平成17年5月21日 東洋大学白山校舎5201教室
平成17年5月21日 東洋大学白山校舎5201教室
釈尊教団はどのように運営されていたか
森 章司 研究所長
〔発表要旨〕ここにいう「釈尊教団」とは釈尊在世時代の釈尊と弟子たちからなる組織をイメージしたものである。またサンガは一般的には現前サンガと四方サンガに分かれるとされるが、ここにはこの両者を含むものとしてとらえる。
「現前サンガ」は各地に点在するそれぞれの寺院に共同生活する修行者たちによって構成される組織であり、「四方サンガ」はその集合体であると定義しておくが、実はこれ自体もさらに検討されなければならない。しかし今回の発表では、このようなものとしてとらえたうえで、これらがどのように運営されていたかを検討する。
現前サンガは1つの界の中に住する4人以上の出家修行者からなる和合した集団をさすが、平均的には1人の大和尚(*森の用語)とその3人の弟子、さらにこれらのそれぞれ3人の弟子の、合計12人くらいで成り立っていたのではないかと推測される。この中に旅の途中の修行者や留学生的な修行者も含まれる場合もあったが、大枠は固定していた。新入弟子は共住弟子として10年間は和尚に依止しなければならなかったし、どちらかが病気になった場合などは、他の一方が終生面倒を見なければならない関係にあったからである。
このサンガにおいては、その行為(羯磨)はすべて会議で決定され、その議決方法はすべての修行者が平等な立場で出席したうえでの全員一致が原則であり、したがって一般的には極めて民主的で平等な組織であったと考えられている。
しかし実際にはその会議は大和尚が執行し、この大和尚の意志がサンガの意志になるような運営がなされていたのではないかと考えられる。そもそも全員一致の議決方法は現実的な組織ではありえないことであり、ダルマ(法)とはサンガ運営に携わる者の意志であったと考えられるからである。また非常手段として多数決がなされてよいことになっているが、その場合も司会進行役の意志に反する結果となった場合は、この決議を無効にすべきことが定められている。そもそもこのような運営規則は釈尊が専制的に定められたのであって、釈尊教団はこのような基本的姿勢で形成されていたのではないかと想像される。
四方サンガは釈尊が総和尚(*森の用語)であって、この下にそれぞれの現前サンガの大和尚があり、さらにその下にそれぞれの現前サンガの構成員があったのではないかと考えられる。釈尊の在世中は現前サンガの大和尚たちが集まって、羯磨を行うということはなく、総和尚たる釈尊の意思が四方サンガの意思になった。
一般的に四方サンガは理念的なものであったと考えられているが、釈尊が老年になったとき、提婆達多が釈尊に「比丘サンガを捨てて私に与えよ、私が比丘サンガを運営しよう」と要求したとされるし、釈尊が大病を患われたとき侍者の阿難が「世尊は比丘サンガに関して何かを語りたまわない間は入滅したまわないであろう」と考えて、心安らかになったとされている。これは実体的な釈尊教団があつたことを想像せしめる。
釈尊はさまざまな規則を随犯随制された。規則を破っても「知らない場合は不犯」なのであるから、規則はインド全土に散らばる弟子たちに公示されていなければ意味をなさない。そのために弟子たちは雨安居前と雨安居後に(特に雨安居後)釈尊を訪ね、新しく制定された規則やさまざまな指令を受けて、遊行しながらこれを各地の現前サンガに伝えた。各現前サンガは月2回行われる布薩にすべての比丘を招集してこれを知らせ、雨安居中にこれを徹底させた。これらが全国に散らばる現前サンガを結びつける役割をしていたのである。
釈尊が入滅されたときには、釈尊から半座を分けられたとされる摩訂迦葉が総和尚となって、500人の大和尚(阿羅漢)たちを集めて第1結集を開き、釈尊の教えを確認しあった。これも四方サンガという組織があったからこそ、スムースに行うことができたのではないかと考えられる。第2結集も同じである。
しかし第1結集においてはpurāṇa は自分の理解した道を行くと宣言した。すべての修行者を強制するだけの組織ではなかったということであるが、情報伝達方法や交通機関が原始的であった社会にあってはいかんともしがたいものがあったのであろう。
釈尊雨安居地伝承の検証
岩井 昌悟 客員研究員
〔発表要旨〕パーリのアッタカターや『僧伽羅刹所集経』などに記述される、釈尊の45期回の雨安居の地点とその年次を客伝える「雨安居地伝承」に対する、これまでの研究者の態度は、南伝と北伝の一致(パーリのアッタカターと『僧伽羅刹所集経』の伝承が近似しており、無関係に成立したとは考えられない)を理由に、この伝承を古いと見なす立場と、原始仏教聖典中に記述がないことを理由に、これを取るに足らないとする立場の、相反する2つの立場があるのみで、今までこの伝承の資料的価値を確定するための試みはなされてこなかった。
雨安居地伝承の資料的価値を確定する試みとして、原始仏教聖典中に散在する「釈尊がどこそこで雨安居された」という記述や、文脈上釈尊がある地で雨安居を過ごされたことを推測させる記事などを収集し、それとこの伝承を比較することを行い、以下のような雨安居地伝承と原始聖典中の釈尊の雨安居記事との関係が明らかになった。
まず、聖典において釈尊が雨安居したとされる地のいくつかが、雨安居地伝承中のリストに挙げられていない。パーリ聖典とその漢訳が等しく、釈尊がそこで雨安居を過ごされたとするヴィデーハをはじめとして、以下、パーリと漢訳で不一致はあるもののイッチャーナンガラ、アヌピヤー、パーヴァー、アンダカヴィンダなどの地が、釈尊が雨安居を過ごされた地として認められるが、これらの地は雨安居地伝承に言及されない。
次に、雨安居地伝承に挙げられるいくつかの地に関して、原始聖典中に釈尊がそこで雨安居を過ごされたとする記事が存在しない。雨安居地伝承はマンクラ山、ナーラー・バラモン村、チャーリヤ山、アーラヴィーといった地においても釈尊が雨安居を過ごされたとするが、これらの地で釈尊が雨安居を過ごされたとする記事は聖典中に皆無であり、特にマンクラ山はパーリ聖典においては1度も言及されない地である。
挙げられる地の齟齬の他に、原始聖典中の雨安居記事に説かれる釈尊の事績を、雨安居地伝承が示す年次にあてはめると矛盾が生じるケースがある。例えば、釈尊が阿闍世王に説く「沙門果経」は、釈尊が王舎城で雨安居された時に説かれたと見なし得るが、阿闍世の即位は釈尊成道後第37年という伝承があり(ただしこれは聖典レベルの伝承ではない)、雨安居地伝承が成道後21年以降の雨安居を全て祇園精舎とすることは、これと矛盾する。
雨安居地伝承は原始聖典と齟齬する要素を有しており、原始聖典に第1級の資料的価値を認める場合、この伝承の資料的価値は否定されるというのが現時点での結論である。