2006年度 公開講演会 発表報告
開催日:2006年12月9日 場所:東洋大学白山キャンパス3203教室
2006年度 公開講演会 発表報告
開催日:2006年12月9日 場所:東洋大学白山キャンパス3203教室
〈はたらき〉と〈つとめ〉 の哲学――朱子学が涵養したもの
木下鉄矢・総合地球環境学研究所教授
〔講演要旨〕「人としてのつとめを果たす」、あるいは「人として当然のことをしたまでです」といった言葉がわれわれに引き起こす倫理感情は、江戸期以来本格的に学ばれた朱子学によって涵養されたのではないだろうか。たとえばここに現れる「当然」という言葉は朱子学においては「理」にかかわって頻出する語である。
朱子学の主要テーマの1つである「格物致知」の「格物」について、朱子は「格は至る也。物は猶お事のごとき也。事物の理に窮至して、其の極処、到らぎる無からんと欲する也」と注釈している(『大学章句』)。現在の日本の朱子学研究においては、この注釈に現れる「事」を「事象」と訳し、そこから、朱子の「格物」説には客観的な知識論が含まれていたと論ぜられる。しかし結論として言うなら、ここの「事」は「つとめ」ないし「しごと」と訳されるべき語であり、そうなれば単純に主観的と客観的との対比図式に載せて理解するわけには行かないこととなる。
この朱子の注釈について検証するに、まず「物は猶お事のごとき也」という訓詰は「大学」篇を含む『礼記』全篇への鄭玄注に、ここを含11箇所が見いだせ、本文や「疏」との読み合わせから、本文の「物」字を「職事」の意味で読めという注解であることが帰納される。朱子はこの鄭玄の訓詰をそのまま利用したと考えてまず間違いないだろう。次に朱子の「大学章句序」に、往昔の「大学」における「学び」とは「其の性分の固有する所」と「職分の当に為すべき所」を「知る」ことだと、「職分」という語が提示されている。また「事物之理」という語句について、従来は単純に「事物に有る理」と理解されているが、これも「飲食男女之欲」という語句との引き合わせ、『孟子』「万物皆な我に備われり臭」への朱子の注釈との読み合わせから、「つとめ(事物)の1つ1つに対応する、おのが性分の内に具わる当然の理」のことだということが理解される。
『中庸』冒頭「天命をこれ性と謂う」への注釈などとも考え合わせるに、朱子学の基本には、人は先天的に、こういう状況にはこのように行動せよと云う予設された命令、つまり「職令」を与えられてこの世に生まれ在る、そしてこの職令は実は生きとし生けるものに共通して与えられている、というヴイジョンの存在が認められる。「人としてのつとめ」という言葉に伝えられる倫理感情を涵養したのは、朱子学のこのヴィジョンであると考え得るのではないだろうか。