日本の老年期における死と孤独
日本の老年期における死と孤独
本研究は、現代日本の老年期における死と孤独について、日常忌避される傾向にある老・死・孤独を捉え直すべく、文学、哲学、仏教、道教、社会学、生命倫理、ヨーガ実践の領域においてそれぞれテーマを掲げて研究を進めていき、その成果を公開の研究会での発表や公開講演会、シンポジウムにおいて参会者を含めて相互に検討し、各分野の連関を探求することを目的とする。また、死と孤独についての理解が時代とともにどのように変遷していくかを探求することも重要であるが、そのために古記録からの研究も欠かせない。この方面の研究は以下の研究分担に示す通り、榎本客員研究員が担当する。
その成果は研究発表会やシンポジウムでの討議において、研究者と、参会者の方々とのコラボレーションによって意見を交え、幅広い年齢層の参会者と、研究者が共に老いの可能性について検討し合う双方向の場として、研究を進めていき、その討議の検討を踏まえて、研究を深化させていく。
研究組織は以下の通りである。
研究代表者 役割分担
高城功夫 研究員 研究総括、古代・中古・中世文学にみる老いと死と孤独
研究分担者 役割分担
谷地快一 研究員 俳諧を中心とした近世文学における老・死・孤独
神田重幸 研究員 近代文学における老いと死と孤独のあり方
山崎甲一 研究員 近・現代文学における老年期像および死生観・孤独観
川崎信定 客員研究員 仏教における他界観と老年期の問題
渡辺章悟 研究員 生前の功徳と老年期における不安
相楽 勉 研究員 老年期の死と孤独に関する比較思想的研究
大鹿勝之 客員研究員 終末期の問題と老・死・孤独
菊地章太 研究員 道教における死生観と日本の習俗への影響
井上治代 研究員 死者祭祀の変遷にみる老・死・孤独のあり方
番場裕之 客員研究員 ヨーガ思想からみた老・死、日本のヨーガ受容と老・死
榎本榮一 客員研究員 古記録にみる死と老年観の変遷
昨年度平成21年度は各研究者が役割分担に基づき研究を進め、平成21年7月4日に開催された研究発表例会での榎本客員研究員の成果発表の他、11月2日に「現代の老年期と死生観」と題するシンポジウムを開催した。パネリストは井上・谷地・渡辺研究員が、司会は相楽研究員が担当した。井上研究員は「老後の不安と葬儀・墓のあり方―現代の葬送儀礼にみる老年期―」、谷地研究員は「老いと俳諧―文台引き下ろせば即ち反古なり」という基調講演を行い、また当初パネリストを依頼していた蓑輪顕量・愛知学院大学教授が急務により参加できなくなったため、分担者の渡辺研究員が箕輪教授の原稿を代読するかたちで基調講演がなされた。基調講演の後にパネリスト間での、またフロアを交えての討論が行われたが、盛会のうちにシンポジウムを終えることができた。介護の問題や葬送・墓の問題など、現代の老年期の問題について、参会者の関心の高さがうかがえた。
本年度平成22年度の研究経過は以下の通りである。
本研究の継続申請採択を受け、平成22年5月8日に打合会を開催、各研究者の研究計画を確認し、公開講演会の開催について協議した。研究者の研究調査については、研究代表者の高城が平成22年9月5日〜9月7日、松山に、正岡子規の晩年および遍路札所の調査を行い、9月14〜16日に高野山および奈良において弘法大師信仰および女人高野の調査を行った。また渡辺研究員は、9月6日〜9月8日に長崎県の諸寺をめぐり、日本仏教において展開した祖先供養の調査を行い、相楽研究員が9月22日〜9月25日、「瀬戸内国際芸術祭2010」の過疎地の高齢者とコミュニティーにもたらす影響の調査、榎本研究員が11月8日〜11月10日、京都と木幡において平安中期の貴族における追善供養の実態に関する調査を行った。そして、井上研究員が平成23年2月21日〜2月26日、韓国・ソウルにおいて韓国の死者儀礼に関する調査を行い、山崎研究員が平成23年3月6日〜8日、熊本(玉名市天水町小天・雲巌寺・野出峠)において、分担課題「近・現代文学における老年期像および死生観・孤独観」に関連して夏目漱石『草枕』に関する調査を行う。
