようとしたが、休館中であったので、井上靖記念館・三浦綾子文学館において、それぞれの地域性や北方文化との関連について調べた。
11月3日:旭川市立博物館において、とりわけ北方少数民族の木偶・イナウ・神像・クマ像など、シャーマニズム関連の事物の特徴について、調べた。
分担課題
「葬送儀礼における地域の宗教的慣行の研究」に基づく研究調査
(熊野市(および旧紀和町)における葬送儀礼に関する調査)
川又 俊則 客員研究員
期間 平成23年11月17日~11月18日
調査地 大馬神社、金光教入鹿教会、曹洞宗慈雲寺、入鹿八幡宮、天理教奈和重分教会
17日は校務の後午後出発。熊野市に到着したときは豪雨のため、市内神社等の見学を翌日にして、宿泊先にて翌日の準備にあてた。18日は午前、入鹿八幡宮・曹洞宗慈雲寺を見学。入鹿八幡宮の隣には慶光院清順上人顕彰碑もあり、地元住民が参拝していた。慈雲寺住職は同日、梅花流奉詠大会出席のため不在と伺っており、葬送に関することは事前伺った。近年で大きな変化はないとのこと。午後、大栗須や小川口地区の墓地を見学したが、墓参者もいて、各墓地にシキミも添えられており、先祖祭祀自体への住民の思いは継続していることを確認。昼前、金光教入鹿教会の月例祭に参加。約1時間の儀礼。その後、参加者たちとの懇談の場を、教会長から設定していただき、個々人の状況や葬送に関することをうかがった。2代、3代の信者も多く60歳代から90歳代までの参加者への信仰継承はなされたが、紀和町に住んでいない次世代への継承が課題だとわかった。葬儀は慈雲寺で行い、簡略化せず実施するという。天理教分教会も見学。大馬神社は例大祭(23日)の準備。参拝。この過疎地域では簡略化せず葬送儀礼を継続していることを確認した。
分担課題
「葬送儀礼における地域の宗教的慣行の研究」に基づく研究調査
(三重県津市白山町の寺院における、葬送儀礼に関する聞き取り調査)
川又 俊則 客員研究員
期間 平成25年2月11日(1日)
調査地 真宗高田派善性寺(三重県津市白山町川口)
真宗高田派善性寺(津市白山町川口)藤喜一樹副住職に面会し、同地域における葬送儀礼に関する聞き取り調査を実施した。同地域では真宗高田派が卓越する地域であり、西南部は過疎指定を受けている津市美杉町、東側は津市や松阪市の近郊となる旧久居市、旧一志町、旧嬉野町に囲まれており、人口はやや減少するも、中高年層が一定程度定着をしている地域である。旧一志町にJAの葬祭場が平成年間にでき、また松阪市郊外等にも葬祭場ができるようになり、葬儀が自宅から葬祭場へ変更になるケースがこの地域でも見られることが確認された。また、棚経など葬後儀礼については、維持されているケースも多い。
また、この地域では高田派寺院の協力関係が比較的うまくいっているようで、住職同士の交流などもあるという。定年退職者が責任役員を務めるなどの寺院では高齢者への対応も次の世代の担い手もいるが、高齢者が責任役員を務め続ける寺院などでは、檀家・門徒の後継者問題などもあること、それにより葬送儀礼が維持できるかと危惧されていることなど、具体的な事例を中心に参考になることを多くうかがった。
分担課題
「能・狂言にみる死後の魂の存在」に基づく研究調査
(能楽と戦国武将との関係における、寺院の墓標および葬送に関する調査)
原田 香織 研究員
期間 平成25年2月22日~2月24日
調査地 大徳寺・光悦寺・源光庵(京都)、伝香寺・筒井順慶歴史公園・達磨寺(奈良)、豊国神社など(大阪)
初日は、戦国武将関係において京都を中心に、大徳寺三門とその塔頭(龍源院・瑞峯院・大仙院・高桐院)等を調査した。大徳寺は、元応元年の室町時代前からの由緒をもち、一休禅師が再興した臨済宗の寺院の総本山であるが、織田信長・千利休・豊臣秀吉の歴史的な事件の舞台でもある。茶道もさることながら、禅の思想がそのまま庭園などに示され、細川家代々の墓標など、能の関係の墓標も多い。禅寺全体が循環する宇宙、生死がつながっている世界観が示されている。また、鷹峯は家康から本阿弥光悦に与えられた、謂わば芸術村であるが、光悦寺はその一族と職人関係の集団が住んだ場所であり、光悦の美意識が凝縮されていた。光悦は、実は観世黒雪と交流があり、墓標も独自のものであった。そして源光庵(京都)は閑静な枯山水庭園をもつが、臨済宗大徳寺の徹翁国師が開き、後に曹洞宗に改宗されたが、徳川家家臣の鳥居元忠らが石田三成に攻められて自刃した伏見桃山城遺構の生々しい「血天井」がある。血ぬりの手形・足形が残り、戦国時代の武家の死生観と葬送の弔いの印となっていた。
