東洋における聖地信仰の研究:ヒンドゥー教と仏教における
聖地巡礼成立の要件
東洋における聖地信仰の研究:ヒンドゥー教と仏教における
聖地巡礼成立の要件
現代社会においては、様々な局面でそれまでの価値観がゆるがせられる状況が見られるようになっている。そのような状況下、日本でもインドの宗教に影響を受けた宗教集団が出現したことは記憶に新しい。超常現象へと傾斜した彼らを、仏教やヒンドウー教を誤解した集団だとして切り捨てるのはたやすい。しかし、翻ってみると、彼らはインドの宗教のみならず、宗教の実際の有様を正しく知る手段をもたなかったとも言える。かつて本研究の代表者宮本は北インドを旅しているとき、汽車で修行者の師弟と一緒になったことがある。乗り合わせた乗客たちが彼らと話しているうちに、語気を荒げ、次の駅で師匠を駅員に引き渡してしまった。あとでわかったが、一見修行者に見える師匠は、南インドから少年を連れてきて売り飛ばす算段をしていたというのである。インドの庶民は一切の執着を離れた者とそうでない者とを峻別する力を失っていないのである。日本の若者がこのような峻別力をもつているかどうかはひとまず措くとして、我々は少なくともインドの宗教をできるだけ正しく伝える義務があると考える。
宗教の教義面の研究はこれまで継続的に行われているが、人がどのような契機で信仰意識を醸成するのかという問題は、まだ研究が立ち遅れている感がする。この問題を追求するためには、宗教教義を具現する聖地に対する信仰を、歴史的展開と現在の実態を念頭に置きつつ、文献学と現地調査および比較宗教学の方法でアプローチするのがもっとも効果的であると考えられる。ヒンドウー教の聖地として、最も重要な聖地とされる北インドのヴァーナーラスィーを中心にその他数か所の聖地を重点的な研究対象とし、インドの聖地信仰の特徴を照射するために日本における西行の聖地巡礼とヨーロッパのキリスト教聖地巡礼を研究対象に含めることにした。
このように、単なる聖地の地理学的構造の研究にとどまらず、宗教思想的環境の研究も視野に入れ、文献学とフイールドワークの方法を用いて、統一的に信仰意識形成に与える環境と空間構造の解明に取り組むことを本研究の目的とする。
この研究組織は次の通り。
研究代表者 役割分担
宮本久義研究員 総括・インド思想・宗教における聖地信仰研究
研究分担者 役割分担
橋本 泰元 研究員 インド中世民衆思想における聖地信仰研究
沼田 一郎 研究員 インド古代社会における聖地信仰の研究
高城 功夫 研究員 仏教文学における聖地信仰研究
菊地 章太 研究員 聖地信仰の比較宗教学的研究
岩井 昌悟 研究員 インド仏教の聖地信仰研究
出野 尚紀 奨励研究員 ヒンドゥー教における聖地空間研究
聖地信仰の特筆のひとつとして、様々な宗教の伝統が重層的に重なりあって聖地として信仰されるようになった場合が少なくないことが上げられる。また聖地として認知されていく要因も信仰のみに帰するのではなく、どのような地勢的・宗教的環境にあったのかというトポロジーやその他諸々の問題も関係するであろう。さらには、これらの聖地を辿る巡礼という信仰活動が生じた。それゆえ、まず基本的な問題として、「聖地」を成立させる要件とは何か、また信仰意識とどのように関係しているのかを明確にしていく必要がある。そのため参加者全員のコンセンサスをはかるため、研究開始年度初めに討議を行い、共通意識を持つことができた。
初年度は主として資料収集を含む文献学的な研究、および今までに各自が撮影したり、収集したりした写真資料のデータベース化に従事した。また実地調査を行うと共に、商業的販売網に乗らないものについても文献を現場で収集した。
