平成12年6月17日
平成12年6月17日
江戸時代における老莊研究
―人見卜幽軒を中心に―
王 廸 研究員
江戸初期、老莊学は林羅山によって独特の境域に導かれた。当時、老荘学者の大半は儒学傾向の強い『老子膚齋口義』に重んじられていた。しかし、林羅山に師事した人見卜幽軒は特に『莊子膚齋口義』に興味を抱き、その校注書『莊子口義棧航』まで著した。人見卜幽軒は、名は壹、字は道生、号は卜幽軒・友軒・自賁園・把茅亭、又、自ら林塘菴と称した。幼い時は柏原氏の養子で撃鼓の修行をしていた。20才になって自分の学識がないのに気づき、勉強し始めた。後、水戸威光(徳川頼房)の侍講となり、水戸藩に仕えた。だが、卜幽軒は眼疾に患い、勤めて仕えることはできなかった。寛文庚戌7月(10月7日)沒し、享年72才。彼は校注書『莊子口義棧航』以外に、『五経童子間』『東見記』『土佐日記附註』『林塘集』『宋朝類苑訓点』などの著書もある。又、『漢学者伝記及著述集覧』『近世漢学者著述目録大成』及び『天和元年書籍目録』によれば、卜幽軒に数多くの著作が見られるが、それらが現存しているかは不明である。
人見卜幽軒は元来『莊子』を好み、『卜幽軒稿』に『莊子』との関わりのある七言絶句「鷦鷯」「霊鵲鳥」「鴎鳥」を残した。『林塘集』に莊子の「胡蝶の夢」と関わる漢詩「3月23日始拝文敏先生墓」と「春夢」が見られる。彼は、「莊子口義棧航序」において、莊周は畸人だという思いを示し、『卜幽軒稿』の「讀耕齋林君誅井序」及び「10月25日呈林葵軒主人書」において、『莊子』は博であるとの見解を示した。又、逍遥遊・齋物論は『莊子』33篇の顔であると思い、従来『莊子』の注釈者は、郭象を始め往々にして莊子の本意に合わずと批判し、林希逸を「竹渓有斲鼻之手、因運斤之風、而雲霧乍披、日月復明、而人皆仰之、竹渓之功亦大実(竹渓鼻を斬るの手有り斤を運ぶの風に因りて、雲霧乍かに披きて、日月復明なり、而して人皆之を仰く、竹溪の功も亦た大なり)」と評価している。故に、彼はこの従来の注釈により優れている『莊子膚齋口義』にある引用文句の出典を見い出し、「後学者に開示する」志を定めた。
このように、江戸初期、朱子学を重んじる風潮の中、人見卜幽軒が難解な『莊子膚齋口義』を解こうとしている姿が「莊子口義棧航序」や『莊子口義棧航』の行間から読み取れる。彼は菅得菴や林羅山について勉学し、儒者でありながら『莊子』を好み、その膨大さを厭わず長年口義を校していた。たびたび林羅山に口義の来歴(出典)を聞いたり、羅山の家本鼈頭本を抄写したりしていた。羅山の『莊子膚齋口義』鼈頭本は現存しているかは不明だが、『莊子口義棧航』に羅山の三男林之道の序に「我先人羅山翁講經之暇、繙南華口義粗記其出處於鼈頭百敷十件未畢而罷矣」と記している。このことから考えれば、ト幽軒は林羅山の成し遂げなかった口義鼈頭注を完成したとも言える。しかし、この研究ルートを辿って見れば、嘗て建仁寺の禅僧英甫永雄に口義を聴講した林羅山を経由して、人見卜幽軒は五山禅僧の『莊子膚齋口義』の研究を受け継いでいると認められるのである。
「もじり百人一首」の成立
―『犬百人一首』を中心として―
中山 尚夫 研究所員
江戸文芸の特徴である雅俗混交(融合)文芸の一典型としてパロディがある。その1つに「小倉百人一首」を本歌としてこれをもじった「もじり百人一首」がある。本歌の「小倉百人一首」が有名であった分、その「もじり百人一首」も多く作られ、江戸時代を通じて50種以上の「もじり百人一首」が出た。その嚆矢とされているのが、寛文9年(1669)4月に出た『犬百人一首』である。
『犬百人一首』を含む「もじり百人一首」は、世評に高い「小倉百人一首」の本歌を言語遊戯の一種である地口・語呂合わせ等で滑稽などうけ歌に換えるわけであるから、言語的興味や知識が豊富で、狂歌に対する関心の高い人々により作られることが多いと考えられる。そこで『犬百人一首』成立には、そうした条件を備えた松永貞徳をはじめとした俳諧の貞門派の影響が多いのではないかという予測が成り立つのである。その観点から『古今和歌集』のもじり狂歌集である石田未得の『吾吟我集』や有名古歌を本歌とした高瀬梅盛編の狂歌俳諧集『狂遊集』などが『犬百人一首』成立に直接的影響を与えたのではないかということを論じた。
また、『犬百人一首』の作者について、従来は跋文筆者の幽双庵という(同文内にある賀近は幽双庵と同一人であるという見方を含め)説が多く、唯一『狂歌大観』解題のみが佐心子賀近としていたが、延宝4年刊の佐心子賀近作『類字名所狂歌集』序文(賀近自序)の一部を引き、賀近が『犬百人一首』の作者であり幽双庵とは別人であること、跋文を書いたのが中野氏某であること(これが幽双庵である可能性大)を具体的に明らかにした。加えて賀近が何者かについては、『狂遊集』の編者である梅盛の別号が侘心子であること、梅盛の周辺に拙心子と名乗るものがいること等の傍証から、佐心子賀近は梅盛周辺の俳諸師ではなかろうかという仮説を述べた。尚、中野某については、当時の京都の有力出版書肆の可能性があるとの教示を受け、作者共々今後の課題とする。