死の物語研究
―文学、哲学、ライフヒストリー、ナラティヴ・アプローチ―
死の物語研究
―文学、哲学、ライフヒストリー、ナラティヴ・アプローチ―
本研究は、戦争経験等において直面せられた死について、語られたことをどのように記していくか、記されたことを何も知らない方々にどのように照射していくか、という問題に取り組むために、記されたことの読み手に対する迫真性、語り手の語りとその内実に照らして、文学・哲学・社会学(ライフヒストリー研究、ナラティヴ・アプローチ)の側面から「死の物語」の諸相を総合的に捉える事を目的とする。研究スタッフ・役割分担は次のとおりである。
研究代表者 役割分担
竹内 清己 研究員 研究総括・戦旅の文学の研究
研究分担者 役割分担
朝比奈 美知子 研究員 フランス19世紀文学における死の言説
原田 香織 研究員 能楽における死の語り
野呂 芳信 研究員 詩に語られる死
中里 巧 研究員 フィールドワークにおける死の物語
大谷 栄一 客員研究員 死についてのナラティヴ・アプローチの可能性
川又 俊則 客員研究員 老年期における死の語り
本年度の研究調査活動は、以下の研究計画に従って行われた。研究に先立ち、研究メンバー相互の役割の確認と研究の進行について調整をするため、打合会を開催。
竹内清己:戦旅の文学の実地調査として特攻基地の鹿児島の知覧を調査する。また、堀辰雄のリルケ受容、横光利一の生命表現などを考察し、戦旅の文学と死の物語の接点を探求する。
朝比奈美知子:ボエーム、ネルヴァル、ボードレールの作品の、とくに近代都市をテーマにした作品を検討し、近代の疎外(=精神性の死)について検討する。継続申請時の研究計画調書に示された海外研究を取りやめ、文献研究を行う。
原田香織:能楽の中の狂言に見られる、死に直面しての執念、悔恨の情、諦念の眼差しから翻った「生」のあり方を文献研究および狂言『通円』『楽阿弥』の舞台の実地調査(宇治・伊勢)を通じて捉える。野呂芳信¨萩原朔太郎の死に関する言及の分析を継続するとともに、新たに詩作品に表現された死のイメージおよび生のイメージについて注目し、詩人の死生観を明らかにする。
中里巧:オホーツク海沿岸オホーツク文化遺構遺跡地域もしくは函館において、オホーツク文化とアイヌ文化の関連について調査し、アニミズム的・天地無窮な死の物語の世界観がどのように儀礼や伝承、音楽や紋様に表れているかを調べる。
大谷栄一:山梨県南巨摩郡増穂町の日蓮宗寺院における死に関する儀礼の参与観察、寺院住職への儀礼・葬儀の時代的変化や檀信徒の意識の変化についてのインタビュー、檀信徒への、寺院との関わりや近親者の死などについての聞き取りを行う。
川又俊則:日本における「自分史ブーム」の牽引車の1人である福山琢磨の活動とその影響を受けた人々による「老年期の語り」の実践について、神戸、大阪、北九州における調査(参与観察・インタビューなど)によって探り、「自分史」における「老後」「死」についての「語り」考察していく。
以上の研究について、研究会を開催。公開とし、参会者のレビューを受けると同時に研究者間の討議を行う。学外の研究者を招いての公開講演会の開催。年度末に研究報告会を開催し、課題の提示と来年度への計画の調整を図る。
次に、今年度の研究経過を報告する。
本研究所プロジェクトが採択されたことを受け、平成20年5月21日、打合会を白山校舎文学部会議室にて開催。研究代表者竹内が死生の物語としての戦争。戦争文学について、太平洋戦争以前以後の死生をめぐる物語を論じた後、研究分担者から研究の進捗状況について報告があり、今年度の研究方向、公開講演会の講演者について協議した。6月21日に研究発表例会において、原田研究員と朝比奈研究員による発表があった。原田研究員が「狂言における「死」の語り―舞狂言「蛸」の幽霊」という題目で発表を行い、能楽における「死」の語りが、非業の死の瞬間をつぶさに語り、そこに残存する思念(多くは遺恨・怨念の類)を再現することを論じた。また朝比奈研究員は、「死と再生の神話の変質―近代都市の放浪者ネルヴァル」と題する発表において、フランスの詩人ジェラール・ド・ネルヴァルに焦点を絞り、作家の死の言説から都市の病理および近代における疎外の状況を描き出した(3.1研究発表例会の項を参照)。
夏季休暇期間に入り、研究者は研究調査を行う。大谷客員研究員は8月14〜17日に昨年度に引き続き山梨県南巨摩郡増穂町の日蓮宗寺院における参与観察とインタビューを行い、施餓鬼会の法要に参列し、住職。談信徒にインタビューを行った。川又客員研究員は8月20〜31日、プロテスタント宣教が早い時期に開始された神戸に赴き、神戸市のキリスト教書店や神戸市立図書館における資料収集の他、日本イエス・キリスト教団神戸中央教会で信者、牧師にインタビューするなど、老年期における死の語りに関連した、自分史とキリスト教を結びつけた調査を行う。また川又客員研究員は、9月2〜4日には、大阪市天王寺区において、東大阪キリスト教会の牧師にライフヒストリーに関するインタビューを行うほか、自費出版社の聞き取り調査を行い、そして、自分史講座を行っている福山琢磨氏に面会し、平成19年度の発表の題材となった『孫たちへの証言』の今後の予定や、自分史に関わる現況について聞き取りをした。その調査成果の一端が『東洋学研究』第46号への投稿論文「少子高齢社会を支える宗教指導者―老年期の牧師・元牧師を中心に―」に見出される。
