平成23年11月19日 東洋大学白山校舎5201教室
平成23年11月19日 東洋大学白山校舎5201教室
慈恩大師基の事跡と著作について
林 香奈 奨励研究員
基(632-682年)は、玄英三蔵の弟子の1人であり、中国仏教においては、新訳の経論に基づいた法相唯識の体系を構築した人物として位置づけられている。基は「百本の疏主」とも呼ばれているように、著作も非常に多く、真撰が確実とされるものだけでも12部96巻が現存している。
しかし、中国仏教が最も華やかな時代に活躍し、多くの章疏を残しているにもかかわらず、基に関する研究はさかんであるとは言い難い。そこで筆者は本発表において、基の名称・事跡・真撰とされる章疏の確定について、現時点での研究成果を紹介した。基の名称については、「基」の一時とする説と、「窺基」の2字とする説があり、さらに一部の資料では「窺」という人物が「基」とは別に存在する可能性も示唆されている。現存する資料からは、どれが正しいかは判断しがたいが、筆者は渡辺隆生らの先行研究にならい、基自身が「基」の一時を用いていることから、これを採用することとした。
次に基の事跡について、『宋高僧伝』「窺基伝」の中でもよく知られた「三車和尚」のエピソードと、基の生存時あるいは没後間もない頃に作成された伝記資料との比較を通して検討した。基は先祖が北方の異民族であり、代々武門に勝れた家系に生まれている。そのような出生から想像される豪放編落な性格が、「窺基伝」では三車和尚の話を通して描かれていると言える。しかし、実際には基は親の死を契機に出家を志し、玄失のもとで十年以上研鑽を積むことで、『成唯識論』の翻訳というかたちで師の信頼を勝ち得ている。また、玄英の没後は著作の執筆に励み、各地で講義も行ったことが各種奥書から知られるが、吉蔵や浄影寺慧遠など過去の中国仏教の諸師の思想には疎かったことも読み取れる。
最後に、基の章疏の真偽について、保坂玉泉が用いた基の章疏の相互引用の調査という手法を用い、その結果を報告した。『成唯識論述記』など唯識系の著作や、『心経幽賛』をはじめとする五部の経疏、そして『大乗法苑義林章』は、相互引用が見られ、真撰であることがほぼ確実である。また、部分的に偽撰が疑われる『大乗阿毘達磨雑集論述記』について、第4巻までは『大乗阿昆達磨雑集論』と整合性があり、特に第1巻が思想的にも基のほかの著作と符合していることは、筆者が解明した成果の1つである。現在筆者は、基の弟子義令が基の講義を編纂したという『勝賞経述記』を読んでおり、基のほかの著作との思想的関連や、基以外の人物が関わることによって生じる思想的特徴及び問題点を考察していきたいと考えている。
ヒンドゥー建築論における都市と街路の関係
出野 尚紀 客員研究員
ヒンドウー建築論書における古代インドの計画におい ても 、 東西方向と南北方向の街路が都市の街路の基準となっている。 それは地面を64や81、 100などの四角いマスロに分割する ヴアーストウ・プルシャ・マンダラ vāstupuruṣa-maṇḍala のマス目を分けるグリッド線が基準となるはずである。どのグリッド線を使用 するのかなど、都市の種類とその関係がどのようなものであるかを考 察した 。 都市計画のような 、 大規模プロジェクトを総覧するのは、王侯など の高い社会的地位にいる人である 。 建築論は、実利論に内包される学問分野であるという自覚があることから 、 『カウティリヤ実利論』kauṭilyā-Arthaśāstra の記述を確認した 。 ヒンドウー建築論書の様式につ いての内容も 、 ヒンドゥー寺 院は北インド様式と南インド 様式に大きく2つに分けられることに合わせて北と南に分けられる。南北で代表的な文献として、9世紀から12世紀の間に 、チョーラ朝が治めていた,出ていた、現在のタミルナードウ地方で編纂されたとされる 、 『マヤマタ』Mayamata と 、 現在のマールワー地方を治めていたパラマーラ朝の ボージャ王 Bojadeva(1018?-1055?)が著した『サマ ラーンガナ・スートラダーラ』sāmarāṅgaṇasūtradhāra の記述を比較した 。