研究発表としては、榎本客員研究員が7月3日に研究発表会において、「平安時代中期の古記録にみられる葬地と葬送儀礼」と題する発表を行った。この発表は、平安時代の葬送儀礼を考えるにあたり示唆に富んだものであった。
そして、平成23年1月29日の研究発表会においては、神田研究員が「近代文学における〈老〉〈死〉〈孤独〉ー島崎藤村をめぐって」と題する発表を行った。発表では〈老いの成熟〉を信条としていた藤村の晩年の生き方、文学について、小説「嵐」「分配」等を中心に検討がなされた。当日は日程の都合上時間が制限されていたが、本学のさまざまな講座の受講生も参会し、活発な質疑応答がなされ、盛会の内に終えることができた。
そして、平成22年7月24日に坪内稔典・佛教大学教授を講演者に招いて「正岡子規―病気を楽しむ」と題する公開講演会を開催した。本講演会では「病気を楽しむ」という正岡子規の姿勢が取り上げられ、多くの聴衆のもと、老いを肯定的に引き受けて生きるあり方が示された点で、本研究のテーマにとっても大変有意義な講演会となった。
以下に、平成23年1月までに行われた研究調査ならびに研究発表会・公開講演会の概要を示す。
研究調査活動
分担課題「古代・中世文学にみる老いと死と孤独」に基づく調査(正岡子規の晩年および遍路札所の調査)
高城 功夫 研究員
期間 平成22年9月5日〜9月7日
調査地 松山市(子規記念博物館、子規堂、松山城〈子規句碑〉、石手寺、繁多寺、浄土寺、西林寺、八坂 寺、浄瑠璃寺、円明寺、大山寺)
9月5日松山に到着して、まず正岡子規記念博物館を見学した。正岡子規に関する資料を展示してあるので、少し時間をかけて調査見学をした。そのあと子規が17歳まで過ごした正宗寺の境内にあった住居を復元した子規堂の資料館・松山にベースボールを伝えた子規にちなんだ「子規と野球の碑」などを見学した。そのあと松山城下の長者ヶ平にある「松山や秋より高き天守閣」の句碑の調査をした。
次の日は遍路札所の調査で、伊予国の遍路の調査をした。石手寺は薬師如来を本尊とする51番の札所である。三重塔が一際目立つ寺である。弘法大師が巡錫したために真言宗となり、太子堂などがあって立派な寺である。子規は明治28年9月に訪れ「南無大師石手の花よ稲の花」という句を残している。次に50番札所繁多寺を調査。一遍上人もこの寺で学問修行したと伝えられている寺で、薬師如来を本尊としている。次に49番浄土寺の調査をした。ここは空也上人を慕ったところからの寺名で、本尊は釈迦如来である。次に48番西林寺を調査した。本尊は十一面観音で、「杖の測」の遺跡のある信仰の篤い寺である。次に47番八坂寺、阿弥陀如来が本尊、次に浄瑠璃寺の薬師如来信仰の調査をした。
次の日、52番太山寺と53番円明寺を調査。太山寺は十一面観音、真野長者伝説とともに重要な寺である。円明寺は、阿弥陀如来で、納札打付が清明でそのいわれの調査をした。十一面観音信仰とともに重要な札所である。
分担課題「古代・中世文学にみる老いと死と孤独」に基づく調査(弘法大師信仰および女人高野の調査)
高城 功夫 研究員
期間 平成22年9月14日〜9月16日
調査地 高野山(奥之院弘法大師廟等諸寺諸堂)、奈良(法華寺・中宮寺・室生寺・大野寺)