また2月6〜8日に北九州での調査。研究代表者竹内は9月22〜24日、鹿児島の鹿屋航空基地資料館・知覧特攻平和会館・万世特攻平和記念館に向かい、資料調査を行うとともに、日本軍の断末魔の叫喚、透徹した死生の極限といった、直哉的な調査体験をした。また、中里研究員が12月25日〜28日、市立函館博物館など函館にてオホーツク文化およびアイヌ文化における死生観の研究調査を行い、原田研究員が12月26日〜29日、京都・宇治・伊勢市にて能楽の舞台の実地調査を行う。
成果発表として公開の研究発表会を10月18日に開催。中里研究員が、「感謝の想念―教派神道に見る死と再生の物語や先祖供養―」と題する発表で、北海道オホーツク沿岸域に遺構や遺跡として残るオホーツク文化人やアイヌの宗教習俗や葬制儀礼の調査報告として、平成19年度の研究調査結果を報告するとともに、伊勢神道や、金光教を中心とする教派神道における死生観や先祖供養の在り方とオホーツク文化の類縁性について論じた。研究代表者竹内は、「軍港・特攻基地にみる″死生”の賦―宇品・呉・江田島/鹿屋・知覧・万世―」と題する発表で、平成19年度の広島の調査および平成20年度の鹿児島特攻基地関連の調査の結果について、出征地に集約される死生の物語の賦を考察した。質疑応答の時間において戦争体験者の方々よリコメントが述べられ、今後の研究のための大きな足がかりを得た。
また、12月6日には能楽プロデューサーの笠井賢一氏を招いて、「死と再生の物語「能」石牟礼道子と多田富雄の新作能をめぐって」と題する公開講演会を開催した。石牟礼道子の「不知火」と多田富雄の「一石仙人」「原爆忌」「長崎の聖母」を通して現代の死がいかに能において物語られているかを検討する機会を得た。以下に、研究調査活動を行った調査者のテーマ・期間・調査地および調査報告と、研究発表会、公開講演会の概要を記す。
研究調査活動分担課題
「死についてのナラティヴ・アプローチの可能性」に関する研究調査(山梨県南巨摩郡増穂町の日蓮宗寺院における参与観察と
インタビュー、甲府市内にある山梨県立図書館での文献調査)
大谷 栄一 客員研究員
期間 平成20年8月14日〜8月17日
調査地 山梨県南巨摩郡増穂町
伝統寺院(日蓮宗)における「死の物語」の供給者(僧侶)と受容者(壇信徒)の調査研究を目的として、山梨県南巨摩郡増穂町にある昌福寺を訪れた。今回の目的は、施餓鬼会の参与観察と住職、壇信徒へのインタビューである。
14日、昌福寺を訪れ、住職の岩間湛教氏に挨拶をし、ご尊祖父(岩間湛良氏)が36年間にわたって刊行した個人教誌『光明』を閲覧し、僧侶の「孟蘭盆」「施餓鬼」に関する言説を収集した(現住職と先々代住職の言説比較のため)。また、翌15日も昌福寺を訪れ、『光明』を閲覧させて頂くとともに、壇信徒の中込紀子氏を訪ね、孟蘭盆中、家に飾る聖霊棚を見学させていただいた。
翌16日、昌福寺で執行された施餓鬼会の法要に参列し、法要後、昌福寺の護持会役員の小林信彦氏、有泉貞夫氏、井上貴雄氏にインタビューを行った。また、岩間湛教住職に法「要」「葬式」の意義、「死」の位置づけについて話を伺った。17日、インタビューが実施できなかったので、山梨県立図書館を訪れ、山梨県の葬祭や民俗慣行に関する文献を閲覧した。
分担課題
「老年期における死の語り」に基づく調査キ(リスト教書店で販売されている自分史の収集、市立図書館に所蔵されている自分史の調査、自分史執筆者へのインタビュー、キリスト教会の礼拝に参加した上での牧師・牧師夫人・教会員へのインタビユー)
川又 俊則 客員研究員
期間 平成20年8月20日〜8月21日
調査地 神戸市(キリスト教書店、神戸市立図書館ほか)
神戸はプロテスタント宣教が早い時期に開始され、聖書普及では西日本の拠点ともなった地域である。また、1995年の阪神淡路大震災の復興協力などで超教派の協力が進んでいる土地でもある。10年前の自分史研究の際、この神戸在住の執筆者がいたこともあり、自分史とキリスト教を結びつけた調査を行った。
第1日目はキリスト教書店および古書店、市立図書館を巡った。神戸キリスト教書店、古書店つのぶえ等で、牧師や信者たちの自分史、キリスト教と教育等関連図書を収集した。市立図書館では、阪神淡路大震災およびその後の報告集・記録集などの収蔵量に圧倒されたが、自費出版や報告書などを閲覧して(限られた時間のなかで)、書誌データ等を収録しつつ、概要を確認した(今後の再調査により、執筆者等をたずねたい)。
第2日目は日本イエス・キリスト教団神戸中央教会の第2礼拝(10:45〜12:15)に出席した。信者、および牧師夫妻から礼拝の前後に自分史や教会に関する色々なお話をうかがった。その後、近くの市立図書館で再度、昨日に引き続き、書誌データの収録作業を行った。
三宮、神戸、新長田などを歩いて、幾つかの教会を外観から確認すると同時に震災以降の町並みを確認した。今後さらに継続するインタビューに役立てたい。