2日目は、奈良で筒井順慶にかかわる伝香寺、ここは小さな寺院で秘仏の聖徳太子立像・地蔵菩薩像などがあった。戦国武将筒井順慶は茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であり、僧でもあった。筒井城の「筒井順慶城趾」と書かれた石碑や、順慶の墓などがある筒井順慶歴史公園を踏査した。また達磨寺は、臨済宗南禅寺派の寺院で、ここには6世紀ころの古墳と千手観音菩薩・達磨大師・聖徳太子などの像があり古い歴史をもつが、順慶と対立した松永久秀の墓がある。
3日目は、大阪城天守閣、豊国神社と、大阪城周辺の戦国武将関係の寺院、真田幸村から家康が逃げたという大聖観音寺、幸村の最期の地安居神社などをめぐった。有意義な調査であった。
パネルディスカッション
平成24年10月27日東洋大学白山校舎第2会議室
発表者
野呂 芳信 研究員
竹内 清己 客員研究員
朝比奈 美知子 研究員
原田 香織 研究員
研究発表
意志と宿命
―萩原朔太郎における神への接近と墓について―
野呂 芳信 研究員
(発表要旨)本発表は、死についての思索を生涯続けた近代日本人の例として、萩原朔太郎の死生観について、大正5年のドストエフスキー体験から数年の思索内容を中心にたどるものである。
大正3年末から四年初めにかけての「浄罪詩篇」の試み挫折を経て、朔太郎は自己の生命感の希薄さ、愛の欠如を痛感し、ほぼ1年間の詩
作中断にいたる。そして5年4月、彼は変革することの不可能な自己の醜さを抱えながら、神(ドストエフスキーのイメージ)にそのままで認められ赦される、という神秘的な体験を持った。そのことによる熱狂的な救済感覚はやがて醒めてゆくが、詩集『月に吠える』後半期の詩作再開のきっかけとなった出来事である。以後彼は神が与えた自らの醜悪な内面をむしろ凝視することで神に接近し、救われようとする道を選択する。このことを基礎として、朔太郎はこの時期にノートなどに新しい宗教観を数多く記している。
しかしそのようにして将来的に救いにいたったとしても、「死」の問題はやはり朔太郎を悩ませる根本的なものであった。なぜなら、何らかの奇蹟により救いに到達するようなことがあったとしても、そのすぐ後に「死」がやって来ては仕方がないので、朔太郎にとっては、内面的な救いとともに、「死なずにすむ」ということがなければ最終的な救いとは言えないものであった。
このことに関して、朔太郎は大正6年ごろのノート6に、「不死の人になるまで」という文章を書いている。それによると、たとえ死後にも人間の霊魂がエネルギーのように一定の質量で空中に存在し続けたとしても、それはただの物象であり、人間の生命ではない。「死後も尚生前の自分と同じ感覚、同じ感情、同じ人格、同じ苦悩、同じ快楽、同じ生命をもつてゐるもの」としての「人格ある霊」、「死んでも死なない生命」がどうしても必要である。
この観点から当時の朔太郎は仏教を否定し、キリスト教に接近する。キリスト教の信仰によって不死の人となることを願うのである。とはいえ、ラザロの復活、キリストの復活を文字通りに信じることのできない朔太郎は、なかなか信仰には入れずにいる。しかし将来的には、信仰に入りきりその感情を信じることで、不死の生命を自分だけでは得ることができるとした。
このことは朔太郎自身でも理性的な反駁を内包するものであり、その後の彼の道程を確認すると(詩「国定忠治の墓」、散文詩「墓」など)、むしろ生の戦いも死後の生の観念も「無用」「無意味」とする虚無的な死生観へと移行していることが確認される。