4月25日に第1回運営委員会を開き、各員分担の再確認をし、第1回、第2回研究会並びにハンス・バツカー博士の講演会の実施日時を決めた。
5月23日に第1回研究会を開いた。代表者宮本が「聖地ヴァーラナスィーにおけるパンチャクローシー巡礼路の役割」、分担者沼田が「ウッタラーカンド地方にある四大聖地の構成と巡礼路」という題日で発表を行った。
6月23日にハンス・バツカー博士(オランダ・フローニングン大学、インド学/インド中世史)を招き、公開講演会を'Vārāṇasī, the Skandapurāṇa, and Tulsīdās'という題目で行った。当日は6405教室に60名近くの聴講者が集まった。英語での発表であったが、パワーポイントを用いて、地図や表などを視覚的にわかりやすく講演していただいた(代表者宮本が随時通訳を務めた。)。当日の講演内容は、原『スカンダ・プラーナ』のヴァーラーナスィー・マーハートミヤに基づいて、聖地ヴァーラーナスィーの円環構造の起源が『スカンダ・プラーナ』に見られる。なぜなら、その記述から、その起源がグプタ朝時代まで遡り、アビムクタ・クシェートラという土地を中心とし、周囲の12リンガを巡る巡礼路は付随的なものであり、むしろ、マディヤメーシュヴァラ寺院を交点とする東西。南北とも1クローシャからなる聖地を囲み区分するとともに守護する働きを呆たしていた、という趣旨であつた。講演の最後にはたくさんの質問があった。 7月に分担者高城が国内調査に赴く予定であったが、急病のため残念ながら中止せざるを得なかった。
8月12日〜25日の間、分担者出野がインド(アヨーディヤー、ヴァーラーナスィー、マトゥラー、ヴリンダーバン)を訪れ、ヒンドウー聖地の現況を調査した。
9月22日に分担者出野が8月のインド調査の報告を行った。北インド、ウツタル・プラデーシュ州のヒンドゥー聖地、すなわち、ラーマ王の生地アヨーディヤー、聖河ガンジスに面するヒンドウー最大の聖地ヴァーラーナスィー、ヤーダヴア族の英雄神クリシュナの生地マトゥラーは、いずれもイスラーム王朝時代に主要な寺院が取り壊され、その用地はモスクに転用された。また、クリシュナ成長の地ヴリンダーバンでも、寺院の破壊が行われた。その後のイギリス植民地時代のヒンドゥー・イスラーム分割統治の影響もあり、植民地インドは1947年にインド、パキスタン両国に分離独立し、以後、インド国内ではヒンドゥー教徒が多数を占めるようになった。そのため、ヒンドゥー教徒に取り囲まれて残されたそれらのモスクは、独立以後の「ヒンドゥー」としての自覚の高まりや、宗教右派の煽動によって、アヨーディヤーでモスクの無許可取り壊しが行われ、報復としてイスラームによる爆破活動が行われるなど、今回訪れたどの聖地もさらなる紛争を警戒しなければならない危険な要地となっているとのことであった。
10月24日に第2回運営委員会を開き、第3回研究会の実施日時を決定し、平成20年度の概略を決めた。12月19日に第3回研究会を行い、分担者橋本、分担者岩井が発表を行った。1月12日、東洋学研究所定例の研究発表会において岩井が研究成果を発表(研究発表例会の項221〜222頁を参照)、そして研究発表例会終了後公開講演会を開催した。分担者の菊地が講演を行い、講演会後研究交流会を開催し、聴講者の学外研究者から様々な意見を得ることが出来た。
研究調査および公開講演会の概要は以下の通りである。
研究調査活動
インド最大の聖地バナーラスとヒンドゥー教七大聖地に含まれるアヨーディヤー、ブリンダーバンにおける、ヒンドゥー教の聖地に対する現在の信仰状況の実地調査
出野 尚紀 奨励研究員
期間 平成19年8月12日〜8月25日