分担課題
「老年期における死の語り」に基づく研究調査(私設自分史図書館に所蔵されている自分史の調査、代表福山琢磨氏および自分史執筆者へのインタビュー)
川又 俊則 客員研究員
期間 平成20年9月3日〜9月4日
調査地 大阪市天王寺区(新風書房、ブックギャラリー上六)
第1日日はまず、『信徒の友』に自分史を発表した、東大阪キリスト教会牧師の井置利男牧師にお会いして、師のライフヒストリーをうかがった。単身赴任の苦労話など、誌上に掲載されていないことも多くうかがうことができた。続いてドニエプル出版(自費出版企画会社)・社主小野元裕氏にお会いした。そして、近年の自分史出版事情や「死の語り」に関わる自分史などの紹介をしていただいた。小野氏は十数年間、福山琢磨氏のもとで編集者としての修行を積んでおり、現在は独立して編集者としてだけではなく、日本とウクライナの文化交流会会長を務めるなど独自の活動をされている方である。福山氏とは異なるネットワークも持ち、今後の情報提供などもお願いした。続いて、福山氏と面会し、『孫たちへの証言』第21集の製作にまつわるエピソードをうかがう他、氏の今後の計画や、私が知っている自分史執筆者たちの現況などを教えて頂いた。
第2日目は、大阪市立図書館に収蔵されている、報告書他自分史関連文献を収集した。続いて新風書房(自分史図書館)に昨年以降収蔵された自分史を確認し、必要な書誌データ等を集めた。改めて、新風書房の自分史に関する情報量の多さを認識した。今後も死「の語り」の自分史の確認作業を継続する予定。
分担課題
「戦旅の文学の研究」に基づく調査(鹿児島における、特攻基地と死生の物語に関する研究調査)
竹内 清己 研究員
期間 平成20年9月22日〜9月24日
調査地 鹿児島(鹿屋航空基地資料館、知覧特攻平和会館、万世特攻平和記念館)
死の物語の一環として、かつて特攻隊の基地であった薩南の鹿屋、知覧、万世の地に身を浸しその記念館資料に当たったことは大変有益だった。日本軍の断末魔の叫喚というか透徹した死生の極限というか、この調査体験はあまりに直哉だった。戦局いよいよ押し迫った昭和20年、川端康成は山岡荘八らと海軍報道班員として鹿屋基地にあった。年ごとの「英霊の遺文」を書いた川端は、戦後「生命の記」に体験を反映した。その宿舎に当てられた海軍の野里国民学校跡には神雷攻撃隊員別杯之地と彫られた桜花の碑があった。
陸軍特攻のメッカ知覧は死生の物語の発祥、あえて特攻おばさん鳥浜トメの富屋に宿し、資料を見てまわった。特攻平和会館は広島の平和記念館を発髯するような台地の賑わいに悲痛な厳粛があった。これにひきかえ万世特攻平和記念館はバスの便悪く、正午タクシーで着いた私が2人目という閑寂さ、しかしここにこそ慰霊があるという思いは、特攻作戦への文献資料の細やかな据え方に客観に立つ歴史性が表われていたためだろう。
分担課題
「フィールドワークにおける死の物語」に基づく調査(オホーツク文化およびアイヌ文化における死生観の研究調査)
中里 巧 研究員
期間 平成20年12月25日〜12月28日
調査地 函館(市立函館博物館ほか)
25日は、函館市立函館博物館とりわけ函館市北方民族資料館において、アイヌ関連やオホーツク文化人関連の資料を調査した。児玉コレクション・馬場コレクションが見事であり、とりわけアイヌ祭儀関連資料は死生観の研究にきわめて勉強になるものであった。
26日は、函館市北洋資料館において先史時代からアイヌをへて昭和初頭までの漁業の変遷とアイヌと和人との関連を調べた。ここもコレクションが豊富であり貴重な調査ができた。また北海道立函館美術館において北方イメージについて調べた。
27日は、函館市北洋資料館の収蔵品について写真撮影が許可されたので、縄文初期から昭和初頭までの展示資料や日露漁業関連の展示資料を撮影した。また、函館市文学館において函館における亀井勝一郎など文学をとおしての北方イメージについて調査をおこなった。 28日は、高田屋嘉平資料館とりわけ北方歴史資料館において、高田屋嘉平七代目頭領の高田嘉七氏に直接お会いして、詳細に高田屋嘉平の業績や北方研究の仔細を聞き取り調査した。
分担課題
「能楽における死の語り」に基づく研究調査(「頼政」等、能楽の舞台の実地調査)
原田 香織 研究員
期間 平成20年12月26日〜12月29日
調査地 京都、宇治、伊勢市
26日27日は京都を中心に踏査を行い、室町将軍家とのゆかりの深い岩清水八幡宮、放生川、謡曲「女郎花」の塚等、謡曲関係の諸所を確認し、宇治の狂言『通円』の茶屋、源頼政の合戦場ともなった宇治橋、平等院の扇の柴、鳳凰堂などを踏査した。宇治一帯の信仰の対象でもある宇治上神社にも参詣した。また、謡曲や中世文学ともゆかりの深い下賀茂神社、純の森、観阿弥が勧進能で成功した醍醐寺、醍醐清瀧宮、能楽愛好者でもある秀吉ゆかりの醍醐の花見で有名な二宝院、室町時代において能楽史上著名である御香宮を踏査した。
28日29日には伊勢を中心に踏査を行った。謡曲『絵馬』の竹神社、『御裳裾川』など謡曲の題材として天照大神の信仰の中心でもある伊勢外宮、内宮を踏査した。そして、狂言『楽阿弥』と関連のある伊勢の別法の松原付近から、謡曲の題材にもある景清塚、阿漕塚を確認した。
