2003年度 公開講演会 発表報告
開催日:2003年11月22日
2003年度 公開講演会 発表報告
開催日:2003年11月22日
禅と念仏の非行性について
講演者:坂東 性純・元上野学園大学教授
大乗仏教の実践行の代表として、しばしば坐禅と称名念仏が挙げられる。これら両者には、他の行と区別される独自の性格と、他の行と通底する普遍的な性格が認められる。坐禅と称名念仏が人間の発意・作為で行われる側面を「行」と呼ぶならば、人間にその行を行なわしめる力(「他力」「仏のはたらきかけ」)」の側面を「非行」と呼ぶことができよう。禅と念仏を行的側面からみることの問題性と、「非行的」側面からみることの重要性を再確認した。なお、ここで用いる「非行性」という言葉には、行以前の側面、もちろん時間的な以前という意味もあるが、行が成り立つ基本、根本という意味を含ませている。
坐禅も称名念仏も他の行と並んで比較される場合、行として扱われるが、その側面は否定しない。しかしながら行の側面のみから坐禅と称名念仏を見るならば、それら両者の本質を見失ってしまうのではないか。「悟るための手段」として坐禅を見たり、「救われるための手段」として念仏を見ることには重大な欠陥があるように思われる。
道元の教えを身を以て生きられた澤木興道氏は、「道元によれば、坐禅は自己の意思によって行われているように見えるけれども、そうではなく、坐禅は仏が仏行をしている姿である」と常々述べられていたという。坐禅をしている人の姿は、仏が仏の仕事をしている姿である。親鸞が念仏について結局言いたかったことはこのようなことではないかと最近痛感している。
親鸞は29歳の時に法然の門に入るが、師の法然が唱える念仏には誰もが踊躍歓喜するのに、同じ念仏を唱えてみても味も素っ気もない。これはどういうわけかと疑間を抱いた。この親鸞の抱く疑間は相当深刻であったことがうかがわれる。その時、親鸞は称名念仏に行としての側面を見ており、行としての念仏に躓いたと言えよう。然るに、法然の念仏には、念仏を本当の念仏たらしめる、念仏を生きたものたらしめる隠れた心の側面、唱え心の中身があり、それを非行性と呼びたい。行を行たらしめる心、根本、基本である。
『歎異抄』第1条には「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこゝろのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」という有名な言葉がある。「念仏まふさんとおもひたつこヽろ」が起こった時にすでに摂取不捨、おさめ取って捨てないというつまり救済が成就している、もう済んでいる、ということが述べられている。念仏以前に事は済んでいる、人が念仏を唱える前に救われてしまっているという、驚くべきことが歎異抄の第1条の冒頭から出ている。念仏が条件で、念仏唱えれば救われるという教えではなくて、念仏以前がこの念仏の教えの本領が発揮された時である、ということがここに述べられている。「念仏まふさんとおもひたつこゝろのおこるとき」というのは信心の問題、念仏を唱える唱え心の問題、すなわち行以前の問題である。そこで非行、行に至るまでの前の段階、行以前の段階で形を行ったと、同じ効果がもうでてしまっているということになる。
上述の文章には次の1文が続く。「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、たゞ信心を要とすとしるべし」。念仏を行とするならば信心の問題は行以前である。行を成り立たせる前提条件、基本、行になる前の問題である。それが実は念仏という行を本当に念仏の行たらしめる。親鸞は、信じる基本、心によって救われることを非常に強調しているが、それは非行の側面を非常に重視したからではないかと思われる。もちろん念仏においても、行としての性格は否定されるものではない。やはり他の行と並んで念仏というものは行の1つに数えられる。これは一般の常識であるが、今回言いたかったことは、それだけで宗教的な意味が明らかになるかというとそうではなく、非行の面から見ないと行としての念仏の意義が全面的に明らかになってこないのではないか、ということである。