平成19年1月27日 東洋大学白山校舎 3203教室
平成19年1月27日 東洋大学白山校舎 3203教室
倉田百三と西田哲学
―文学と哲学の間―
山本 直人 奨励研究員
〔発表要旨〕『愛と認識との出発』は大正10年(1921)、岩波書店から出され、西田幾多郎の『善の研究』の存在を広く青年知識層に広めた書物であるが、その多くの所収論文は、倉田百三が第1高等学校時代の大正初年代に執筆されたものである。
父の勧めで文科から法科へと転科した百三は、それに満足できず厭世と不眠に悩まされ、学業を放棄し、ショウペンハウエルの哲学の影響から″独我論″に陥っていた。百三が『善の研究』を手にしたのはその時で、それを機に利己主義を克服した百三は、大正改元後、西田宛に熱烈な手紙を書き綴る。そして同年9月、文科に復学することになった百三は、上京途中、京都の西田宅を訪間、面会を実現させた。
11月には、1高『校友会雑誌』に西田幾多郎論生「命の認識的努力」を発表。『善の研究』の「純粋経験」による認識論を紹介した他、「自由」の概念については持論を展開、さらには西田の研究に「性欲」の問題が欠落してあることに不満を漏らしている。発表ではこれらの両者の認識論、快楽説の接点と相違を指摘した後、後半では昭和10年代に台頭する″日本主義″の潮流に対して2人の思想家がいかに対応したか比較した。
例えば西日は昭和12年(1937)の文部省教学局の講演「学問的方法」の中で、飽くまで理論的な立場から東西両文化の根抵からの把握を呼びかけ、″人類文化そのものの深い本質″を明らかにすることを提唱している。それに対してすでに昭和6年(1931)、参禅・水行の体験以来急激に″日本主義″へ傾斜していった百三は、『祖国への愛と認識』や『日本主義文化宣言』等の著作で戦争肯定や民族主義を強調するようになる。以降の百三の言動については戦後永らく封殺されてきた感があるが、しかし実際残された文章を辿っていくと、晩年病床の伏す中、百三が戦争肯定から否定の態度へと変化し、最終的には開かれた教養主義を提唱するまでに至った事実も判明できた。報告では、昭和動乱期に一貫して学問的な姿勢を守り抜いた西田幾多郎と、一方己の内体的な快苦に応じて率直に思想を変節させていった倉田百三とを対比し、それぞれ明治。大正を象徴する知識人のナショナリズムの諸相を分析した。
発表後、身体論や仏教学、短歌創作やマルクス主義、戦争体験、日本人の宗教観と様々な分野から鋭い質問をいただいた。
『修験道修要秘決集』に収められている
「山伏二字之事」「臥伏二字之事」「四種名義之事」について
中山 清田 客員研究員
〔発表要旨〕『修験道修要秘決集』に「秘記に曰。山は三即一、三諦一念の義」とある。山という漢字は竪の三画と横の一画で出来ている字である。
竪の三画は、法身、報身、応身の三身を表現しているが、横の一画で三身は一である。つまり、三即一である。この論法で中道、仮諦、空諦の三諦即一、仏部、蓮華部、金剛部という胎蔵界曼荼羅における三部即一を論じている。三即一、一即三の思想を「山」という文字を使用して論じている。この事は、密教での多「即こ「一即多」と思想に通じる事がある。
『修験道修要秘決集』の図説では、応身蓮華部空諦、報身金剛部仮諦としている。『修験三十三通記』では、応身―金剛部―仮諦―報身―蓮華部―空諦として異なっている。
「伏」は漢字を入と大に分けて「不二」思想を論じている。『修験道要秘決集』の図説には「犬 衆生所起の忘想、無明を大と名く、大論曰。無明癌大、人を棄てて塊を逐う衆智の獅子、理を得て名を亡す」。とあり、「人 衆生所具の本有法性を秘と名く。八陽経に曰。左のノを正と為。右の\を信と為。常行正信の故に名て人と為。」とある。
修験道では、柿の「渋」と「甘味」をたとえたり、水と氷の関係で「不二」をよく論じる。修験思想の「三即一」「不二」思想を「山伏」という二字にあてはめて論じている。
「臥伏二字之事」では「山臥」と「山伏」の違いを論じ、裏書に「山臥の二字は未修行の山臥之用。本覚無作の前には権門有相の方便を失す。何ぞ方便随機自と他の修行を経可んや」とあり、山伏について裏書に「山伏二字は始覚修行の位な客るが故に入峰已満の山伏これを用やる也。」としている。
「四種名義之事」では、最後に「口決に云、阿門 山伏は始覚 山臥は本覚 修験は始本双修 客道は始本不二 此の四種 名義分知るべき也」とあり、山伏は始覚修生、山臥は本有本覚、修験は、修は始覚の行、験は本有本覚の験徳を示すとされ、始本双修を表わしている。客僧はあらゆるものに執着しないから名づけられたと論じている。