以上の踏査において、それぞれの地域に属した伝承がどのような文学空間において展開されているのか確認できた。
分担課題
「老年期における死の語り」に基づく研究調査(宗像市立民俗資料館・自分史文学館における調査、および自分史関係者o自分史執筆者からの聞き取り調査)
川又 俊則 客員研究員
期間 平成21年2月6日〜2月8日
調査地 宗像市、北九州市(宗像市立民俗資料館、自分史文学館ほか)
北九州市は森鴎外他多数の文学者を輩出する文化的歴史的背景をもち、自分史文学賞を約20年も続けている。第19回表彰式の出席および歴代の文学賞作品、文学賞の背景などを理解すると同時に、自分史執筆者や関係者への聞き取りも行うことを目的に調査を実施した。重要な論点を幾つも得ることができた。 第1日目は、宗像市立民俗資料館を見学し、そこに収蔵されている『鐘崎の海女』を編集した鐘崎漁協の関係者への聞き取りを行った。常に「死」と隣り合わせでもある海女漁の規模はすっかり縮小し、老年期に該当するような人々のみが行っている現況、漁民の生活の記録として編纂した資料の意義などを理解した。
第2日目は、北九州市で、現役牧師を引退した後、妻・母を喪い召天記念誌を編んだ方への聞き取りを行った。生前から葬儀や記念誌などについて話し合ったものを結実させたのだが、家族や教会関係者等の協力を経て作成することが可能になったという。自らの半生を自らの執筆だけで描くのではなく、死後に関係者が追悼の思いも綴った記誌も、残った人々にとっては死をどのように思うのかが分かる貴重な資料だと納得した。
第3日目は表彰式に参加し、受賞者の感想、審査員の講評を通じて、現在の自分史執筆者のテーマが戦「後をどう生きたか」というところに移りつつあることや、男性の執筆者が圧倒的に多く、応募者も70歳代以上が過半を占める現況に、老年期への着目はさらに重要だと感じた。
研究発表会
平成20年10月18日東洋大学白山校舎6312室
感謝の想念―教派神道に見る死と再生の物語や先祖供養―
中里 巧 研究員
今回の発表では、まずオホーツク文化について紹介しながら、感謝をキーワードにして、祖先崇拝、自然崇拝について説明し、教派神道、江戸末期から明治初頭にかけて岡山を中心にして生まれてきた新興宗教群のうち、金光教を取り上げ、オホーツク文化との比較の観点から、日本における信仰形態の一貫性、精神に関する一貫性の一端を検討した。
オホーツク文化における人々の内実は、海洋狩猟民である。時期は、約1300〜1000年前から約800〜700年前である。移住経路は、樺太(サハリン)から稚内を経由して根室までのオホーツク海沿岸への南下経路である。消滅の理由は、擦文文化への身体的文化的な吸収である。土器は、初期においては短い刻みが土器の上部に施され、盛期においては細い粘土紐が幾重にも貼り付けられている。その粘土紐の形状は、波状と直線の組み合わせである。宗教習俗についてはシャーマン文化であり、動物の中ではヒグマを中心とする熊神信仰をもっていた。家に熊頭骨と熊彫像を祭った。また、他の動物頭骨も祭った。海獣の牙や骨で制作された海獣像・動物像・婦人像・装身具も宗教儀礼に用いられていた。 狩猟した獣頭骨は穴が開けられ、獲物の魂を体内から出し次回の狩猟の成功を願う宗教儀礼や世界観が存在した。猟は、漁労が主であり漁携具が最も大切にされ、海獣骨で精巧に制作された錘・釣針などある。陸における狩りはシカやクマが主に狩猟された。道具は石製であり、黒曜石(十勝石)で制作された石鏃・石槍であり、弓矢の先に使用された。葬制は、頭が北西に向かい仰向けにされた屈葬である。頭に甕がかぶさり、胸に壺がおかれることもあった。男性は石鏃・刀、女性は骨製装身具・刀子鉄(製小刀)が納められた。
金光教は1859(安政6)年、教祖金光大神が天地金乃神から頼みを受けて、人々の願いを神に祈り、神の願いを人々に伝える「取次(とりつぎ)」に専念するようになったことに始まるという。その後、天地金乃神様は教祖に「生神金光大神」という神号を与えた。
金光教の教義を『金光教教典抄』から見てみると、「伊邪那岐、伊邪那美命も人間、天照大神も人間であり、その続きの天子様も人間であろう。神とはいうけれども、みな、天地金乃神から人体を受けておられるのである。天地の調えた食物をいただかれなければ命がもつまい。そうしてみれば、やはりみな、天が父、地が母であって、天地金乃神は一段上の神、神たる中の神であろう」とある。すなわち、人が神である。また、人を祈るというところでは、「信心する人は、人に頭をたたかれても、私の頭は痛みませんが、あなたの手は痛みませんか、という心になり、また、頭から小便をかけられても、ぬくい雨が降って来たと思えばよい」ともいわれている。
金光教とオホーツク文化とは一見連関性がないように思われるが、金光教教典の文言を丹念に辿ってみると、いわば大きな波のうねりのように、波が大きく揺らぎながら、両者に同じものが今にまで及んでいるように想像できる。言い換えれば、感謝という言葉に尽くされていくのではないかというのが今のところの研究の考察の結果である。感謝というと、道徳上の観念に局限されていくようなところもあるが、もっと大きく捉えて、諸事物全般に感謝するというような心持ちという意味で捉えると、オホーツク文化あるいはそれ以前から現在に至るまで貫く、日本人が持ってきた信仰の基層、これ以上深い部分はないというものでかつ日常に浸透しているといってもいいものではないかと思っている。
