平成15年3月7日
平成15年3月7日
九想図にみられる心身観
榎本 榮一 奨励研究員
仏教において、人の身体は不浄そのものであるということを、観相しまた認識することのよって煩悩・執着を断たんとする行法がある。その不浄観の1つに人の屍相の推移を9つの段階に分け観相するのを九想観という。その九想観を図絵化したのが、九想図である。
九想観は『大般若経』『観仏三味海経』『大智度論』『摩訂止観』『釈禅波羅蜜次第法門』などといった経論に説かれている。ただその経論の内容を図絵化した九想図については、インドにおいては確認できず、中央アジアのトゥルフアンのトヨク石窟などに確認することができる。なお、敦煌においては九想図の存在は確認できていないが、敦煌文書中には「九想観詩」がみられる。
日本においては、空海が著した『遍照発揮性霊集』の巻10に所収される「続遍照発揮性霊集補閥抄」に「九想詩」が収められ、11世紀には源信が著した『往生要集』の「人道」に不浄相として九想が取り上げられている。
日本における九想図の古いものとしては、鎌倉時代になると『往生要集』の世界を表したものといわれている聖衆来迎寺の「六道絵」中の「人道」の1部として人の屍相の推移を描いた、つまり九想図を見ることができ、また醍醐寺の琰魔堂に九想図が画かれたことが知られる。図巻形式のものでは、「九想図絵巻」がこの時代のものとして伝存する。
室町時代の後半には、蘇東坡の作といわれる「九相詩」と和歌2首を詞書のように付けた絵巻形式のものもみられる。これは鑑賞を目的とした作品となっている。
近世になると、前代の蘇東坡「九相詩」と和歌を詞書とした絵巻物の内容を冊子の形態に改めたものが刊行されるようになる。この冊子形態のものは数種類のものが版行された。なお、この時代、内容としては「九想詩絵巻」の系統のものが多い中、これらとは内容を異にし『禅波羅蜜法門』に沿った、仏教初学者のためのテキストとしての版本もある。
トヨク石窟にみられる九想図は、行者が九想観を行うために描かれたものであったが、日本にみられる九想図は六道絵の1部分として描かれたものなど、他の用途として用いられたものが多い。九想図については材料的に乏しいのであるが、日本における九想図を中心にして、九想観法の対象としてだけでなく、九想図がどのように用いられたかを逐ってみた。
アーユルヴェーダの心身観
菅沼 晃 研究員
東洋思想の心身観を考察する場合、インドおよび中国の古代医学思想の影響を抜きにして、人間の心と身体の関係を語ることは不可能であると言ってよい。特に古代インドにおいて成立したĀyurveda仏教を通じてアジア各地に伝えられてチベット医学・モンゴル医学などとして現在にまで伝えられている。そこで、今回の発表においては、Veda文献に発する呪術的医学の心身観からĀyurveda までの心身観の展開のあとをたどり、Āyurvedaの基本文献とされるSuśrutasamhitā,Carakasaṃhitā,VāgbhaṭaのAṣṭāṅgahṛdayasaṃhitāを中心としたĀyurvedaにおける心身観の特色について報告することにした。
結論的に言えば、Āyurvedaにおいては、病気は「身体と心を苦しめるもの」(deha-manasisantāpaṃjanayanti)とされ、これを元の状態にもどして苦を除くことがĀyurvedaの目的とされている。
とくに人間存在を身体(śarīra)と精神(manas)とātmanが一体となったものとし、「霊性」とも言うべきātmanが顕在化するのが最終段階であるとされる。そこで、Āyurvedaは単なる医学ではなく、哲学・宗教・生理学・医学などのすべてを含めた「総合的な人間の学」であることがわかる。 tri-doṣa理論といい、pañca-karmaとよばれる浄化法といい、すべて部分的な身体の治療ではなく、広い意味の人間学としてとらえることが重要である。
以上、「Āyurvedaの心身観」というテーマで、もっぱら思想面からĀyurvedaを扱ってきたが、最後に研究上の若干の問題点をあげておきたい。
(1)Āyurvedaはインドの伝統的な″人間学″であり、全体として理解すべきであること。常に宗教・哲学との関連を考慮しつつ研究をすすめないと、その可能性を充分に引き出すことができない。
(2)従って、その効果を期待する余りに、思想性を無視してpañca-karmaを始めとする治療法を、現代の医学とそのまま比較することはきわめて不当であり、また、あらゆる意味において危険であるといわねばならない。
(3)tri-doṣa理論にしても、現代医学の観念で現代的な医学用語に置きかえていくことには無理があり、誤解を招く結果になることは言うまでもない。
(4)現在、Āyurvedaの研究は真の意味でのインド学研究者の手によるものはなく、主たる研究者は医師であり、これはこれで意味があるが、インド学研究者との連携が必要である。
(5)Āyurvedaを″人間学″としてとらえる研究によって、人間の精神性を含む全体的な人間の癒しの問題に、Āyurveda”が無限の提言をすることが可能となるだろうと考えられる。
このことは、高齢社会となったわが国において、きわめておおきな意義をもつと確信する。