研究発表
ソ連参戦による日本軍の敗走―戦死者と千島引き揚げ者
竹内 清己 客員研究員
(発表要旨)私にとってまぼろしの大連・旅順となった。尖閣諸島の領有問題で中国の排斥運動であきらめて、北海道最東部、すなわち日本最東端の根室・納沙布岬に変更した。副題は「戦死者と千島引き揚げ者」ということになった。根室では、ときわ台公園に根室女工節歌碑、護国神社跡の戦没者慰霊之碑などを見てまわった。
納沙布岬が最大の目的地。四島のかけ橋には永久の灯がともり、四島返還の思いを誘う。クナシリ・メナシの戦いや寛政の蜂起和人殉難墓碑があって、歴史の不幸を刻んでいる。北方館・望郷の家からは望遠鏡で歯舞諸島をとらえられた。ロシアの監視塔、監視船が佇む。「われらの北方領土」(外務省冊子)「北方領土復帰期成同盟の返還運動」のパンフレットをいただく。納沙布岬灯台「日本最東端の碑」。
花咲には、根室市歴史と自然の資料館があった。このレンガづくりの美しい建物は、大湊海軍通信隊根室分遣所のあとだった。
北海道立北方四島交流センターには北方資料室があり、さらにロシア文化室、日本文化室が並んで、今日のロシア、日本の交流を支えていた。
釧路から摩周へのトロッコ号を塘路で途中下車した。塘路駅逓所とか標茶町郷土館を詳しく見学。学芸員の説明を受けた。アイヌの生活・民俗資料豊富。ここも明治に釧路集冶監の本館、廃監となった軍馬補充部上川支部の事務所となり、戦後標茶高校の敷地内から塘路に移転復元されたものだった。釧路川とアレキニナイの合流点二股に遭難碑・校長と生徒二基の石地蔵があった。小学校の校庭に頒徳碑があった。
川湯からの屈斜路湖畔のアイヌ民俗資料館を断念した。川湯温泉生成碑・原田康子文学碑に佇む。
弟子屈=摩周の更科源蔵「雲」碑見学、更科源蔵文学資料館(釧路圏摩周観光文化センター)にて踏査研究を終えた。
ソ連参戦がもたらした戦争の災難は、千島からの多くの引き揚げ者をもたらした。(様々な施設に、その人数、住居表示まで明らかにしていた。)
研究発表
都市放浪者の見た葬列パリ、コンスタンチノープル、そしてエジプト
朝比奈 美知子 研究員
(発表要旨)1830年ごろに導入された産業革命にともないフランスにおいては、急速に近代化が進み、その影響で、フランスの社会は現在我々が目にするような形へと劇的に変貌していく。その動きの中で首都パリもまた、昔ながらの街から近代都市へと変貌を遂げることになる。首都の近代化の必要性は、フランス革命の前後から度重ねて主張されてきたが、パリがもっとも劇的に変貌するのは、1852年に始まった第2帝政下、ナポレオン3世と彼によりセーヌ県知事に任命されたオスマンによって断行されたパリ大改造時である。
発表で扱ったジェラール・ド・ネルヴァル(1808―55)は、その近代化の萌芽期に活躍し、オスマンによる大改造にも晩年に触れた作家である。彼は、当時の大都市に現れた「都市遊歩者」というタイプに属すると考えてよいが、彼らは、日々の放浪によって刻々に変わる都市の様相を体感し、それを自身の創作の霊感とする一方で、近代化がもたらすさまざまな歪みを自身の裡に刻んでいく。ネルヴァルは狂気の発作に見舞われたことで知られるが、その狂気自体、個人の資質によるばかりでなく、上記のような近代の歪みが尖鋭的な形で発現した例であると考えることもできるだろう。
ところで、ネルヴァルは、パリ放浪に霊感を得た作品(『10月の夜』、『オーレリア』など)を継続的に発表する一方で、1843年の初頭から年末にかけて、ギリシャ、エジプト、シリア、トルコなどいわゆる「東方」諸地域を巡る度に出かけ、その印象を『東方紀行』に残している。実は、東方への旅そのものが、蒸気汽船の導入という近代工業技術によりもたらされたものであったが、一方、東方というトポスは、エジプト、メソポタミアなどで知られるように文明の揺籃の地として、さらに、近代ヨーロッパとは異なる思想や生活文化が存在する場所、つまり近代へのひとつのアンチテーゼを孕む場所として、当時の文学者、芸術家を惹きつけてきた。