調査地 インドアヨーディヤー、バナーラス、ブリンダーバン
ヒンドゥー教の聖地信仰の現況を調査するため、アヨーディヤー(Ayodhya)、バナーラス(Banaras)、 ブリンダ―バン(Brindaban)、マトゥラー(Mathura)を回った。また、現在、ヒンドゥー教徒が他の宗教に対しどのような感情を持っているかを、聖地信仰の現況にたいして比較検討するために、ラクノウ(Lucknow)、ファテープル・スィークリー(Fatehpur Sikri)、アーグラー(Agra)、デリー(Delhi)に存するインド・イスラーム王朝の建造物を回った。
アヨーディヤーは、インドニ大叙事詩の1つ『ラーマーヤナ』の主人公であり、ヴィシュヌ神の7番目の化身ラーマが生まれたとされる町である。この町ではラーマが生まれた場所とされるラーム・ジャンマ・ブーミ(Rām-janma-bhūmi)が信仰の中心となっている。1992年12月6日に、その場所にあったバーブリー・マスジッド(ムガル朝初代皇帝バーブルを記念して造られたモスク)がヒンドゥー教徒達によって破壊されるという争件が起こった。現在は、幾重にもボディーチェックをくぐる金網で三方を囲まれ、警察官が銃器を構える通路の先にラーマを祀る小堂があるだけだが、祭礼が始まる前日ということもあり、多くの巡礼が列をなしていた。人口約5万人の町だが、ヒンドゥー寺院の数は多く一説には6,000寺とも言われる。その中からヒンドゥー教徒の再建委員会がラーム・ジャンマ・ブーミに新しく寺院を建てようと石材を準備し、彫刻している場所や、ラーマの父王の宮殿跡に建っている寺院などの寺院群を回った。
バナーラスは、インド最大の聖地といっても過言ではなく、連立するガート(沐浴場)で沐浴する人々が数多くあり、マニカルニカー・ガート脇の火葬場では、朝から遺体を燃やす光景を見た。ここで遺灰をガンジス川に流すと天界にいけるという信仰がある。また、バナーラス・ヒンドゥー大学のRana P.B.Singh 教授の案内によって、バナーラス近郊の巡礼路であるパンチャ・クローシー(Pañca-krōśī)巡礼路を回った。
ブリンダーバンは、もう1つのインドニ大叙事詩『マハー・バーラタ』に登場し、ヴィシュヌ神の8番目の化身クリシュナが幼児期を過ごしたとされる町である。クリシュナを称える詩篇『ギータ・ゴーヴインダ』で詠われる場所があった。
マトゥラーは、クリシュナが生まれ、後に王として治めていたとされる町である。また、ガンダーラ地方に次いで、最初期に如来像を彫り始めた町でもある。町の中心から外れた丘の上に、クリシュナが生まれた場所とされるクリシュナ・ジャンマ・ブーミ(Kṛṣṇa-janma-bhūmi)がある。ヒンドゥー教徒が礼拝するその場所は、地下であり、上部にはモスクが建っている。
いずれのヒンドゥー教の聖地も警察の厳重な厳戒下にあり、インド国内では少数派のイスラームによるテロ行為を恐れていることが窺えた。アョーディヤーでは、その後、報復と見られるテロが数度起きている。また、バナーラスでも2006年3月に同時多発テロが発生した。1990年代初頭からヒンドゥー・ナショナリスト(ヒンドゥー至上主義者)運動が盛んになり、周辺諸国を巻き込んでの国内対立が起きている。奇しくも帰国直後の25日夜からハイダラーバード(ハイデラバード)で、アルカーイダ系と見られる集団による連続爆破事件が発生している。この調査を通じて、「聖地」が平和の象徴ではなく、ヒンドウーとムスリム、そして、対立を煽った大英帝国による長い対立の歴史をはらんでいることが実感できた。
研究調査活動
日本南アジア学会第20回全国大会参加報告
出野 尚紀 奨励研究員
