平成11年5月15日
平成11年5月15日
高見順の死生観
―「死の淵より」以後 昭和39年―
百瀬 久 研究員
昭和38年夏ごろより咽頭のつかえを訴えていた高見順は、同年10月三¥3日診断を受けがんを宣告される。同月9日手術を受けた。術後来の半年の闘病生活中にまとめられたものが最後作品となる詩集「死の淵より」であった。この最後の仕事において詩人の魂は〈涅槃〉へ導かれはするものの、現実の闘病生活における肉体上の苦痛からは逃れようもなく自らの死が確実であることをいやがうえにも受容せざるを得なくなる。
研究発表は書き残された、死の前年に当たる昭和39年の日記から文学者高見順の死生観を考えるものであった。
高見の死生観を構成する要素には私生児としての出生の問題、自身が私生児の父になってしまったという問題、当時抱えていた文学的課題としてのいわゆる「昭和三部作」が未完に終わるという問題、そして、転向者であるという問題の4点を主に日記の中から摘出し分析した。いうまでもなく、これらはそれぞれが単独であっても高見を論じる場合には大きな事柄であり、同時にこれらの要素は互いに強く影響し合っていることを前提とした。
マルクス主義ゆえの転向であってみれば、もとより宗教は信仰の対象にはなりえないが、それでも高見は仏教に、キリスト教に接近してゆく。道元・親鸞・倉田百三・内村鑑三・正宗白鳥などを読み、日記に書きつける。回復への願いと懐疑の中にあって、高見が文学者として選んだのは、読書と日記であった。それは、読むこと、読んで死を学ぶこと、書くこと、書いて生を考えることであった。高見にとってそれは信仰ではなく文学的営為であった。つまり、高見は文学者として死を従容しようとしたのであった。生の充足が死の従容であり、文学者高見順にとっての生の充足とは文学的営為に自らをおくことであったことを結論として導いた研究発表となった。
芥川龍之介の死生観
―芸術至上主義者像を通して ―
山崎 甲一 研究所員
芥川という作家、或は作品から受ける印象として、所謂芸術至上主義者像は根強く流通している。それは例えば彼の残した言葉、「人生は1行のボードレールにも若かない。」(或阿呆の一生)とか、「芸術家は非凡な作品を作る為に、魂を悪魔へ売渡す事も、時と場合ではやり兼ねない。」(芸術その他)というような1節を特に注視する所からイメジされている。
だが、注目されるその1節が、必ずしも全体の像に結ばれる訳ではなく、全体像の半面、或は一側面の意味にすぎぬ場合も多い。右の或阿呆の一生の言葉は、本屋で「新らしい本を探」すため書棚にかけた「西洋風の梯子の上から」眼下に蠢めいている人々を「見下し」ての感想で、一方「西方の人」では、クリストの一生が「天上から地上へ登る為に無残にも折れた梯子」に集約されている。同様に、ファウスト紛いの1節も「時と場合」という条件付きのもので、その上「これは勿論僕もやり兼ねないと云ふ意味だ。僕より造作なくやりさうな人もゐるが。」という諷意も籠められた1文中の1節にすぎない。従って、彼の種々のエッセイの片言を捉えて、それをこの作家の、或は作品の中核に据えるには、それ相当の慎重さを期さねばならなくなる。輪郭の明瞭なイメジというものを、その根抵から不安定にしてくるこの作家独特の、複雑に屈折した相対的な視点が常に控えているからである。作家としての始発当初から与えられつづけた、所謂新理智派や新技巧派の名称を、「何れも自分にとつては寧迷惑な貼札たるにすぎない。」と嫌い、「それらの名称によつて概括される程、自分の作品の特色が鮮明で単純だとは、到底自信する勇気がないからである。」(羅生門の後に)と皮肉に一蹴するこの作家の自負は、第1短篇集から晩年に至る迄密かに大切にされた彼の作品思想(人生観)、―「君看双眼色 不語似無愁」(3つの窓)の禅林句集に端的に示されている。その双眼色や不語の表情を作品のどの辺りに見届けることが可能か。「隠約の間に彼自身を語」る(侏儒の言葉)ことの巧みなこの作家のそれらしい表情に注意しながら、芸術至上主義者・芥川像の原画ともいうべき「地獄変」(大・7・5)の描かれ方を中心に具体的に点検した。結論として、画師良秀の造形に、芸術家としての自己貫徹と人間性の破滅というような、通説の二項対立的な分裂は認められない事。「横紙破りな男」の描いた「醜いもの、美しさ」の画法にこそ、良秀父娘の「親子の情愛」を基軸にした死生観が認められる事、などを指摘した。正にそれは、微妙な表現とともに生き、そしてその表現とともに死を覚悟して生きたこの作家の生き方と重なっている。
芥川晩年の表現と死生観との微妙な関係については新たに稿を起こし、「夢の底」と題して「文学論藻」第74号(東洋大学文学部紀要第53集 国文学篇、平12・3)に発表した。