『実利論』の植物政策
沼田 一郎 研究員
『実利論』の植物政策
沼田 一郎 研究員
ウパニシャッド、ダルマ文献、実利論を資料として古代インドの植物観を概観した。仏教以前から順次成立したウパニシャッドはバラモン教の思想史的な転換点に成立した、祭式学と哲学の両要素を兼ね備える文献群である。そこにおいて、植物は天体や自然、あるいは気象現象などと並んで「世界を構成する重要な要素」のひとつであり、輪廻転生の一局面でもある。また、人間の身体構造を理解するための比喩として、植物を構成する諸要素(葉、樹皮、樹液、木質部など)が人体各部分と対応するとされている。
これより遅れて(西暦紀元前後頃)に成立したダルマ文献を代表する『マヌ法典』は、バラモンたちの価値観を定式化したものであり、その後のインド文化全般に通底する構造を作り上げた。『マヌ法典』は、植物を村落における集会所あるいは祠堂や他村落との境界線として活用すると規定している。また植物は生命や意識を具えた生物であり、これを傷つけることによって罪や汚のような観念的なマイナスの価値が発生するとされている。
上記2種の文献群は正統的なインドの宗教思想の流れに位置づけられるが、これに対して『実利論』はそうではない。『実利論』という翻訳名が示す通りあくまでも「実利」を重んじる立場から、『マヌ法典』の言うような個人や社会が「いかにあるべきか」という倫理ではなく、冷静で現実的な視点を堅持するのである。社会のあり方を規定するという点においてダルマ文献と極めて類似した課題を扱っているが、植物を含む自然環境も『実利論』にとっては利活用の対象であって、そこに生命が宿っているかどうかには関心がないのである。
『実利論』には農産物や林産資源としての活用方法が規定されている。作者の植物に関する知識は膨大にして詳細を極めており、大量の具体的な植物種名が言及される。それらを現代の商物と同定することは難しいが、その活用方法は多岐にわたっている。植物を毀損することは「犯罪」であって刑罰の対象となるが、ここに汚れの観念や除罪儀礼を関与させる『マヌ法典』とは対照的な立場を見出すことができるであろう。
伝統中国の治水思想
小島 毅 研究分担者
(東京大学大学院人文社会系研究科教授)
中国の「くにづくり」伝説の1つに禹王治水がある。聖人禹がみずから全土の河川改修工事を指揮し人間の居住地を作ったという内容で、黄河文明の起源を象徴している。かつて日本で社会通念になっていた「大河流域の古代四代文明」という考え方は今は虚構として斥けられているが、中国の起源神話が大規模な治水工事であることはその自己表象として検討する価値がある。そもそもさんずいの「治」字が「おさめる」意味に汎用されてきたことにその重要性が示されいる。禹王治水は日本でも有名で、各地の水利工事を記念する際に禹の業績とその手法への言及がなされている。
人間社会が環境として認識する自然界は文化の所産であり、それを語る主体がどういう環境下にあるかに左右される。禹の治水は水の本性に沿うことを旨としており、技術力にモノをいわせて人間側の便益を強制することを避けた。そしてこれが東アジアの環境思想の1つの型となった。「治」という字は「台」を共通の構成要素とする他の文字から推測して「するすると伸びる」意味を表すという学説があり、水(「治」の部首さんずい)の性質にかなうことが優先され、それは転じて国家統治の要諦にもなっていた。これはさらに医学思想におけるいわゆる自然治癒の重視とも繋がる考え方である。
ただし、東アジアの中でも多様な感覚が存在することには注意が必要である。
1つには、大陸内部の黄河流域と、日本海・瀬戸内海沿岸に起源を持つ日本文化との間の「海=ウミ」についての認識である。「海」は形声文字(二次的・複合的な概念)であり、もともと河(黄河)・江(長江)などと同列の特定の場所を示す固有名詞だった。一方、大和言葉のウミは水が溜まった場所一般を意味し、塩味のあるシホウミとそれがないミヅウミに二分され、前者が単にウミと呼ばれるに至ったように淡水の湖沼よりも優越する重要概念だった。
第2には気候風土に由来する中国の植生・農作物の南北差で、黄河流域が落葉樹中心のナラ林文化圏(麦作地域)であるのに対して、長江流域以南は照葉樹林地帯(稲作地域)である。前者は韓半島から東日本に及び、後者は西日本と共通する。これが中国南部と西日本との生活文化の親縁性に繋がり、黄河流域で誕生した中国の社会構造に対して、東南アジアとも多くの共通点を持つ日本の社会構造が生まれた理由の1つである。
このように「西洋対東洋」という単純な図式は実態に反しており、学術的な研究ではこの多様性を考慮した精密な検討が必要である。
東洋の思想・宗教と環境保護
―先行研究の整理と問題の所在―
曽田 長人 研究員
環境問題は、主に1960年代から公の大きな注目を惹き始めた。1967年、アメリカの歴史家リン・ホワイト・ジュニア(Lynn White Jr.)は「我々の生態学的な危機の歴史的な根源」において、環境破壊の思想・宗教的な背景をユダヤ・キリスト教に求め、これに対して禅仏教などを評価した。この論文以来、東西の思想・宗教と環境保護の関わりについて、非常に多くの研究が著されてきた。本発表では、東洋の思想・宗教と環境保護(特に地球温暖化)との関わりを概観し、筆者が目にした限りでの(日本語、英語、ドイツ語による)先行研究を整理し、問題の所在を考察することを試みた。その際、森林保護に特別な注意を注ぎ、思想・宗教的な信条に基づく環境保護の実践も、一部検討の対象とした。
ヒンドゥー(バラモン)に関しては、「梵我一如」、「非暴力とダルマ、業(カルマ)と輪廻と解脱(生天)」、「森林愛好」、「チプコー(木を抱こう)運動」という4つの観点から、道教(老荘思想)については「天と地の根源としての道―道法自然」、「万物流転と万物斉同―気と陰陽五行論」、「無為自然の賛美、「文化文明」への批判」、「風水への近さ、山林への隠遁」という4つの観点から、儒教については「天人相関論」、「資源の適切な利用と生物の保全―天人相関論と天人分離論から」、「天地万物一体の仁」、「熊沢蕃山の森林保全・経世済民論」という4つの観点から、仏教については「人間と自然の相互依存をめぐる教理」、「仏性論―「山川国土悉皆成仏」」、「涅槃への超出の仕方の2つのタイプ」という3つの観点から、神道については「アニミズムと生成論」、「神仏習合、神仏分離、神社合祀反対運動」、「「鎮守の森」と「潜在的自然植生」」、「神道界と環境保護」という4つの観点から、環境保護との関わりを整理した。
検討の結果、上述した思想・宗教において、人間と自然はおおむね連続的に捉えられ、世界の成立を(仏教・儒教を除いて)生成論に基づいて説明し、森林を修行や生物多様性の場や資源として重んじていることが、確認できた。このような特徴は、人間と自然を峻別し、世界の成立を創造論に基づいて説明し、森林を悪魔視することの多かったキリスト教の正統主義的な理解と、大きく異なっている。ここから、自然に親和的な東洋の思想・宗教が環境保護へ貢献することに期待が寄せられてきた。しかし、東洋の思想・宗教が環境保護の実践へ働きかける弱さないしは無力が、しばしば指摘された。そこから今後の課題として、1.東洋の思想・宗教に基づく環境保護の(過去および現在における)実践のさらなる調査、2.東洋の思想・宗教が環境保護の実践へ働きかける弱さないしは無力の理由に関する多角的な検討、3.東洋の思想・宗教と科学技術の関わりの考察、という3点を挙げた。