平成15年12月13日
平成15年12月13日
不干斎ハビアンと儒教(朱子学)
柿市 里子 奨励研究員
イエズス会士ハビアン(1565―1621)の『妙貞問答』(1605)はキリシタン研究者から史上最高の護教論書と評されている。この書は儒教・仏教・神道を批判しキリシタンの教えの優位性を説いたものであるが、3教のなかでも実学性の高い儒教が優れているとする。18歳まで禅及び朱子学を学んだハビアンの朱子学理解を通して、生成論・存在論・人性論の観点から考察した。
『妙貞問答』儒道の事では「一陰一陽之謂道」〈易・繋辞〉と「無極而太極、太極動而生陽、動極而静、静而生陰、静極復動」〈近思録・道体〉に依拠し生成論を展開する。
ハビアンの生成論解釈を要約すると、無極=太極→陰陽二気・五行→万物
「太極」は「無」であり非存在である。従って大極とも天道ともいうが陰陽二気にすぎない。陰陽は無心無智の物であるから和合離散の用自らあるべきに非ず。陰陽を運動させる開き手つまリゼウスの存在なくしては物質生成はありえぬことと主張する。
しかし朱子は「太極」は「理」であり実在する「有」と考え、陰陽を陰陽たらしめている原因「所以然之故」と原則「所当然之則」〈大学或問一〉であり、太極=理が欠けたら事物が事物でありえなくなる本質的要件、また理想であるとする。即ち存在論である。
太極は人の感覚ではとらえられないので無極と形容し、形而上で「有」である。形而下の陰陽については「陰陽の端は動静の機のみ……陰中に陽あり、陽中に陰あり、‥…上陰一陽の道たる所以なり」〈文集・72〉とし、陰も陽も同じ一気で気の動静に由るにすぎず、太極=理=道に従って陰陽万物は変化運動するとしている。従って、太極と陰陽は同次元ではない。ハビアンはこの朱子の理気説が生成論だけではなく存在論として確立していることを解しておらず、「太極図説」の作者周濂渓の説、太極→陰陽を採ってしまっている。
また朱子は万物に理が宿るが人においては「性即理」で「性」の内容が仁・義・礼・智であるとする。「心」は「性」の郛郭(容器)〈孟子・告子注〉で気質に属し悪の要因を有する。ハビアンは程頤の「心即理」と朱子の「性即理」の異なりに気づいていない。
当時は朱子学が勃興した時代であった。だがハビアンは朱子の著作を多用しているがその理解は一貫した朱子学ではない。1606年『排耶蘇』で林羅山と太極について論争し論難された彼は翌1607年棄教し、1620年キリシタンを非難して『破提宇子』を著す。その論法は『妙貞間答』と全く同じであった。
キルケゴール思想の深層と大地母神
中里 巧 研究員
キルケゴール(1813―1855)は、通常、近代キリスト教思想の代表的存在として理解されている。しかし、現地調査をおこなうと、とりわけキルケゴール思想の深層部と連関する父ペーター=ミカエルの生家があったセディング教会一帯には、現在なお、多くのバイキング時代の塚やその遺構がみられる。キルケゴール思想の深層部とは、父ミカエルが神を呪ったがゆえに、以後キルケゴール家は神に呪われることになったとキルケゴール家の人々が信じたこと、さらに、神に対する償いとして、キルケゴールが神への生け贄として宗教教育を受けたことである。父ミカエルが少年時代神を呪ったのは、バイキング塚の頂であり、農耕石器時代にまでさかのぼれば、大地母神信仰の地であって、キルケゴール思想最深部には、大地母神信仰の存在がうかがわれるのである。
1.「罪」概念
キルケゴール家の秘密は、父ミカエルが貧困ゆえに少年時代神を呪ったことに起因する、とされる。ミカエルがコペンハーゲンで、世間的には経済的に成功したこと、父ミカエルの最初の結婚が不幸であり妻は早々に死に子供もいなかったこと、その妻の喪服中に家事手伝いをしていたマーレンとミカエルとの間に子供ができたこと、キルケゴール家の子供たちが、長男ペーターと末子セーレン以外すべて、32歳までに死亡したこと、これらすべてが、悪魔の仕業であり、神の罰であったと、ミカエルやキルケゴール家の人々は、セーレン=キルケゴールを含めて、理解していた。
2.「罪」概念の問題性
当時の神学は自由主義神学であり、宗教は道徳化されており、信仰は啓蒙理性化されていた。そうした神学教義や神学理解のなかで、ミカエルやキルケゴール家の罪理解は、きわめて特異であり、かつ逸脱している。こうした逸脱傾向は、ミカエルの背景にあるユラン半島のキリスト教敬虔主義を導入してもなお、十全には理解できない。問題性は、要するに、キリスト教的要素以外の土着宗教的古層の働きを考慮するとき、解明可能となると思われる。
3.Jelling
フィールドワーク手法や有意味性体系論的視点を用いると、Jelling における舟形遺跡・バイキング塚、キリスト教会が一体となった聖域がとりわけ有意義となる。Jelling には、土着の宗教がまさに重層的に同じ聖域に次々と建設されているからである。キリスト教受容後こうした土地に代々居住してきた人々の宗教上の内面風景も、おそらく、重層的な宗教世界を構成しているに違いなく、我々がイメージするキリスト教とは異なる、異教的色彩を多分にもったキリスト教であったに違いない。
4.セディング地域とバイキング塚と伝承
父ミカエルの生家があったセディング村地域一帯には、父ミカエルが生まれ育った18世紀後半、初期農耕石器遺跡・中期農耕石器遺跡・バイキング塚の墳墓群が、いわばキリスト教会建築を取り囲むように、多数散在していたと推定される。現在なお、ホイエストホイと呼ばれるバイキング塚がセデイング村に保存されている。父ミカエルが、少年時代神を呪ったのはまさにこの、ホイエストホイの頂上においてであったという、伝承もセディング村にある。
5.結論
父ミカエルが貧困のゆえに神を呪った背景には、たんなる生活苦による神に対する憎しみや不条理感以外に、こうした環境的位相やロケーションと一体化した意味風景を介しての、宗教意識の古層の働きがあると考えることができる。また、キルケゴール思想が父ミカエルから多大な影響を受けていたことは研究者において常識であって、この常識からさらに演繹すると、キルケゴール思想には、北欧における宗教的意識の古層が流れ込んでいることになる。それは、タキトゥスの『ゲルマニア』で報告されているような、自然豊饒神すなわち大地母神と密接な関連をもつ古層であることは間違いない。