近代西洋と東方における死生観の違いは、ネルヴァルにとっても深い関心を寄せるテーマであったようで、パリの遊歩、近東旅行記にはそれぞれ、墓地、あるいは葬送儀礼に関する興味深い記述が含まれている。発表においては、パリの放浪を描く『10月の夜』と『オーレリア』に示唆される死や葬送儀礼の隠蔽、疎外と、『東方紀行』のエジプトとコンスタンチノープルの描写にあらわれた死と生の共存のイメージを対比させ、それを通じて、近代化の功罪について考察した。
研究発表
死者を呼び起こす音
原田 香織 研究員
(発表要旨)古能楽における夢幻能の形式では、諸国一見の僧が供養のためにワキとして登場するが、それは名所・旧跡にまつわる死者の物語を呼び起こす機能を果たす。その際に、音曲面では場の空気を転変させ、この世とあの世とがつながる空間を形成する役割となってい
る。
特に笛の果たす役割は、死者を呼び起こし、こちら側の世界へといざなう独自の効果をもつ。死者の物語を語る際の音曲の特質について、囃子事と世阿弥の音曲系伝書から、検討した。
笛は、古代に葬送儀礼で使われた。浮遊している死者の霊を呼び戻し、その魂を鎮めるために演奏された。つまり笛は、霊界との境で、その霊界の魂と交感するための道具だった。木製の笛は、古く奈良県星塚1号墳(6世紀中葉・天理市教育委員会『星塚・小路遺跡の調査』1990)の周濠から笛状木製品が出土している。古墳に由来する遺物と考えられ、葬送儀礼に使用された可能性が高い。『日本書紀』天武天皇14年9月条には、「9月甲辰朔壬子、(略)「是日、詔曰、凡諸歌男・歌女・笛吹者、卽傳己子孫、令習歌笛。」と、笛関連の記事がある。
田中麻里氏「奈良県の田の字型民家における葬送儀礼における空間利用―告別式、満中陰、一周忌を事例として―」(『群馬大学
教育学部紀要2010』)では、葬送儀礼において「楽人は笙、篳篥、竜笛を演奏する。」という。
奈良県には天磐笛、笛吹神社(奈良県葛城市笛吹448番地笛吹神山鎮座)があり、古墳時代後期「笛吹部」「笛吹連」は古墳の葬送儀礼と密接に結びついていたと思われる。
また、石笛・岩笛については、球形、鶏卵形の石製の気鳴楽器(笛)で縄文時代の遺跡から発掘された、約5000年前の縄文時代中期にまで遡ることができる。縄文時代に使われていた石笛の音は、祭祀(神や祖先を祭る事)と結びついて、いわゆる神おろし(鎮魂)に使われていたものと推測されている。古代の日本人のとらえた感覚的な音は自然崇拝に根ざした呪術的性質をもつ。当時、石笛は人と神を結ぶ神聖な楽器として崇められていた。能狂言に使われる能管(横笛の1種)の音は、石笛に似ていると言われる。
神道では、本田親徳は、岩笛を「鎮魂帰神の作法に必要な用具たるべし」と、岩笛による響きの中に「ユー」という音を含ませて吹く帰神法を復活させた。本田流口伝である。神道―鎮魂帰心法である。平田篤胤(ひらたあつたね)も天岩笛を得た。
結論として、世阿弥『習道書』では「笛の役者の事。当座一会の序破急にわたりて調感をなす、一大事の曲役なり。」というが、笛を吹くこと=神仏の霊を呼び起こし、交流するという霊的な世界の入り口を開く。夜口笛の禁忌=魔的なものの呼び起こしとなる。
研究発表会
平成24年11月10日白山校舎第2会議室
補陀落渡海と常世
―九州の補陀落渡海―
大鹿 勝之 客員研究員
(発表要旨)
本発表では、平成24年8月17日~8月20日に行った、九州の補陀落渡海の調査の報告とともに、補陀落渡海と常世との関係について若干の考察を試みた。熊本県玉名市繁根木八幡宮裏の稲荷社の一画にある弘圓上人の補陀洛渡海碑、玉名市伊倉北方の本堂山緑地にある夢賢上人の補陀落渡海碑、鹿児島県の加世田小湊より渡海したとされる舜夢上人に関わる維雲庵跡について、現地で撮影した写真をスライドで表示しながら報告した。
さて、弘圓上人の補陀落渡海について、『肥後国誌』巻之九玉名郡に、里俗の説として次のように示されている。
補陀落世界ヘ参ルヘキ大誓願ヲ起シ、彌ヨ彼地に生セハ、此松ニ龍燈ヲ掛ヘシト誓ヒ、土船ヲ造リ、松ノ木川ニ浮カヘシニ、直ニ沈没セシ