道幅は、『カウティリヤ実利論』のラージャマールガを換算すると、768アングラになり、『マヤマタ』の道を換算すると、96アングラから672アングラである。よって、『サマラーンガナ・スートラダーラ』のラージャマールガの道幅は、他のものよりも数メートル狭くなっている。そして、『サマラーンガナ・スートラダーラ』のその他の道は、小サイズの都市における18アングラと肩幅ほどの細さのジャンガーパタから、大サイズの都市における288アングラのマハーラティヤーまで、10種類以上の道幅が認められる。
街路については、『カウティリヤ実利論』の割り振りを発展させ、道幅が狭くなっているが、より詳細な規定を設けている。街路の割り振りに64マスのヴァーストウ・プルシャ・マンダラを利用することは、本文のラージャマールガの位置について記す場所に書かれている。しかし、『サマラーンガナ・スートラダーラ』に記されている他のマスロ、つまり81マスと100マスでは、街路の本数が、東西方向と南北方向それぞれに17本ずつのみであるため、利用することは難しい。そして、『マヤマタ』にさまざまな都市が記述されているが、『サマラーンガナ・スートラダーラ』と対応するものは記されていない。
亀井勝一郎の近世観 ―未完作『近世の曙から鎖国へ』復原への試み―
山本 直人 客員研究員
昭和34年1月から、『文學界』誌上で約8年間連載 された亀井勝一郎のライフワーク『日本人の精神史研究』。作者の病死により 、 近世初頭の「下剋上」の時代で未完に終わったが、当初は執筆当時の昭和戦後期の現代まで書き継がれる予定であった。
講談社刊『亀井勝一郎全集第18巻』の口絵と巻末のノートには、 未完となった第5部『近世の曙から鎖国へ』の構想メモが、手書きの ままオフセット印刷で掲載されている。本発表では、これらの断片か ら 、『日本人の精神史研究』のその後の進展を推察。また、「昭和史論 争」以降の作者の古典回帰を、同時代の唐木順三や山本健吉からの影響関係から探つた。さらに製井の全文業から、キリスト教や茶道、浮 世絵 、 建築 、 俳諧といった、近世にまつわる美術・宗教・文学への言及を抜き出し 、第5部を一部 復原 。 その近世観を考証した。
亀井の『日本人の精神史研究』については 、 同時代の国文学者らによる書評や解説などが残るだけで、作品の内実まで分析した論究は 、 今のところ殆ど見当たらない。さらに 、未刊となった第五部 『近世の曙から鎖国へ』の構想メモについても 、 全集解題以外で言及したものは皆無 となっている。
質疑では 、名井の具体的な仏教観 、近世観のあり様を確認されるなど、自分の中でも実はまだまだ未消化だった部分も明らかになった。 また 、 名井の宗教観 、 歴史観の下地となった仏典や史書などの一次資料との照合といった、新たな課題も出てきた。
本発表とほぼ同内容のテーマについては、すでに『東洋学研究』第47号掲載の「亀井勝一郎日『本人の精神史研究』への軌跡」 、 同第48号掲載の「亀井勝一郎の晩年と近世観―『日本人の精神史研 究』第五部構想と中絶―」で 、 論文化している。しかしながら、当初 は右記論文の附録として 、 手書きによる亀井の構想メモの翻刻化も試 みたものの 、 こちらの力量不足により 、 一部の判読不明箇所を充分解 読することができなかった。それ故今回の回頭での発表により、未翻 刻の構想メモを外部に提示することで 、 査読評だけでは伺えなかった視点や 、これまで自分が見落としていた課題も自覚することができた。 雨天も重なり 、当日の例会自体は決して盛会とはいえなかったが 、 今後の研究の進展を図る上でも極めて有意義な示唆を得ることができた 。
安然思想における幾つかの問題
土倉 宏 客員研究員
私は今まで安然の2つの主著に焦点を当てて研究を進めてきた。すなわち『教時間答』と『菩提心義抄』の二書である 。 この二書の内容 からいえることは 、 安然が様々な視点から円密一致思想を展開してい るということである 。 今回の発表の内容は 、 この二書以外の著作から 安然の思想の特徴を考察してみることであった。
