平成14年11月9日
平成14年11月9日
華厳教学を基盤とした身体論の構築
―『健拏標訂一乗修行者秘密義記』の研究(2)
『宗鏡録』巻28所引部分を中心として―
佐藤 厚 研究員
発表者は現在、朝鮮半島の法蔵撰『健拏標訂一乗修行者秘密義記』(房山石経蔵、成立はほぼ8世紀から10世紀)を研究している。本文献は中国・新羅で発達した華厳教学を基盤として、密教や中国固有思想などを取り込みながら独特の身体論を構築している。本文献には房山石経に彫刻されるテキスト(以下、房山本)のほかに他文献所引のテキストが存し、それらを比較・検討していくことは成立の問題や思想内容を解明する上で重要である。本発表では他文献所引のテキストのうち、延寿『宗鏡録』巻28の引用部分を中心としてテキストの問題と思想内容とくに身体論に着目して考察した。
まずテキストの問題としては、第1に引用範囲の限定の問題があり、第2に文脈において内容解釈上の一貫性が問題となった。第3に房山本との比較では、両者の配列が異なり、かつ内容面で房山本よりも『宗鏡録』のほうが内容も詳細となっている。これらは他の引用部分も含め房山本の形成という面から背景を考察する必要がある。
続いて、内容面で着目されるのは身体論が様々な形で説かれることである。それは大きく2つ内容が説かれる。
第1に、華厳教学の教理で研ある縁起陀羅尼(諸法が相互厚に包摂しあう)に基づきながら、人体の各器官である頭、手足などに摩尼宝珠が存在し、それが用い方により様々なはたらきをすることを説いている。
第2に、業の発生の次第について、基本的に『大乗起信論』の教説に基づきながらそれを心臓の器官のはたらきとして具体的に描いていく。その中では人間の心臓が蓮華の形をしており、その蓮華の穴から風が出ることにより人間の業が発生する次第を説いている。
以上の2つの教説は、相互の関連については不明確であるが、共通するのは人体の具体的な器官に基づいた、機械論的ともいえる身体の説明の仕方である。
以上の『宗鏡録』所引本の思想的な背景としては、華厳教学を基盤とし、密教教説、中国固有思想、『大乗起信論』などが習合したものと考えられ、これは概ね房山本と共通するものであるが、通常の仏教ではこのようなことは説かず、ましてや本文献の思想背景となっている華厳教学でも説かない。印象では、肉体での真理の体得を志向する人物で華厳教学に習熟した者が密教や『大乗起信論』の教説を付加して作成したと考えられるが、詳細については後の検討を待ちたい。
また、本研究において注目される点としては新羅華厳学の祖とされる義湘(625―702)の『一乗法界図』にのみ見られる用語を用いるほか、『法界図』の言葉を重要な経証としている部分があることから、本文献が新羅の華厳学の影響を色濃く受けた者により製作されたことが明らかとなった。
密教観法について
眞柴 弘宗 客員研究員
密教には多種の観法があり、観法の中で阿字観は資料がもっとも多く、かつ行者が実践したものである。今回は阿字の理論的部分を除き、実践面方面について考えてみたい。
阿字観は真実の自己にめざめるための行法で、仏法の極意を阿字の1字に要約したものである。『阿字観用心口決』に「海に百川を攝するが如く、一切の善根をこの1字に収むる故に海印三味の真言というなり。これによって1度この字を観ずれば8万の仏教を同時に読誦する功徳に勝れたり。」(『弘法大師諸弟子全集』巻上472―3頁)とある。
阿字観の資料は、古来から多くの註釈書がある。中でも前述の、空海の直弟子の最長老であった実慧(東寺第2世長者)が空海から伝授されたものをまとめたと想像される『阿字観用心口決』の資料がもとになって多くの註釈書が出来たものと考えられる。それらの資料によって、いかに実修観行するかが問題となる。しかし、ここでは『阿字観用心口決』を中心に考えると、阿字観には広略二観の観じ方がある。
先ず略観は心寂念たるときに、自心の実相を内観し、真我を自覚することを目的とするものである。したがって静寂な道場を選び、息をととのえ心をしずめて行うので静中の阿字観とも呼ばれている。これを実修する場合には、阿字、蓮花、月輪の形色等を観じるので象徴的直感的体験を主とした易修易行の観法である。その作法順序は、入堂普礼着坐、護身法、発菩提心、三摩耶戒、五大願、五字明、阿字観、仏眼、普供養、三カ、祈願、護身法、普礼出堂の次第である。
次に広観について、行者は宇宙の森羅万象すべて永遠無窮の阿字の活き物と観じ、見聞覚知のあらゆる現象に対して、随時随処で行うことができるとされている。したがって、動中の阿字観とも呼ばれている。
このように阿字観には広略二観があり、『阿字観用心口決』には「真言の観門多途なりといえども、要を取るに広略二観にすぎず。」(『弘法大師諸弟子全集』巻上472頁)とあるように、この阿字観は精進修行する行者にとって、易修易行の観法であり、浮菩提心を開顕し、即身成仏をめざすための観行である。