平成11年10月30日
平成11年10月30日
西田幾多郎のインド哲学理解
甲田 烈 研究員
西田幾多郎(1870―1945)の哲学は、一般的には東洋に伝統的なものの見方を自覚的に論理化したものとされており、またそれは西田自身が目的としているものであった。
現代の西田研究はそれを裏付けるかのように、禅や浄土思想と西田哲学を比較し、その影響関係を探っている。しかし、西田が「東洋の論理」を主張した場合の「東洋」の射程については、曖味なままにされてきたのではなかっただろうか。
本発表者は、これまで注目されることのなかった西田のインド哲学理解に着目し、それと「東洋の論理」の形成過程と展開とのかかわりについて考察した。
結論を述べれば、西田の著作や講演におけるインド哲学への言及、他の諸思想に比べると圧倒的にわずかなものである。それはほぼ『善の研究』とその準備稿、『形而上学の根本問題・続編』の中の、「形而上学的立場から見た東西古代の文化形態」、および『日本文化の問題』に集中されている。そしてそれらを解読すると、次のような仮説が浮かび上がる。すなわち、インド哲学の「有」の論理を、自已の立場が「有」から「無の場所の論理」に転回したのに伴って、「無の論理」として再解釈したのが「東洋の論理」の骨格だったのではないだろうかということである。
西田の著作におけるインド哲学への言及は、『善の研究』のブラフマン=アートマン説の参照に始まり、最終的には、『日本文化の問題』において、インド哲学の我の論理とインド仏教の無我の論理が、大乗仏教の有即無の絶対無の論理に包括される過渡的形態として位置づけられ、その全てが「心の論理」として、「東洋の論理」と同義のものとして提示されていくのである。
さて、以上の考察を踏まえて今後の課題としては、西田の著作にしたがって、「場所の論理」形成に大きな役割を果たしたと思われる諸概念―たとえば限定と自覚―について考察し、それと現代および古代インド哲学の発想について比較し、その類似と差異について、さらに考察を進めていくことであろう。
印度哲学第1世代の諸問題
―実体という術語をめぐって―
三浦 宏文 研究員
明治期に成立した学問としての「印度哲学」は、「輸入された」学問である。したがって、このときすでに「非西洋人である日本人が、西洋の道具立てで全く異なる伝統を持うインド思想を、理解する」という「奇妙な事態」が生じてしまっている。この「奇妙な事態」の構図では、日本人を含む非西洋人の研究者は、自分がどの位置から発話しているか全くわからない。このような問題意識の上で、インド正統派六派哲学ヴァイシェーシカ哲学の用語 dravya の訳語である「実体(substance)」の語の用法を、我が国の「印度哲学第1世代」とも言うべき研究者の中でも木村泰賢と字井伯寿の2人と、第1世代に少なからず影響を与えたであろう井上哲次郎の3人に限って研究史的に追ってみた。
井上哲次郎は、専門の印度哲学者ではないが、日本で初めての印度哲学史講義を行った。彼の講義の草稿によると、井上は、実体に関して dravya=substance=実体と安易に同置し、一方で実体を「実物」、「万有実体」と言い換える。明らかに哲学用語と日常語の意味を混用している。
木村泰賢は、その著書『印度六派哲学』において、初めて仏教以外のヴェーダンタを始めとする印度六派哲学を正当に評価しようと務めた人物であり、ヴァイシェーシカ哲学の理解に際し、自然哲学、および実体等の用語を使用したが、訳語は基本的に漢訳話をそのまま使用している。『印度六派哲学』における木村の使用する実体概念は出典がはっきりしており、基本的にロックの実体概念である。
字井伯寿は、ヨーロッパの「客観的」文献学を最も忠実な形で日本に輸入した研究者である。字井の特徴は、実体概念のみならずほかの用語の説明に際しても、一切西洋の哲学者の説を引用・紹介しないことである。実体に関しては、主体と言い換え、かつ事物そのものと同置していることから、完全に日本語の日常語の「実体」の意である。
木村は、西欧哲学の用語や概念を使って説明しようとする傾向が見られる。実体という概念に関しても哲学用語としての実体を意識して使っている。
一方字井は、一貫して日常語としての「実体」概念を使用するのみならず、できうるかざり西洋哲学の言葉を使わず、漢訳語と日常語のみで解釈しつくそうとする。
以上のことから、印度哲学第1世代の主体形成は、ヨーロッパ古典文献学と日本の伝統的仏教学、そして西洋哲学という3つの道具立ての枠組みの中で分裂したまま挫折させられていることがわかる。この分裂した状況は、次の世代である第2世代の研究者たちによって、まず、伝統的仏教学の影響の払拭、すなわち「漢訳語からの脱皮」という形で収拾をはかられるのである。