平成18年10月21日 東洋大学甫水会館301室
平成18年10月21日 東洋大学甫水会館301室
扉風歌の詠法
ー紀貫之歌を中心としてー
能登 好美 奨励研究員
〔発表要旨〕今回の発表では、貫之の詠んだ扉風歌のうち、「音」が聞こえることを詠んでいる扉風歌を取り上げ、貫之が扉風歌を詠む際、どのような点に趣向を加えて詠んだのか、ということを考察したものである。
貫之の「音」を詠み込んだ扉風歌を考えるにあたり、まず『古今集』(巻第・雑歌上 930)を見てみる。これは、滝が流れる扉風を見て詠まれた歌で、作者は文徳天皇更衣で3条の町と称される紀静子である。この歌で静子は、水が流れ落ちているのは見えるが音が聞こえないと詠み、扉風歌だからこそ、音がしないことを強調して詠んでいる。つまり、絵を見て詠んだということを生かしている歌といえる。ところが、貫之は、扉風歌ではあるが、音が聞こえている、音が聞こえてくるという趣向の歌ばかりであった。これは、絵を見て詠んだという観点から1歩進み、絵に描かれた世界を現実のように表し、詠者だけではなく扉風を見る人もが絵に書かれた人物に成り代わって、さまざまなものの音が聞こえるのだという歌を詠む。音のするはずのない絵を見て詠んだ歌であるのに音が聞こえてくることを詠むことで、絵の中の世界がより現実的なものになる。見たまま詠むのではなく、音のするはず貫之なりの解釈を加え絵の世界を想像する。ここに貫之の扉風歌に対する意識が現れているのではないだろうか。また、3条の町の歌は、扉風に貼られた色紙形に書き付けるための、いわゆる画賛の扉風歌ではなく、あくまで、扉風に描かれた絵を題として詠んだ歌である。しかし一方の貫之の歌は、扉風の絵とともに鑑賞されるために作られた歌である。画賛の歌である扉風の中に書かれ、絵を見るとともに歌も鑑賞する)ということを考えたからこその詠みぶりだとも言えよう。
貫之は、季節を代表する景物を歌に詠み込むというような、和歌世界では常識的な歌の詠み方を、屏風絵の画賛という、特殊な歌の世界に敢えて取り入れたのである。屏風に描かれた絵―つまり現実ではないもの―を絵として詠むのではなく、あくまで現実のもののように詠むことで、屏風に描かれた絵がより新鮮に見えてくるという効果を考えたのではないか。屏風を見る人に描かれたものをより現実の風景として想像することができるような歌。それには、絵ではありえない現象を詠むのが最も効果的であろう。そういった点では、音のするはずのない屏風の絵に対して、様々な「音」を詠み込んだ貫之の歌は、一枚の屏風の絵を見る側に、絵の世界を現実的なものとして想像させるというものだったのではないかと思うのである。
近世初期宮門跡の文事
大内 瑞恵 客員研究員
〔発表要旨〕初代知恩院宮として知られる良純親王は、後陽成天皇の第8皇子として慶長8(1603)年に生まれ、寛文9(1669)年に没した。母は庭田氏の典侍具子。八宮と称され、親王宣下ののち徳川家康の猶子となり、得度して良純入道親王となった。
この良純親王の生きた時代である江戸初期は、京の朝廷では兄である後水尾天皇を中心とした寛永文化が花開いた。いっぽう江戸では家康・家忠・家光らを中心とする徳川幕府による政権が確立されていった。武家諸法度のみならず、公家諸法度などが制定され、江戸と京との間では政治的かけひきが常に行われていったが、その最中、良純親王は甲斐に配流される。その理由については諸説あるが、当時の公家日記などによると島原の遊郭通いが原因であったかと考えられる。京都所司代、板倉重宗により決定されたようである。
この顛末は後に、曲亭馬琴の紀行文『覇旅漫録』に記される。後陽成天皇の八宮である良純親王が、遊女八千代に馴染み、放蕩が過ぎたため所司代板倉侯が八千代を身請け、八宮に献上した上で甲州に配流したということで、鳥丸光広の遊郭通いと並んで江戸初期の公家の風俗について記した条とともに語られる。
ただし、八宮良純の場合は、甲州における和歌伝承がともなうという特徴がある。
なけばきくきけば昔のなつかしき此里過ぎよ山ほととぎす
この歌を良純親王が詠み、そのために甲州では山ほととぎすが鳴かないという伝承である。
しかし、この歌の作者として伝承されるのは良純親王だけではない。そもそも、この伝承歌は世阿弥の『金島書』では京極為兼が佐渡で詠んだ歌とされている。それだけではない。『佐渡国風土記』などの佐渡の地誌では順徳院の歌とされている。この歌は和歌集などにはいっさい採集されないまま、中世の説話・近世の随筆などに歌徳説話として記されている。結果として、讃岐の崇徳院・隠岐の後鳥羽院・佐渡の順徳院・佐渡の京極為兼・土佐の尊良親王が詠んだ歌として広まっていたことになる。そして、近世に入って甲斐の良純親王の詠んだ歌として荻生徂徠から馬琴に至るまでさまざまな人々が書き記していった。やがて、昭和13年には朝廷と幕府との軋蝶の結果の配流としてその母が顕彰されるという解釈にまで変化する。こういう伝承の存在の一方で、良純親王の書は各地に散在している。屋代弘賢、石野広道など江戸期の国学者たちは積極的に書物を集めているが、その際に「佐渡の良純親王の書」という書物を手に入れている。これらの誤解は前述の伝承を知っていなければ理解できないことであろう。では、このような伝承をもつ良純親王の実像はいかなるものであり、文化史的にはどのような存在であったか。良純親王の歌は少ないが朝廷で行われる御会には参加している。現在整理中の高松官家伝来禁裏本の御会集によってようやくそれらを見付けえた。
また、良純親王は生白堂行風編『古今夷曲集』を宮中に紹介したとされ『後撰夷曲集』には八宮御方としてその狂歌が巻頭におかれている。この狂歌集は出版された江戸期上方狂歌の嗜矢であり、その後の狂歌の流行に多大な影響を与えている。
このように、従来古今伝授が中心であった後水尾院歌壇であるが、視点を広げると多彩な世界がそこにあることを報告する。