研究発表会
平成20年10月18日東洋大学白山校舎6312教室
軍港・特攻基地にみる″死生″の賦―字品・呉・江田島/鹿屋・知覧・万世―
竹内 清己 研究員
森安理文『近代日本戦争文学論』「特攻・ことば・私」に次のような文章がある。
……だが、虚構の小説にしても記録文学にしても、戦争文学にあって最も肝要なことは、何よりも作品が今時の戦争を正しているかということであって、作品がすぐれているかどうかということはその後に来る問題であろう。……
このことを念頭に置きつつ、研究分担課題「戦旅の文学の研究」のために行った平成19年9月25日〜28日における広島の調査、また、右記平成20年9月22日〜25日における鹿児島の調査について考察した。
1.広島
「死の物語研究」の中で「戦旅の文学」はまさに死生極まる臨場を集約的に表現することにおいて貴重な資材と提供する。その場合、「軍港」というトポスは出征と帰還の出入り口として様々な物語を生んできた。この度、日清、日露戦争以来第二次大戦。太平洋戦争終結まで、日本軍の大本営がおかれた広島県のとくに陸軍の字品、海軍の呉、江田島を実地調査し死生の物語を採集した。
字品港の字品波上場公園には元軍用駅があり、旧陸軍の「六管桟橋」が保存されている。桟橋の埠頭の付け根に線路の端をのこす。近藤好実の短歌「陸軍桟橋と/ここを呼ばれて/還らぬ死に/兵ら発ちにき/記憶をば継げ」があり、その趣意として、突堤から沖に待つ輸送船に乗り移り、遠い大陸と島の戦場に送り出された兵らの多くが戦死したことが述べられ、平和のためにここに陸軍桟橋があったことの記憶を受け継がなければならない旨示されている。字品。日清戦争において国民新聞社の従軍記者として宇品を発った国木田独歩は「愛弟通信」を、同様に日本新聞社の正岡子規は「陣中日記」を、日露戦争では軍医森鴎外(林太郎)は「うた日記」、田山花袋は「第二軍従征日記」を残している。
江田島の「海上自衛隊」は、第一術科学校、幹部候補生学校に、海軍兵学校の校舎がそのまま使われていた。菊村到「ああ江田島」を思う。呉では、「大和ミュージアム」を視察し、吉田満「戦艦大和の最期」と照応。さらに「旧海軍基地」に詣で、丘をめぐって、「入船山記念館」を参観した。さらに歴史の見える丘へ。大和の慰霊塔。眼下に大和建造のドック。つまり呉海軍港廠。子規句碑。
大船や 波あたたかに 鴎浮く
子規の日清戦争従軍、その間にもこれほどのうららかさを呉港は保証した。
2.薩南
鹿屋航空基地資料館、知覧特攻平和会館、万世特攻平和記念館。修羅である。戦争史、特攻死をどう受けとめるか。自主であっても、共生の中での個人的選択であっても、犠牲、国家的軍事的情勢の強制という点において、森安理文がいう戦争を正すことが護符となるのではないか。
鹿屋では資料館の他、野里小学校創建之碑に並んで建てられている桜花の碑を訪ね歩いた。知覧では特攻平和会館に赴き、富屋に宿泊する。いのちを軽く扱われた特攻は生の重さを日本人に証明した。軽く扱った日本軍、ひいては日本人は糾弾されなければならない。それが戦争を正すことである。万世特攻平和記念館、2階の遺品の迫真性に打たれる。記念館建立に尽くした苗村七郎の精神が生きる。しかし苗村の「特攻隊は強制されたのではありません。自らの意思で志願をなし、若者にとって自らの国を自ら守るという、どこの国のもある極普通の考えに端を発しています」というのはどうか。これは慰霊になるかどうか。その作戦の不条理、そのための死生の惨劇をどうするか。しかし、三島由紀夫の『英霊の声』の嘆きはどう受けとめるか。
特攻の人たちの1人1人の命の尊さや輝き、差し迫った中で表したものがあるからといって、作戦や作戦に関わる者の中に、1つの軍隊として、日本軍の陥った問題、作戦としては外道だが、そのような問題は、問わないままにはできない。間うとともにそこから何が引き出されるかという立場を取らなければならない。
公開講演会
平成20年12月6日東洋大学白山校舎6311教室
死と再生の物語「能」
石牟礼道子と多田富雄の新作能をめぐって
笠井賢一氏(能楽プロデューサー、東京藝術大学非常勤講師)
能は死そのものをテーマとすると言っても言い過ぎではないくらい死というものを通して、死というフィルターを通して、生をもう1度見返す。つまり典型的に言われる、亡霊が現れてきて昔語りをする。そしてそれが供養されて去っていく。能はそのような形をとる。能は祝言と鎮魂の芸能である。この祝言と鎮魂が両方深いところで表れているのが石牟礼道子と多田富雄の作品である。しかし、こうした新作能の作品は現代の死を扱う。