カ、翌年其日ニ当リ、海中ヨリ一點ノ燈火出テ、此松ノ梢ニ掛リシト云傳フ
このように、土船で渡海を試みただちに沈没したことが伝えられているが、この里俗の説を信じるならば、土船を浮かべればただちに沈むことは明白であり、この場合渡海の向かう先は、熊野那智の海岸からの渡海や、足摺岬・室戸岬の補陀落渡海の伝承から窺えるような、観音浄土とされる補陀落世界を海の彼方に定めるあり方とは異なっている。
しかるに、堺市発、ばあでれガスパール・ヴィレラ(P Gaspar Vilela)の書翰に、この堺にやってきた後、日本人の抱いている虚偽の天国へ往く流儀が述べられているが、そこでは、天国に向かおうとする者は、天国は海底にあり、そこには観音と称す聖人がいると信じていると報告されている。この報告から、海底へと向かう補陀落渡海のあり方を考えることができ、その点で、来世の浄土を目指すとされる入水往生と、生きながらにして浄土に向かおうとする補陀落渡海との違いを指摘することができる。
また、補陀落渡海には、他界としてのあり方や、この世に対する楽土としてのあり方から、常世信仰との習合が指摘されているが、折口信夫が「海上遥かな死の島への道が、海底を抜けて向うへ通じて居ると言ふ考へが一轉すると、海底にある國と言ふ様に變る」(「古代生活の研究常世の國」)と述べ、また、16世紀にキリシタンの宣教師たちが各地でみた補陀落渡海船の、「船底に穴を穿いた船」であり(ダルカセバ書簡)、「船に大なる孔を作り、栓をなし、これを抜きて船共に海底に沈む」船であり(フロイス書簡)、「船が沖に出た時、漸次水が入って沈むやうにと船底に穴をあけた」船であった(『東方伝導史』)という構造の報告(根井浄『改訂補陀落渡海史』、法蔵館、2008年、718頁)から、そして、浦島伝説や火遠理命の神話などから、海底に常世のイメージを描くことができる。
本発表では最後に、海の風景と補陀落渡海との関連性を指摘した。舜夢上人が渡海したとされる加世田小湊は、港の防波堤の右側の砂浜に立ってみると、右手の、島や遠くにかすむ陸地とともに、遙かなる海原が広がっている。弘圓上人の渡海碑がある繁根木八幡宮、夢賢上人の渡海碑が建つ伊倉の本堂山公園も、加藤清正の干拓事業(1589)以前は、海に近かった。伊倉の近くを流れる菊池川には、かつて貿易港として栄えた丹倍津港があった。玉名市の高瀬大橋から菊池川を下流に望むと、鹿児島本線の陸橋の先は、現在は川の流れが西へと湾曲して、海を直接に見ることはできないものの、海へと向かう菊池川の流れの先にある、海原の光景が浮かんでくる。そのような遙かなる眺望を菊池川は湛えているようにもみえる。海の向こうに常世があるとされ、海岸がこの世から常世へとむかう出発点であるとすれば、海の彼方の風景は、常世の風景に重なり、補陀落渡海において向かう先も、このような海の風景が関わっているといえる。
研究発表会
平成24年11月10日白山校舎第2会議室
過疎地域の葬送儀礼と年中行事の維持と変化
――三重県の事例を中心に
川又 俊則 客員研究員
(発表要旨)人口減少時代を迎え、「限界集落」地域に関する多様な分野で調査がなされている。だがそれらほとんどで「宗教」の視点はない。「コニュニティの中心」として重要な場所を尋ねた調査で「神社・お寺」は、「学校」「福祉・医療関連施設」を下回った。
葬送儀礼について、地域共同体による相互扶助としての葬儀から故人と直接関わらない者が参列する葬儀、そして、家族葬や直葬などの変化が指摘されている。通過儀礼や年中行事の変化は、たとえば七五三は、開催日が昭和40年代から拡散し、11月15日直前の土・日・祝開催が多いこと、それが初詣の一部特定神社への集中時期との関連で考察され「氏子意識の希薄化」だと考察されている。一方、過疎化で祭りを中断することを避けたい住民意識から、夏祭りの例祭日を変更しつつ30年以上も継続している例もある。
報告者は東西南北に広がり、地域ごとに特徴も大きく異なる三重県で調査をしている。平成24年現時点で5市4町(10地域)で過疎地域がある。
