2008年度 公開講演会 発表報告
開催日:2008年11月22日 場所:東洋大学白山キャンパス6201教室
2008年度 公開講演会 発表報告
開催日:2008年11月22日 場所:東洋大学白山キャンパス6201教室
正岡子規と与謝野晶子
―明治文学の坂道―
講演者:山田 吉郎 氏 鶴見大学短期大学部教授
〔講演要旨〕
通常は子規と鉄幹の対比が行われているが、あえて子規と、鉄幹の妻である晶子を対比させようとしたのは、その時代に対する影響力と文学者としての幅の広さ、そして底知れぬ推進力というべきものが共通すると考えたからである。短歌・俳句の写生論を提唱し、『病床六尺』『墨汁一滴』等の随筆や社会評論に健筆をふるった子規、『みだれ髪』で啄木・牧水・夕暮をはじめ多くの後進歌人に影響を与え、さらに古典研究や社会評論等に広汎に関わった与謝野晶子。明治という時代の坂道を歩んだ2人の鮮烈な軌跡と、文学者としての生の原理を探りたいと思う。
さて、司馬遼太郎の『坂の上の雲』にも描かれているように、正岡子規は、政治家、哲学者などを志しながらも、やがて日本の短詩型文学の改革者となる。子規は、新聞「日本」の記者として文芸欄を担当し、その関心は驚くほど広汎多岐にわたる。後に近代短歌・俳句の基本的な創作理論として定着する写生論も、本来は西洋の絵画理論を取り入れたものであり、このほか日本語論や教育論、料理論、服装論、野球の紹介など、あらゆる領域の事物を自らの関心の渦の中に巻き込んでゆく感がある。「夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我いのちかも」の歌に明らかなように、子規は自らの死と対座する日々をすごしていたのだが、その極限化された内部に、明治の膨大な変革のうねりを引き入れようとしている。あたかもその外部世界の摂取が、エネルギーとして正岡子規という文学者のピストンを回転させつづけているような印象がある。
子規の晩年にあたる明治34年に『みだれ髪』を刊行して一世を風靡した与謝野晶子も、その文学者としての生の原理には子規と一脈通底するところがあるのではなかろうか。晶子は歌人として「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く者」などの衝撃性をはらんだ浪漫歌を数多く残したが、さらに『源氏物語』訳をはじめとする古典研究や社会評論、児童文学、女子教育(文化学院)等に幅広く関わった。実生活においても、五男六女をもうけ、与謝野家を切り盛りし、経済的にも維持した。膨大な内部容量を誇る与謝野晶子という文学運動体の中に、明治という時代の個人と社会のうねりが取り込まれ、それを逆教受に推進力として晶子の文学的学部業績が形成されていった感が期大ある。
明治の文学者としては夏目漱石・森鴎外という巨大な存在がいるわけだが、彼らが後半生にわたって内的モチーフをふかく探究する道をたどっていったのとは対照的に、子規と晶子の2人は、むしろ時代や社会のうねりを捕捉する外向性に特色があり、その混沌とした明治の事象を内部に取り込む運動を推進力として、自らの文学世界を構築していった存在であると考えている。