平成15年6月7日
平成15年6月7日
「おらしょ」について
下崎 結 奨励研究員
長崎県北松浦郡生月町に現存している「おらしょ」について、紹介と考察を行った。
「おらしょ」というのは、ラテン語のoratioからきており「祈り」という意味である。
キリスト教は、16世紀後半にカトリックのイエズス会士によって伝えられたが、江戸幕府によって禁教とされ、その信者は厳しい弾圧を受けた。その弾圧や迫害をもってしても、信仰を捨てなかった人々を、隠れ(潜伏)キリシタンと俗称している。
彼らは、明治になって、長崎の大浦天主堂に現れ、自分たちがキリシタンであることを明かし、カトリックに復活したのであるが、現在でも民間信仰としての「カクレ」の信仰が生月にはある。祖先をまつる屋敷神と同等の信仰となっているため、その信仰を捨てられないのである。
彼ら「カクレ」の儀式で唱えるものが「おらしょ」である。長い年月の間に、本来のキリスト教の教義を伝える指導者を失い、表に知られぬように隠れて行うため集落ごとの交流もなく、ラテン語の祈りの言葉は訳のわからない呪文となり、聖歌は不思議な歌となったものである。それは祓い、清め、呪力をもつと信じられる。
特に、旋律のある「歌おらしょ」(「なじょう」「らおだて」「ぐるりよ―ざ」)は1部、音声資料を用いて、歌詞がラテン語に復元できるほどにしっかりと継承されていながら、旋律は和訛し、その土地の、民間信仰の歌となっていることを示した。
また和の歌詞がある「さんじゅあん様のお歌」についても触れ、祭のあとに日常に復帰する意味合いがあるか、ということも述べた。
今後の展望としては、1970年代には、特に音楽史の方から「おらしょ」の原典をさがすことを始め、研究がさかんに行われたが、生月の民間信仰、民謡として、信者の組織が崩壊していくなかで、現今の形を保存し、中世末、あるいは近世の歌謡、神道、仏教の歌謡とも比較していき、新しい民謡として考察していく。
西田幾多郎の『日本文化の問題』再読
山本 直人 奨励研究員
『日本文化の問題』は、昭和13年に西田幾多郎が京大主催で行った講演をもとに、岩波新書の1冊として出されたものである。戦後まもなくこの書物は、西田哲学の戦争協力のイデオロギイとして封殺されてきたが、近年それとは逆に、生前の西田が時流に抗じて独自の文化論を展開した事実が明らかにされつつある。本発表ではそれらの成果を踏襲しつつ、戦前の国体論、国家思想との比較を通じて戦時下に於る西田幾多郎の哲学者としての独自の立場を究明した。
まずはその背景となつた昭和10年代の国体論との比較である。昭和10年2月に、国会で美濃部達吉の「天皇機関説」が浮上。翌3月には「政教刷新に関する建議案」、「国体に関する決議案」が提出され、文部省では教育勅語の奉体、国体観念、日本精神の体現を目指した教学刷新評議会が設立された。西田幾多郎もその評議会に招聘されるわけだが、他に参加した日本主義者や皇国思想を信奉する学者たちと並列されることに、誰よりも違和感を示さざるを得なかった。
ただ、京都学派の哲学者たちを呼んだことからも、この評議会自体は決して偏狭な国粋主義を主張する様な組織ではなかった。昭和11年10月に出された「教学刷新に関する答申」からも窺へる様に、明治以来の極度の外来思想依存ヘの反省から出発し、またその方針にも、「益化ヲ接収醇化シ、我ガ国特有ノ博大ナル文化ノ創造ヲ目的トスル」とある。それに対して西田幾多郎はいかなる立場を表明したのか。評議会の意見書で、西田が強調したのは「精神医学ト称スルモノヲ、ソノ根底ヨリ、深ク研究シ、自在二之ヲ使用シ得ル境域二達セナケレバナラナイ」といふことであった。つまり西田幾多郎が戦前の国家思想に対して自ら守らうとしたものは、政治的な自由主義等といつたイデオロギイといふよりは、むしろ純然たる学問の客観性、主体的な自律性でなかったか。
このことは、新書版『日本文化の問題』の巻末に、附録として教学局主催の講演でなされた「学問的方法」を収録したことからも充分に証明できる。この講演で西田が主張したのは、日本文化を世界文化の1要素として尚ぶためにも、確固たる理論をもたなければならない、といふことであった。西田が友人宛の手紙で美濃部達吉の処遇に同情的だったのも、また後年軍部から「大東亜宣言」の草案を依頼され再三突き返した末「世界新秩序の原理」を書き上げることで独自の理念を表明したのも、『日本文化の問題』で打ち出した1人の学者としての信念、学問の自律性といった主張が一貫されてゐるという視点に着目し、報告の結びとした。