平成17年6月18日 東洋大学白山校舎5201教室
平成17年6月18日 東洋大学白山校舎5201教室
『修験道修要秘決集』に収められている
「依経用否之事」「修験宗旨之事」「三種即身之事」
「三種問答之事」「修験用心之事」 について
中山 清田 客員研究員
〔発表要旨〕「依経用否之事」に「修験の道はもとより降来無作本覚体性大法心の極意」としている。修験道でも天台の無作三身論を踏襲され四諦は事相の当体が中道実相である無作の四諦であり、三身は修因感果によらない無作の三身であるとしている。「およそ経は仏語なり、みな仏心より出て、修験者の自性は両部不二の仏心なり」とある。修験道は自然のあり方そのものを依経としている。それを「法爾常恒の経」として依経している。「法爾常恒の経」は人間の音声はもちろんのこと、動物の声、自然の風や波の音などすべてを法界の声とし経として崇めるとしている。文中に「実相の内さらに文字なし」としている。
「修験宗旨之事」に「修験の宗旨とは無相三密の法義、十界一如の妙理なり」としている。「十界一如」とは天台の十界互具の思想と同じで、それぞれの一界に十界を互具している真如観でありこれを悟ることが成仏であるとされる。「修験の立義は仏教を仮りで無く文字を立てず。ただ以心伝心にして、たとい師説教文によるとも文句をもって道の為なし。しかりとも雖も至道は無言にして言は無し、般若は無智にして知は無し」とある。
「三種即身之事」で「三種即身の義を談ず所謂る一には即身成仏(始覚)二には即身即仏(本覚)三には即身即身(始本不二)」とある。第一の即身成仏は密教でいう理具の成仏に当る。第二の即身即仏は密教でいう加持成仏に第三の即身即身は、即身成仏、即身即仏が衆生を仏とを区別する立場をとるのと異なり、凡聖不二で衆生が仏と一つであるという顕得成仏に当るとしている。
「三種問答之事」では「問曰、修験道と言うは顕宗に同か、はた密宗に同か、答て言わく、顕宗に非ず、密宗に非ず顕密不二難思きせつの立行なり」「ただ離教離機の内証、法界曼茶の宗旨なり」「修験の内証は婬欲酒肉等をもって、さらに不浄となさず」「当道一家の大意無作三覚の実談最もこれに在る者のをや」とあり修験道では無作三身を重視している。修験道の姿に三身の差別をたてている。法身形は優婆塞の形で俗形を改めず鬚髪を剃ないもの、報身形は一寸人分に髪を切り、応身形は剃髪染衣の声聞形をとるが、三身は各別のものではなく、一体なるものすなわち「三身即一」とされる。
「修験用心之事」では「修験行者自身即無作三身覚体。自心即一念法界の内証なり、故に我色心もとより仏体なり。この如く即身自仏の心地安住する時、自然に悪心を止す。善心を生ずして、自他平等にして差別心無し」とある。「凡そ修験の体性能詮に約すれは諸仏無漏念慧なり所詮約すれば一切諸法実相なり」として諸法が三諦円融して即空化即中であるともしている。
山神考
―謡曲『山姥』の妄執輪廻―
原田 香織 研究員
〔発表要旨〕中世文学の中には時代を覆った仏教思想の影響から無常観を説く作品が多い。謡曲『山姥』は、その後山姥ものと呼ばれる舞台作品群を生むに到る。「山」は一方では神が支配する聖域であり、豊饒な場であるが、人の命をも奪う「魔」の要素をもつ両義的な場である。山姥ものは、謡曲『山姥』以後、その鬼女的性質に焦点が絞られ、ある種の怪異性として強調されるに到る。老齢になると共に「変化」と見られるのは、単に外見的な老醜の問題ではなく、人間の業の部分が内面的に増大した結果の「生」への歪んだ執着の在り方にある。執着心は持てるものの業であり、これは年齢とともに成長する。
山姥ものは、どのように形成されるか、それは複合的な要因があろうが、1つには日本の山間部の民俗、風習や伝承に見られる「棄老説話」と、その裏返しにある「養老説話」があろう。貧困故に人を山ヘと捨てざるを得なかった姥捨て伝承は、日本人の心に負の刻印を押した。捨てられた姥は死にゆくだけなのか。或いは山姥となって異なる生を生きる可能性もあり、それが人々の心に幻想として醸成された。この系譜上に世阿弥は謡曲『山姥』を形成するのである。
無常の認識から悟りへという展開の中で謡曲『山姥』は、当時の「禅」の世界を表象する。内容的には、山姥の山巡りの様子を表芸にしていた遊女は「百ま山姥」という名で呼ばれ、善光寺へ参る途中に怪異現象に見舞われる。遊女の名が、その音の響きにより「山姥」の霊鬼を誘い出すのである。音は未知なるものを召喚する。遊女の山姥の曲舞自体は、世上に認められた作品であり、善処へ導くきっかけとなる。山姥にとって輪廻を逃れることは山神の威力の時には可能であった。山姥は六道を自在に行き来し、さらに天界ヘも赴き得る能力をかつては持っていたはずだった。しかしながら、作品内の山姥は山神としての力が堕ち、霊鬼としての存在性しかない。
謡曲ではここで山姥の怪異性を示すと同時に、山姥を単なる興味本位の低俗な恐怖の存在に貶めず、山神や修行者という精神性を持つイメージと重ね合わせる。この両義性こそが謡曲『山姥』の1つの達成点といえる。なぜ山姥は悟らないのか、その理由は山姥の存在にある。輪廻転生の枠組みに山姥が留まる意義は、「生」への執着へ留まる衆生の救済にある。一念化生の姿となって妄執輪廻の山廻りをすることにより「善悪不二邪正一如」の境地を示し、「煩悩即菩提」、「讃仏乗」の世界へと衆生を導くのである。人はなぜ山姥(鬼)となり、迷妄の苦界を彷徨い、そしてその妄執を浄化するのか。輪廻転生の世界観と山の神域としての磁場、そして狂言綺語説をもとに成立する謡曲『山姥』の思想は、山姥が人間の化しうる1つの生の様式の在り方を「禅」的表象として示しているのである。