2025年度 公開講演会 発表報告
開催日:2025年11月22日 場所:東洋大学 白山キャンパス6309教室・オンライン
2025年度 公開講演会 発表報告
開催日:2025年11月22日 場所:東洋大学 白山キャンパス6309教室・オンライン
孔子が「神」になった日―宗教的な面から探る儒教のかたち
講演者:水口 拓寿 氏
(武蔵大学人文学部教授)
本年度の研究所主催の公開講演会は、2025年11月22日(土)に白山キャンパスの6309教室での対面開催とオンライン・ミーティングを併用するハイブリッド形式で開催された。講演会の開催に先立って曽田長人研究所所長が挨拶を行い、講演者の水口拓寿氏を紹介した。水口氏が講演を行い、講演後、聴衆との間で活発な質疑応答が交わされた。
〔講演要旨〕
人と人の付き合いを論じるだけが儒教ではない。儒教がまるごと宗教に当てはまるか否かという、一時期流行した議論はさておき、宗教的と言ってよい成分、或いは宗教に類似すると言ってよい成分が、ところどころに見られるのは確かである。
儒教はその始まりの段階から、天や祖先に対する崇拝を呼びかけてきたが、やがて創始者の孔子までも神格化をこうむった。中国では儒教が「国教」(この語は必ずしも宗教を意味しないが)となって以来、歴代の王朝により孔子が定期的に祭られ、それは日本を含む東アジアの諸地域にも伝わっていった。中国の曲阜孔子廟、韓国の成均館文廟、日本の湯島聖堂などは、いずれも過去の権力者が孔子に献げた神殿である。そして、王朝国家や幕藩体制が消え去った後にも、孔子を神として尊んだ者は枚挙にいとまがない。
孔子は、なぜ神とされたのか。どのような神として尊ばれたのか。視点を変えて問い直せば、儒教にくみした知識人や、彼らを召し抱えた権力者は、なぜ孔子という神を必要としたのか。儒教のどのような性質を、神と化した孔子によって代表させようとしたのか。こうした問いのもとで歴史をたどってみると、孔子に対する崇拝と祭祀のあり方が、時代や地域に応じて異なる儒教的思考の特徴、もしくは儒教と政治的イデオロギーの結び付き方を、敏感に反映するものであり続けたことが分かってくる。
つまり、孔子の神格化という宗教的な面に注意を向けるのは、2000年あまりに及んだ儒教のかたちの変遷や変異の過程を、クリアに把握するための良い方法なのだ。更にはその延長線上に、儒教の未来を占うことすら可能であろう。
本講演では、孔子に対する崇拝と祭祀の歴史を、王朝時代の中国と、近現代の中国語圏を視野の中心に置いてお話しした。その沿革は、大きく4つの時期に区分するのが適当であり、各時期の特徴は、次のとおりにまとめることができる。
【第1期―最も遠い過去】
「素王(無冠の王者)」としての孔子―王朝国家を指導する神
漢から唐まで(前3世紀~後10世紀)
【第2期―次に遠い過去】
「先師」としての孔子①―エリートの倫理的修養を励ます神
宋から清まで(10世紀~20世紀初頭)
【第3期―記憶に新しい過去】
「先師」としての孔子②―近代国家のために「国民の団結」を促す神
中華民国と中華人民共和国(20世紀初頭~)
【第4期―現在、そして未来へ】
「先師」としての孔子③―個人主義化の進む社会を追認する神
台湾[中華民国]と中華人民共和国(21世紀初頭~)
そして、王朝時代の中国で更新を繰り返した孔子崇拝と孔子祭祀のあり方は、日本など東アジア諸地域に伝播した後、比較的順当に受容される場合もあれば、伝わった先で十分な肯定を得られずに終わる場合もあった。また、近現代に入ってからは、中国語圏と特に日本の間で、双方向の影響が生じるという現象も見られるようになった。
講演の中では、近代日本における注目するべき事例の1つとして、東洋大学の創立者である井上円了が「哲学堂」と呼ばれる施設を設け、その「四聖堂」に孔子・釈迦・ソクラテス・カントを祭ったことに言及した。井上のこうした活動などから窺われる孔子観を、東アジア規模に視野を拡げた孔子崇拝史、及び孔子祭祀史の上に位置づけようと試みた次第である。