期間 平成19年10月5日〜10月7日
場所 大阪市立大学
次年度の日本南アジア学会第21回全国大会を東洋大学で行うための視察をかねて日本南アジア学会第20回全国大会に参加した。
研究プロジェクト「東洋における聖地信仰の研究」と関連性がみられる発表(発表題目:インドにおける『仏教の聖地』をめぐる議論とその展開:『仏教の聖地』の地域的固有性の理解に向けて)があった。その発表では、ブッダガヤーがスリランカ、タイなどの南方上座部仏教徒、チベット仏教徒、日本、台湾などの大乗仏教徒が、玄奘や法顕らの旅行記を基にして、釈迦牟尼仏陀へと成道した地を求め、イギリス統治下に確定して以後、聖地として巡礼や礼拝が行われており、2002年には世界遺産にも登録され、観光としてもインド国内外から注目を浴びているが、その土地の″住民″であるヒンドゥー教徒に対して、どのような経過で聖地化されたかというものであった。
その後2日目7日最後のシンポジウムまで参加し、帰宅した。
公開講演会
平成19年6月22日東洋大学白山校舎6405教室
ヴァーラーナスィー、スカンダプラーナ、トゥルスィーダース
ーマハーマントラの歴史的研究―
ハンス・バッカー教授(オランダ・フローニンゲン大学)
ヒンドゥー教徒のあいだでは、インド北部のヴァーラーナスィー(バナーラス、ベナレス)は何よりもまずシャイヴァ派の性格を有する聖地として一般に受け入れられている。この性格が歴史的に明らかになるのは、アヴィムクテーシュヴァラ寺院の存在が文献学的および考古学的に立証されるグプタ王朝期においてである。当初からこの寺院の聖性は、このあたりで死ねば直ちに最終的な解放(解脱)をもたらす、という信仰と結びついてきたように見える。
この信仰は我々が入手した最古の「ヴァーラーナスィー・マーハートミヤ」によって確証されるが、それは3つのネパール貝葉写本(もっとも古い写本の年代は紀元810年)を持つ原(オリジナル)『スカンダ・プラーナ』に含まれている。テキストそのものはおおよそ紀元550年から650年にかけてのものであろう。しかしながら、期待に反して、この「マーハートミヤ」はヴァーラーナスィーの有名な火葬場(シュマシャーナ)について一言も言及していない。この「マーハートミヤ」から、この聖地アビムクタ・クシェートラの元々の大きさは、今日におけるより相当小さかったことが推測されうる。火葬場、すなわち現在のマニカルニカーは、聖地の南方に位置し、元来は浄められた地の領域を超えていたと考えられる。
この宗教地理的状況は紀元8〜9世紀になると変化していき、聖なる領域は南方に拡大され、火葬場はサンスクリット文献に見られるようになる。この変化の初期の実例は原『スカンダ・プラーナ』の後代の校本や『マツヤ・プラーナ』所収の「ヴァーラーナスィー・マーハートミヤ」である。この変化はシヴァ神がヴァーラーナスィーで死ぬすべての者の耳に救いのマントラを囁くという新しい教義と結びついている。この救いのマントラ、ターラカマントラあるいはマハーマントラは、ヒンドゥー教世界においてヴァーラーナスィーが知名度を上げるにあたり重要な役割を演じてきた。
シャイヴァ派の教義は最初からそうであったが、その教義のヒンドゥー教一般への訴求力により、対立するヴァーラーナスィーのヴァイシュナヴァ派の学僧たちもまた、その教義をかれらの宗教体系に適合させつつ取り入れるようになった。