過疎地域の事例として、鳥羽市答志島の「神祭」と「火入れ」を紹介した。前者は担い手を高校生に拡大するため開催日を変更した。だが同祭は地区住民、元地区住民が集まる最も大きな行事として、内容を維持されている。後者は集団墓参だが、内容・日程とも維持されている。他の過疎地域で、年数回の法要が高齢檀家の活動の場となっている事例もある。また、後継者の多くが転出も見られた。過疎以外の地域でも、志摩市大王町波切の「大念仏」、伊勢市一色町の「笹飾り」など葬後儀礼の維持も確認した。年中行事では、幾つかの祭り、とくに地域の小中学生に伝統芸能の継承として踊りを奉納している例も紹介した。
三重県では平成に入って、葬儀場が各地に普及してきた。自宅葬から葬儀場葬への変化は、葬送儀礼自体に日程を含めた変化を生じせしめている。だが、墓参や盆行事の実践などを見る限りにおいて、先祖や近親死者への遺族の思いは継続していると見なせる。年中行事等は、旧来の固定日ではなく土日開催へ変更、担い手たる高齢者のために夜から昼に時間帯変更で維持している事例もある。このように、工夫を凝らし担い手を確保し行事を続けている。だがこれまで過疎地の中心を担ってきた世代が80歳代を越え、その次世代がすでに地域を離れている現況から、今後どうなるかは予断を許さない。各地域は現状維持に精一杯である。報告者はこの調査研究を継続していきたい。
公開講演会
平成24年12月8日東洋大学白山校舎6301教室
教育としての葬送
菅原 伸郎 氏(東京医療保健大学大学院客員教授)
(講演要旨)学校の先生たちはとかく「明るい教室」や「笑いの出る授業」を目指しがちだ。たしかに、多くの児童生徒はそれを望んでいる。だが、教室の片隅に、気持ちの晴れない、悲しみに沈んだ子どももいるはずだ。朝、登校する前に両親がけんかをしていたとか、お爺ちゃんが肺がんで入院したとか。教師たちはそれを無視して、吉本新喜劇の舞台のような教室ばかりを演出していないか。
「道徳」の授業などで「死」をじっくり話したい。しかし、実際のところ、小中学校で、高校で、それを語れる教師がどれだけいるだろう。ベテランと言われる教師でも、実は人生を語るには若すぎる。そうなると、「死の教育」はむしろ家庭や地域が担うべきである。昔はさまざまな対処や作法を、祖父や祖母、土地の古老らが教えてくれた。それが出来なくなった今日では、改めて工夫が必要だ。
葬式に子どもを連れて行かない、悲しい思いをさせたくないから、という親も増えている。しかし、幼い時から積極的に連れて行ってはどうか。お棺を開いてお別れする時は冷たくなった身体に触らせる。火葬場での骨を拾うときは、子どもにもハシを握らせる。そのようにしてこそ、彼らは人間味豊かな大人へと成長していくだろう。
死を学ぶ最適の現場は、葬儀場であり、火葬場である。そこには遺体という厳粛な教材があり、目前で「無」になってもいく。浄土真宗の僧侶なら、通夜の席で蓮如の「白骨の御文」を読み上げる。まさに、会葬者のための、格好の「死の教育」である。そんな契機によって自身の死、さらには永遠とか無常について考える大人も多いのではないか。
なぜ「死の教育」が必要なのか。もちろん、人間としての成熟が目標だ。しかし、当面はカルトや迷信に取り込まれないように、という効果もある。普段から死について考えていない人は、自分や身内が「いざ」というときにうろたえ、怪しい詐欺集団に大金を貢ぐ事にもなりかねない。葬儀で人生に目覚めたなら、その機会に、迷信に惑わされない強靱な思想を育てたいものである。
葬儀場が教室であるなら、教える「教師」はだれになるのか。まずは「白骨の御文」などを読み上げる僧侶が考えられる。しかし、それよりも、亡くなった人が立派な最期を遂げていれば、その死にざまこそが生き残った者にとって尊い励ましになる。逆に言えば、これから死んで往く人は、とくに老人は何とか見かけだけでも「かのように」振る舞わなければならない。つまり、私たちはこの世に残る人々のために、人生の先輩として、いつも「しっかり生き抜く」という責任を負っているのではあるまいか。