取り上げた著書は『普通広釈』、『胎蔵具支灌頂記』、『悉曇蔵』、『 胎蔵界大法対受記』 、 『金剛界大法対受記』である 。 これらの著書から取り出せる安然の思想の特徴を次の12項目にまとめてみた。①密教に基づく戒観 、 ②円教に基づく戒観 、 ③真如仏性に基づく戒観、④円密 一致に基づく文字・語言観 、 ⑤真如理智に基づく文字・語言観、⑥ ས 字重視の思想 、⑦汗栗駄心、③「衆生による隠密」観、⑨密教的 三身観 、 ⑩円密一致の三身観 、 ①三種悉地と三身観 、 ⑫諸行法と三身観 、の12項目である 。
①から③は主に『普通広釈』に見られる安然の戒観である。密教の 三摩耶戒を最も重視する①の立場 、 密教色を含まず法華円教に基づく 戒を重視する②の立場 、 円密一致に収飯するものの 、 天台教学とも密 教教学とも一定の距離を持つ真如観から戒観が展開される③の立場 、 以上三つの戒観について考察してみた。
④は円密一致に基づく文字・言語観、⑤は円密一致に収飯するものの天台教学とも密教教学とも一定の距離を持つ真如観からの文字・言 語観を考察してみた。
⑥は安然におけるས 字重視、⑦はས 字重視と運動して展開される 汗栗駄心の考察である。汗栗駄心は草木成仏説とも関連し、『菩提心 義抄』においても大きく取り上げられている「心」であり、今後も追究していきたい「心」である。④⑤⑥⑦は主に『悉曇蔵』、『胎蔵具支 灌頂記』から考察してみた。
⑧は紙幅の関係で省略する 。⑨から⑫までは安然に見られる三身思想の重視という問題である 。 これは主として 『胎蔵界大法対受記』 、 『金剛界大法対受記』から考察した 。 安然は天台の学匠である から天台の三身観を重視する ことは当然なのであるが 、場合によっては天台教学からだけでは導き出せない三身観の問題もあり 、 安然の三身観は すべてを一括りにできない難しさがある。⑨は密教色の強い三身観であり、⑩は敢えていえば円密 一致的三身観。①では最澄以来の三種悉地が安然に至って破『地獄儀軌』と会通した問題を扱い、⑫では密教事相における三身観を扱った 。 今後も安然の諸著作から安然の思想を精査していきたい。
清末民初期における「チベットの独立」を語る言説と史料
田崎 國彦 客員研究員
本発表の目的は、第1には、1951年の軍事力を背 景にした強制を伴う「十七か条協定」の締結によって中華人民共和国に組み込まれるま で 、「チベット」が本来、あるいは1913年以降「独立国」であったことを実証する 「言説」と「史料」を新たに 収集して公表し、第2には、この言説と史料を用いて 、「チベットの独立」に対する 「批判的な諸見解」に反論することにある 。そして最終的には 、 チベットの独立を論証し 、さらには 、こうした実証と論証などをもとに 、 かつてのチベット政府(ガンデン・ポタン)を正当・正統 に継承する「チベット亡命政府」―亡命政府も正式に他国による政 府承認を得ていないが――には 、現中国に対して「ダライラマのチベット帰還など、チベット問題の解決に向けて対話を求める資格と権利」があり 、 他方現中国にはこの要求に対して「応答責任」があるこ とを明確化することにある〔「実証と論証など」の「など」としては、十七か条協定の問題点を取りあげた拙稿「チベットはどのようにして独″立 状態クを奪われたのか―西蔵解放と十七か条協定の問題点」(『シルク ロード万華鏡』本の泉社、2012年4月刊行)があるので、参照された い〕 。
言説としては 、 1913年前後に 、 チベットに深く関わっていた英国人(チャールズ・ベル) 、 チベットに滞在していた日本人(青木文教 、 矢島保治郎、多田等観)と漢人官史(史悠明)、モンゴル国や帝政ロシアとの外交活動に尽力したブリヤート人仏教僧(ドルジエフ)などを 取りあげた。史料としては、チベットの独立を実証する「中国史料 (公文書など)」や、「チベット史料(13世が出したロシアの皇帝ニコライ2世と政府への文書 、 チベット人が独立宣言と見なす『布告』などの 「二種の文書」など)」を取りあげた。これらの言説と史料の多くは、 これまでにチベット亡命政府や研究者などが提示した資料には含まれないものであり 、 この点で”新たに”である 。批判的な諸見解として は 、 「二種の文書自体が独立宣言ではないとするもの」 、 「英国の策動 によるなどとして、チベット人の独立への意志や能力を否定するも の」 、 「国際法の法理主義に立つもの」などがあるが、特にチベット史 の世界的権威であるゴールドスタイン氏、日本を代表する毛里和子氏 や浦野起央氏、近年著書の日本語訳が刊行されている現代中国を代表する江暉(ワン・フイ)氏 、 ジャワハルラール・ネルー(インド初代首相)などの批判的見解を取りあげた。