この対立は第2000年期(10〜20世紀)においてヴァイシュナヴァ派の運動がシャイヴァ派の運動を凌駕して北インドにおける地歩を獲得したとき、より激烈になったにちがいない。神の御名の崇拝と結びつけられた、この新しいタイプの献身的愛情は、こうした転換の重要な要素であっただろう。ムスリム期以前に位置づけられる『アガスティヤ・サンヒター』はヴァーラーナスィーにおけるラーマ・バクティ(神への絶対的帰依)の形態を証拠づける。その第7章に伝えられるところでは、まさにシヴァ神は死に逝く者の耳に救いのマントラを囁くが、このマントラはラーマ・マントラであり、シヴァ・マントラではない。このような仕方で「ラーマ」という御名は、ヴァーラーナスィーにおける死に逝く者に解脱を授けるマントラとなった。このヴァイシュナヴァ派のシヴア派からの流用は紀元1193年のバナーラス崩壊に続く数世紀のあいだに、広く受け入れられた。その流用はトゥルスィーダースの著作において重要な役割をなす。トゥルスイーダースはヴァーラーナスィーにおけるシヴァ神の恩寵の力を認めているものの、この力をラーマの御名に帰しているのである。それゆえ彼の著作『ラーム・チャリト・マーナス』には、シヴァ神が死に逝く者の耳に恩籠としてラーマの御名を囁くことで、シヴァ神は、ラーマ神の足許に帰依する者、ヴァーラーナスィーで死を迎えようとしてやって来る者すべてに至高の果報をもたらす道具とされていることが見出される。トゥルスイーダース自身、1623年アッスィー・ガート付近のガンガーのほとりで右耳に御名(「ラーム」)を囁かれながら没したとき、この信仰の具現者となったのである。
公開講演会
平成20年1月12日東洋大学白山校舎3203教室
四国遍路に与えた弥勒信仰の影響を論じ、聖地巡礼研究の方法に説き及ぶ
菊地 章太 研究員
四国遍路という習俗が確立され定着していくのは近世以降と考えられている。しかしそのみなもとには、四国のみならず広範な地域におよんだ弘法大師の信仰があり、さらにその遠いみなもとには、平安時代の末期にさかんであった弥勒菩薩に対する信仰があった。ここではまず、近世にはじまる四国88カ所の遍路と中世にさかのぼる弥勒信仰との結びつきについて考えてみたい。
釈尊は世を去るまえに弟子の大迦葉に、遠い未来に弥勒が現れるまで世にとどまるよう命じた。弘法大師もまた入滅することなく世にとどまって、今も諸国を行脚しているという。四国を遍路する人が大師と同行なることを信じて「同行2人」の文字をかかげるその背景には、弥勒をめぐる伝承の投影がある。
聖地巡礼の契機となった聖者が巡礼者と歩みをともにするというこのような信仰のありかたは、他の宗教文化圏にも認められるであろう。そこでは教義と現実とは必ずしも対応していない。これはまた見方を変えれば、聖なるものと俗なるものが融合しているとも言えるわけである。そしてそのことが聖地巡礼という宗教文化にとって本質的な要素のひとつになっている。
聖地へ往来する道に沿ってさまざまな伝承が生まれ、それを語り伝えていく人々の手で各地へ広まっていった。いわゆる語り物文芸と呼ばれる文学の1形態が、聖地巡礼のなかから芽生え、いくつもの聖地を結んで伝播していく。その考察範囲も宗教学から民俗学へ、さらに文学研究へと拡大することになろう。
中世ヨーロッパの武勲詩と呼ばれるジャンルは、吟遊詩人たちによって語りつがれ歌いつがれていった。しかもそれはヨーロッパ中に無数にある聖地を舞台として生まれ、そこへの巡礼の道を介して各地に伝播したものと考えられている。日本の説経語りもまた聖地を舞台としつつ、そこへの往来を契機として語り伝えられたものが少なくない。
このような場において聖俗が混沿する度合いが強くなればなるほど、個々の宗教の教義との距離が広がっていき、より根源的な宗教感情とでも言うべきものへ傾斜する度合いが増していく。そこから他の宗教との接点や共通性も浮かびあがってくるにちがいない。諸宗教の比較による考察が可能になり、また必要にもなってくるであろう。