2005年度 公開講演会 発表報告
開催日:2005年11月30日 場所:東洋大学白山キャンパス1402教室
2005年度 公開講演会 発表報告
開催日:2005年11月30日 場所:東洋大学白山キャンパス1402教室
樋口一葉の表現技術
―「たけくらべ」をめぐって―
講演者:山田 有策・東京学芸大学教授
(197頁〜226頁参照。)
樋口一葉が日本近代の女性作家の代表的存在でありうるのは何よりも「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」の3作品の文学的成熟度に負っていると言って過言ではない。それほど、この3作品はさまざまな場における人間(とくに女性)の生の深淵をきわやかに読者にのぞかせてくれているのである。ただ、ここではそうしたテーマ性よりもそれを読者に伝えじめる一葉の表現の技術を焦点化し、その技術の高度さを明らかにしていきたい。とくに「たけくらべ」と「にごりえ」を対象として語り手の語り口をはじめとして人間の身体活動や音声表現と内なる声との差異などをめぐる問題について解明してみたい。
まず「たけくらべ」では語り手が現場に立ち、動き、そして周辺のさまざまな人の声をキャッチしながら語っていくという、言わばテレビ・リポーター的な役割を果たすことで吉原遊郭周辺の街の雰囲気をみごとに読者に伝えていることを証明していく。こうした語り手の存在は近代日本の文学において最初と言ってよく、これによって「たけくらべ」は当時の文学情況から突出した新しさを獲得し得たと言えるのである。のみならず「たけくらべ」の語り手は13歳から16歳の〈子供〉たちの生態を生きくと伝えてやまないが、とくに美登利の身振り、運動、音声などと内なる秘めた想いとの落差などを驚嘆すべき技術で読者に伝えしめてやまない。舞台においても映像においても絶対に表現し得ないような表現がこの「たけくらべ」にはなされているわけで、こうした舞台化や映像化を不可能とするような表現技術がいかにして獲得されたかを解明しなければならないがそれについては今後の課題としておきたい。
この舞台化や映像化を不可能としているのは「にごりえ」のラスト・シーンも同じである。お力と源七との間で起こったであろう修羅場はいっさい省略され、2人の死についての無責任な噂話だけが語り手によって紹介されていくわけで、こうした省略化されたラスト・シ―ンは演出家泣かせの場面と言ってよく、文学でしかあり得ない表現ではないか。恐らく一葉は「たけくらべ」執筆中にこうした表現技術を体感し、そして獲得していったに相違ないが、その心的メニズムを明らかにする方法は今もって不可視でしかない。今後の目標としてここにかかげるだけにとどめておきたい。