2002年度 公開講演会 発表報告
開催日:2002年3月16日
2002年度 公開講演会 発表報告
開催日:2002年3月16日
宗教的情操から根源的情操へ
―公立学校のために―
講演者:菅原 伸郎・朝日新聞記者
「学校で宗教を教えられないのは、教育基本法が悪いからだ」と説く人々がいる。しかし、そんなことはない。いまでも十分に教えられるのに、文部省や学校現場が逃げてきただけだ。保守勢力は「愛国心などを教えるには、道徳教育の方が手っ取り早い」という姿勢だった。革新側も「宗教はアヘンなり」というドグマから抜け出せないできた。
もちろん、「宗教教育」という言葉はよくよく吟味されなければならない。私立学校は別として、公立学校では特定の「①宗派教育」はするべきでない。しかし、仏教伝来や十字軍といった歴史、諸行無常や「敵をも愛せ」といった思想を「②知識教育」として教えることは大切であり、公私立を問わず、もっと充実させたい。カルトや迷信に対する「③安全教育」も緊急の課題だろう。また、国際化・多様化の時代には、「④宗教的寛容」もぜひ教えなければならない。
「⑤宗教的情操教育」と呼ばれている分野については、議論が多々ある。いわゆる「宗教心」のことだが、はたして特定の宗派に片寄らない指導がありえるだろうか。また、現在の道徳教育では「人間の力を超えた畏敬の念」という形で教えることになっているが、この「長敬の念」とは何だろう。学習指導要領の指導書によれば「畏れ」とは「畏怖」や「不思議」と定義されているが、それが本当の宗教心といえるかどうか。実は、古代から近世までの人間が、未知のものに出会った時の恐怖感情にすぎないのではないか。
本当の宗教心とは、超越的で威圧的な対象を信じ込んだり、恐れおののいたりすることではない。そうした呪術世界への逆行ではなく、虚空の中に浮いている人間存在に気づいて、わが限界性を「よし」と認めることだ。孤独や不安や虚無を受け入れて、そこから一切を肯定する道でなければならない。たとえば、冷たさと温かさが同居する、三好達治のたった2行の詩「雪」を味わってはしい。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
これは宗教を持つ人だけでなく、唯物論や無宗教の人にも理解できる感情ではないか。だから「宗教的情操」という言葉はもうやめて、仮に「根源的情操」と呼んでみてはどうか。公立学校でも指導していくには、その方が受け入れられるはずだ。しかし、その根源的情操はどうやって子どもたちに教えられるのか。「不立文字、教外別伝」としか言いようがないのだが、たとえばアルフォンス・デーケン神父の提唱する「死への準備教育」とか、授業の前後に黙想をするとか、方法がまったくないわけではない。まずは教師たちが孤独や絶望を怖がらないこと、教室で人生を語りかけていくことだろう。