石牟礼道子の『不知火』は水俣病と関わる。工場排水として流された水銀が海の中で魚によって濃縮された。それが食べた魚、そしてその魚を食べた猫、そして人間達がその猫踊り病と言われるよぅな神経をやられる狂気のような悲惨な病状を呈した。科学技術の恩恵、利便性の追求の中に水俣病があり、この水俣病によってもたらされた死とその鎮魂をどのようにすればよいのかというのが水俣文学の永遠のテーマであった。胎児性の水俣病の場合、生まれてきた子供はそのことを変えることができない。そうした子供たちに必要なのは、祈りであり歌であり、その歌が書かれなければならない、という思いがこの『不知火』をつくらせたという。『不知火』のエンディングは全員が「いざや橘香る夜なるぞ。胡蝶となつて華やかに、舞ひのばれ。舞ひのばれ。」と歌う形で終わる。これこそ音楽、或いは舞によって魂が昇華していく、再生していく祈り。水俣病によって死にもたらされた者は再生しない。しかしながら死にゆく者に大切な歌を歌うことによって魂が癒されるのではないか。石牟礼はそのような歌を書いた。その歌が水俣の海に奉納された。能という技法の持ってる鎮魂と祝言、生と死を司る芸能の中に今の現代の新しい何ものかを呼び覚ましてくれた。そういった意味で非常に、能の歴史の中にも残る作品だと思う。
多田富雄の新作能『一石仙人』の「一石」はドイツ語でein Stein アイン・シュタイン、すなわちこの能は物理学者アインシュタインをテーマとしている。物理学者の研究が原爆の製造へと結びつき、広島、長崎に投下された。その後遺症は今だなお続いている。そのことに対しアインシュタインは後悔し、数学者。哲学者であり多方面で活躍したバートランド・ラッセルとともに核廃絶の宣言を出している。文化的な発展と兵器の破壊力は平行している。しかしながら宇宙の生成においていわゆる人類の歴史はほんの一片にしか過ぎない。この宇宙の広大さと兵器の持つ愚かしさを背景として、アインシュタインの取っていった態度を表現したのが『一石仙人』である。
祝言と鎮魂という形を持っている能の形式。それに加えて現代の生と死といったものを扱ったものがこの『不知火』であったり『一石仙人』であったりするということである。また、多田富雄の作品に『無明の井』がある。これは脳死状態とされる患者からの臓器移植をテーマとする。脳死と診断された患者は、心臓が鼓動を打っている、或いは体温を持っている。その先立って動くことはありえない、ということが決定したとしてもまだ体温を持っている限りは死と認めたくないという態度は決しておかしくはない。心臓移植をテーマにしながら死が何であるかということをテーマにして能を書いたのが『無明の井』というものであった。このように新しい現代的な課題を能の中に織り込むことにより、能の持ってる技法が新しい課題を表現するような形になった。
分担課題「能楽における死の語り」に基づく研究調査 (能楽 、 とりわけ修羅ものの舞台に関する実地調査)
原田香織研究員
期間 平成19年12月22日〜12月24日
調査地 須磨(兵庫県) 、 屋島(香川県) 、 鳴門(徳島県)
「死の物語研究の課題」において分担課題である死の語りの舞台は 、 源平の古合戦場が中心となるが 、 まさに死に臨んでの悲壮感漂う情景 を確認すべく 、 調査を実施した 。
22日は雨天強風であったが 、 兵庫県須磨地区にある須磨寺・1の谷の古戦場・須磨浦・敦盛塚・須磨浦山上を踏査し 、 修羅物『敦盛』・ 『忠度』・賞物『松風』の舞台を調査した 。 雨天のため山上からの展望 は不可能であった。
23日は曇天で香川県高松市屋島において 、 安徳天皇社・屋島寺・那須与一の扇の的の伝承の場。義経弓流し。平家船隠しの場など屋島 合戦の場を踏査し 、 修羅物『八島』(屋島)の舞台を調査した 。 源平 合戦の遺品は屋島寺宝物館にあり 、 源平の古合戦場は船戦で 、 現在崖 になっているため山上からの確認となった。
24日は徳島県鳴門市の鳴門浦「土佐泊」。小宰相墓を踏査し謡 曲『通盛』の舞台を調査した 。謡曲における死の場面が確認でき有意 義な調査であった。
研究発表会
平成19年6月20日東洋大学白山校舎3203教室
死を謡う―金春禅竹における哀傷―
原田香織研究員
「哀傷」とは 、 死者を悼み悲哀の念を示すものである 。 金春禅竹 『五音三曲集』の理論の中では 、 「哀傷」は夢幻に漂う亡魂を表現する 場合(魂塊体)と無常の理を示す場合(物哀体)に分かれる。禅竹は、 五音理論において「恋慕」と「哀傷」との関係に関して 、 隣接する領 域にありながらも「諸曲を極め尽くして 、 恋慕の深さに猶染め勝らん 哀傷の色をあらはし謡はん事 、 一大事とも云つべし 。 たとへば、諸木 の冬枯になり果てたるがごとく也。」と、「恋慕」を「哀傷」に包摂し つつもその上位概念に定位する 。 これにより 、 「哀傷」の範疇がより 切実な心理状態を伴い 、 生前の両者の関係性から死後に到るまで連続す る 恩 愛 の 情 を 示 す 。 そ れ を 「冬 枯 れ の 木 」 の 比 喩 に よ り 「枯淡 」 に 示 す こ と に よ り 、 空 間 を 異 に す る 美 的 な 情 感 を 醸 成 す る 。 こ れ は 中 世 文 学 独 自 の 美 的 な 達 成 と 言 え よ う 。