本発表でいう「チベットの独立」とは、チベットはこれまで、モンゴル国(1913年の蒙蔵条約による相互国家承認…当時のモンゴルを独 立国家と呼び得る根拠もあげた)を除いては「他国による国家承認」を 受けておらず 、 このために「1913年以降 、 チベットは独立状態に あった、あるいは事実上の独立国であった」と言われる。発表者は、 国家承認の問題に関する責ク任の所在クは、チベットにあるというよ りは 、 当時の帝国主義列強諸国(英・露など)や自らもチベットなどの藩部に対して帝国主義国家と化した中国にあったと理解している。 こうした点からも 、 国際法の観点からは問題を残すが 、 作業手順の上では 、 チベットの独立と国家承認を分けて考察し 、 まずは「チベット の独立」を実証・論証する 。次いで、他国による国家承認の問題点 (特に国際関係の力学に左右されるといった国家承認の手む恣意性など) や 、 国際法の問題点(真の弱者を救済しない国際法の暴力など)や、国連の問題点(国家中心主義など)などに関する諸考察をもとにして”チベットに対する新たな国家承認の可能性(アパドライ氏やハリデー 氏などの見解ク)を追求し、提示した。
発表では 、 「独立国チベットの樹立」は、清国に直接支配された1910〜2年の間の「1年余りにわたる一連の抵抗運動(この凄惨な 戦いの目撃証人は矢島保治郎)」を通して、最終的にはダライラマ13世が清国に送った①「チベット帰還要請拒絶文書(1910年)」、13世がチベット人民に発した②「駆漢令(1912年」)、1912年末に13世が哀世凱中華民国臨時大総統に送った③「封号返還拒絶文書(この証人が青木文教で、本発表ではこの文書と推定し得る中国史料を提示した)」 、 及び1913年2月に13世がチベットの人民と全土に 発した④『布告』(本発表では『布告』を独立宣言と見なす史悠明の民国 政府報告書を提示した)によって達成されたと結論づけた。①と②と ③によって、中国側からの規定である伝統的な関係(朝貢と冊封という儀礼的な秩序体制、及び駐蔵大臣の廃絶)が、④によって、チベット 側からの規定である伝統的な関係(チューユン)が、いずれもチベット側により断ち切られたのである。チベットは、1913年、この両面からなる中国(清国とこれを継承した民国)との伝統的な関係を断っ て 、 独立国を樹立し 、 近代国家へと歩み出したのである。この国家 は 、「政府・国土・人民・外交」という国際法上の主権国家(独立国家)の資格要件を備えていたにもかかわらず、帝国主義国際体制とい う大局のもとで 、 また以下にあげる状況によっても、現中国の1950年の軍事侵攻まで 、 国家承認を十分に得られなかった。
外交関係の構築や国家承認の獲得などに向けた外交努力は、「ダライラマの外交官」と呼ばれたドルジエフが1913年の初頭以降は一手に引き受けたが 、 「蒙蔵条約」の締結以外は実を結ばなかった。ただし 、ドルジエフの露都ペテルブルグにおける活動とその内容は、民 国の『国民雑誌』(1913年5月)が公表しており、発表ではこれを 提示した。彼の西欧も含む活動は、当時の第一次世界大戦へと向う国 際情勢や、英国・中国・チベツトによるシムラ会議の開催がこれを阻んだのである。また、会議後は、イギリスとチベットだけで締結した シムラ条約がチベットを拘束し、また英国の対チベット政策(チベットと他国との交流を歓迎しない)もあって、チベットは、国家承認に向けた外交努力などを積極的に行えずに、逆に鎖国化していくのであ る 。(詳細は『東洋学研究』の本号掲載の拙稿で論じている。)