具 体 的 な 作 品 と し て 、 「哀 傷 曲 舞 」 「反 魂 香 」 や 『楊 貴 妃 』 等 の 詞 章 を め ぐ り 、 死 の 世 界 に 愛 が 入 り 混 じ る 様 式 性 を 追 究 し た 金 春 禅 竹 独 自 の 「哀 傷 」 の 表 現 性 に つ い て 検 討 し た 。
特 に 『楊 貴 妃 』 の 作 品 世 界 は 、 自 楽 天 の 『長 恨 歌 』 を 典 拠 と す る が 、 死 後 の 世 界 の 存 在 、 魂 の 永 遠 性 を 伝 え る 思 想 が あ り 、 死 者 と の 交 流 を 認 め る も の で あ る 。 作 品 内 で 、 魂 塊 の あ り か を 捜 す が 、 死 後 の 世 界 は 茫 漠 と し て 「上 碧 落 下 黄 泉 」 と い く つ も の 層 に 分 か れ て い る 。 楊 貴 妃 が 死 後 存 在 し た 層 は 、 仙 界 で あ り 蓬 莱 宮 と い う 空 間 で あ り 、 審 美 的 で 幻 想 的 な 要 素 が 強 い 。 死 者 の 魂 塊 は 生 前 の 要 素 す な わ ち 容 姿 や 価 値 観 を そ の ま ま 維 持 す る と 考 え ら れ て お り 、 黄 泉 国 の 不 浄 は な く 、 天 界 に 近 く ま た 唐 の 時 代 を 模 し た 宮 殿 など 上 流 社 会 の 美 が あ る 。 こ こ で 楊 貴 妃 の 悲 哀 の 美 の 強 調 を し 、 悲 し み の 中 の 美 し い 容 姿 と 優 艶 さ を 伝 え る が 、 そ れ は 無 常 観 お よ び 死 の 思 想 に 繋 が る 。 死 を 語 り つ つ 、 諦 念 を 導 入 し よ う と す る 点 に 謡 曲 の 独 自 性 が あ る が 、 諦 念 は 謡 曲 の 中 で は シ テ の 直 接 表 現 で は な く 、 死 に よ っ て 別 離 が 齋 さ れ 、 そ の 別 離 が 恋 慕 の 情 を 掻 き 起 こ し 、 さ ら に 一層 現 世 へ の 愛 着 を 感 じ る 楊 貴 妃 が 往 年 の 舞 い を 舞 う と い う 展 開 の 背 後 に あ る 。
つ ま り 、 謡 曲 独 自 の 思 想 と し て 、 楊 貴 妃 の 悲 嘆 性 の 中 に 、 仏 教 的 な 会 者 定 離 や 輪 廻 転 生 、 未 来 永 々 の 流 転 と い う 思 想 を 入 れ る 。 楊 貴 妃 は 輪 廻 転 生 の 思 想 で の 前 世 諄 は 上 界 の 諸 仙 と い う 格 の 高 い 存 在 で あ る が 、 人 間 界 に 降 り た た め に 悲 嘆 を 得 る の で あ る 。
こ の 絶 望 感 の 強 調 。 無 常 の 理 と 感 情 的 な 絶 望 感 、 悲 嘆 性 を 交 互 に 入 れ る こ と に よ っ て 、 律 し き れ ぬ 人 間 感 情 の 深 淵 を 伝 え る 。 し か し な が ら 、 悲 嘆 が 濃 け れ ば 濃 い ほ ど 、 死 後 の 世 界 に 留 め ら れ た 魂 塊 の 非 力 性 を 伝 え る こ と に な る 。 歎 き は 何 を 生 み 出 す か 、 と い う 問 題 に も 繋 が る 。 そ れ に よ っ て 、 背 景 に あ る 仏 教 的 な 教 え が 際 立 つ の で あ る 。 最 終 的 に は 禅 竹 の 世 界 が 、 華 や か な 美 を 覆 う 無 常 の 提 示 に よ り 中 世 的 な 審 美 性 の 1種 の 様 式 で あ る こ と を 指 摘 し た 。
研 究 発 表 会
平 成19年10月20日 東 洋 大 学 甫 水 会 館201室
祖 霊 を 語 り 伝 え る2つ の 現 場 か ら ―大学教養教育と北海道オホーツクー
中里巧研究員
1.大学一般教養科目「応用倫理学」の事例
応用倫理学は 、 西欧哲学の範疇であり 、 一見しただけでは東アジア 文化特有の「祖霊信仰」とは無関係に思われるであろう 。 しかし西欧 哲学の人間理解の伝統は 、 精神・心理・身体の3区分法であり 、 とり わけ精神は神の似像・神の分有として捉えられ 、 永遠・理性・不滅の 依拠する場所であり人間存在の尊厳の在処であった。この精神は、霊 魂不滅という仕方で捉えられもしてきた。現今の学生は、こうした精 神に対する理解が不得手であり 、 学生たちに精神というものをリアル に伝えるのは 、 容易なことではない 。 ここではひとつの試みとしてお こなっている映画「ビルマの竪琴」「ガンジー」「奇跡の人」による視 聴覚教育や死生学レポートの事例について 、 報告する 。
映画『ビルマの竪琴』のなかで私が学生たちに見せるのは 、 「屍の 山」というシーンである 。 私は学生たちに質問して 、 君たちは死後自 分自身の墓を必要とするかどうかと尋ねると 、 彼らの大半は 、 墓を必 要としないと答える 。 私は今1度質問して 、 では君たちのご両親が不 幸にも亡くなられたとき 、 君たちは墓に埋葬することはしないのか 、 と尋ねると 、 両親のばあいは墓に埋葬したいというのが 、 大半の学生 の答えなのである 。 これは興味深いことである。なぜなら、死という 出来事は形而上学的な事象ではなくて 、 社会的―対他的な事象だから である 。
私は 、 かつて『残された人々への手紙』と題する遺書をレポートと して学生たちに書いてもらったことがある。これは授業のひとつの課 題であり 、 ターミナルケア教育の一環としておこなったのであった。 学生たちに対して 、 彼らが終末期癌患者であり余命2ヶ月であるとい う条件を与えて 、 終末期患者の気持ちを追体験する目的で『残された 人々への手紙』と題する遺書をレポートとして書いてもらつたのであっ た 。 1000通近い遺書レポートが私の手元に集まった。それらすべてを 読んでみて 、 学生の年齢・家族構成・経済状態などによって、『残さ れた人々への手紙』が帯びている死のリアリティの深さに違いが生じ ていることに気づいたのであった。1部(昼間部)の学生たちのうち 18歳〜20歳の者たちのレポートは 、 死の理解がステレオタイプで あるのに対して 、 2部(夜間部)の学生たちのうち30歳を超え所帯 を持っていたり主な家計の担い手であったりする者たちのレポートは 、 両親・兄弟姉妹・妻・子供・恋人・友人・恩師などへの配慮がきわめ て具体的かつ個別的であり 、 死の理解の内実がきわめて豊かだったの である 。 むしろ私が 、 学生たちから重大な事実を教えられたわけであ る 。 その重大な事実とは 、 死のリアリティをめぐる理解が社会のなか で人間関係を様々に育むなかで培われるということであり 、 決して形 而上学的―抽象的思索のみを以てしてえられるものではないということである 。
リチャード=アッテンブロー監督『ガンジー』を取り上げるとき、 私が学生たちに見せるシーンは 、 「製塩工場におけるサティヤーグラ ハ運動」 、 「1947年の暴動とガンジーの断食」である。
私が学生たちに質問するのは 、 たった1人の人間の断食によって一体なぜ 、 インド全体に波及した暴動が収束しうるのかということであ る 。 こうした出来事こそ奇跡と呼ぶべきではないだろうか 、 と学生た ちに問うてみるのである。
形而上学や既成宗教は 、 奇 跡の事実を前提してしまう 。 しかし前提してしまうと 、 奇 跡が有するリアリティや驚嘆 は 、 消失するのである 。 奇跡 のリアリティや驚嘆が消失す るということは 、 奇跡を体験 しないことに等しい 。 前提す るということは体験するとい うこととは異なる 。 前提する ということは 、 前提する当体 については不間に付するとい うことであり 、 前提する当体について精査しないということであり体験を必要としないということ である 。 アーサー=ペン監督『奇跡の人』のうち私が学生たちに見せるのは 、 「ウォーター」というシーンである。映画のなかのヘレンは、水を理 解して「ウォーター」と声に出して言い 、 続けて自分から地面を両手 で叩いてそれがgroundであること、井戸を叩いてそれがpumpであ ること 、 本の枝をつかんでそれがtreeであること、玄関の階段や鐘 を叩いてそれらがstepやbellであること、そして両親をつかんでmamaとpapaであること、サリバン先生をつかんで teacherであるこ とを一挙に理解するという 、 劇的展開を見せる 。
実際にこのとき 、 ヘレンはすべてを知ったのであろう。世界が一挙 に開かれたのである。その世界は、それまで指文字をとおして覚え込 まされてきたようなたんなる知識ではなくて、リアリティそのもので ある 。 リアリティとは 、 そのなかで実際に自分自身が生きているとい う実感に他ならない。
2.北海道オホーツクの樺太協会活動と古代文化
樺太協会の活動は 、 樺太(サハリン)引き揚げ者による慰霊やサハ リンとの交流が主であるが 、 その背景には望郷やアイデンテイテイの 問題がある 。 また古代オホーツク文化は 、 シャーマンの呪術用具など をとおしてその精神性がきわめて高度であったことがわかる。アイデンテイテイ問題や先史文化の質は 、 ローカルな無文字性に依拠してい る 。 古代オホーツク文化には 、 日本人の日常性を支える世界観や価値 観の深層が保存されているように思える。西ヨーロッパの世界観や価 値観とは異なって、自然との皮膚感覚に類似した接触をとおして、神 聖・崇高・生命・畏敬等の聖性を理解する神話的―古層的―アニミズ ム的能力が基層となっているように思われるのである。またそうした 能力は 、 今なお日本人のなかに何らかの仕方で継承され根強く残って いるように思われるのである。こうした能力は、西洋哲学では感性と 知性の間に埋もれてしまうか 、1種の生理的感覚に還元されてしまう か 、 単純な幻覚や知的誤謬とみなされるか 、 忌避すべき宗教性と受け とらえるか 、 いずれにしてもこうした能力は西洋哲学では隠蔽する方 向にむかう 。
研究発表会 平成十九年十月二十日東洋大学甫水会館二〇一室 孫『たちへの証言』で描かれた「死」 ―一五九九編の戦争体験記を読 川 む 又俊則客員研究員