9月14日 先ず高野山の奥の院弘法大師廟に参拝するとともに、西行の山家集にある寂然と歌をかわした1の橋を調査した。1の橋は高野山でも結界をあらわす重要なところである。西行は都にいる寂然と十首歌の贈答をした。橋は高野の玉川に架かっている橋で弘法大師空海の廟への参道であるとともに大師信仰の基点をもあらわしているところであり、それが結界となっている。次に一心谷の蓮華定院の調査をした。ご住職が対応してくれたので種々話をうかがうことができ多くの収穫を得ることができた。西行が高野山で滞在したのが蓮華定院だという説があるのでその確認をすることができた。
次の日は西行の庵を結んだ場所を探し、大会堂の西行寄進の実態の調査や法華三味堂などの調査をし、伽藍壇上周辺であることの確認をした。さらに、奈良の女人高野の調査をするために向かった。先ず法華寺は光明皇后の発願になる寺で本尊の十一面観音は光明皇后を模したものだといわれ病人を救済したといわれる寺でその遺跡の確認をし、中宮寺は斑鳩に存し、聖徳太子母后の建立になると伝える女人門跡寺院である。
次の日は室生寺で、やはり十一面観音の女人高野の寺院である。その次に大野寺の磨崖仏を調査し、信仰の対象としての像を見学した。
分担課題「生前の功徳と老年期における不安」に基づく研究調査
(日本仏教において展開した祖霊供養の調査。黄楽宗の崇福寺、聖福寺、興福寺における「中国孟蘭盆会」や中国式の先祖供養の実態、悟真寺国際墓地などの調査。)
渡辺 章悟 研究員
期間 平成22年9月6日〜9月8日
調査地 崇福寺(長崎市鍛冶屋町)、聖福寺(長崎市玉園町)、興福寺(長崎市寺町)、悟真寺国際墓地(長崎市曙町)
9月6日(月)
早朝に高崎の自宅を出発、東京・浜松町経由で、東京国際空港(羽田)10時40分発長崎空港行きの飛行機に乗船、午後1時頃に長崎空港着。生憎台、風の襲来で強風と豪雨の中で移動しなければならなかったが、効率よく以降の日程を過ごすことができた。
この日は黄栄宗崇福寺(長崎市鍛冶屋町7―5)における孟蘭盆法会を調査した。崇福寺は1629(寛永6)年に長崎に在留していた福州人たちが故郷の福州の僧超然を迎えてつくった寺で、本堂と第一峰門の2つの国宝と、護法堂、鐘鼓楼、婚祖堂など国の重要文化財が5つある由緒のある寺である。この寺で、毎年旧暦の7月26日〜28日に中国式の孟蘭盆会(普度)が行われている。毎年中国の旧暦で行なわれるため日程は定まらないが、今年は9月3日〜6日の3日間であり、これが今回の主たる調査の対象であった。その内容は後述する。
9月7日(火)
長崎の場合は中国明代から渡来するものが多く、当時の中国で盛んだった黄癸系の寺院が多く見られる。その中で午前中に聖福寺(長崎市玉園町3ー77)と興福寺(長崎市寺町4―32)、午後に悟真寺国際墓地(長崎市曙町6―14)と、曹洞宗の皓台寺(長崎県長崎市寺町1―1)とを訪れ、先祖崇拝・孟蘭盆会と墓地の形態などを調査した。
このうち、聖福寺・興福寺は崇福寺と同様に黄柴宗の寺で、明代の様式を残す独特の文化を伝える。特に興福寺は、南京系の人が1620(元和6)年に建立した日本最古の唐寺で、眼鏡橋を架設した黙子や長崎南画の祖逸然性融らが住持した。明の高僧隠元も逸然の要請によって、1654年、弟子30人を連れて来航して興福寺に入山した。隠元は1661年(寛文1)、宇治に黄癸山万福寺を創建して、日本黄柴宗の開祖となったように、日本の禅宗に大きな影響を残している。これらの寺院の墓地には「土神」という中国伝来の民俗信仰が残っていて重層化した宗教形態を残している。土神については後述。
9月8日(水)
この日は3曲の発祥地である浄土宗の慶巌寺と諌早氏の氏寺である曹洞宗の天祐寺に立ち寄った。特に天祐寺には独特の五輪塔が整然と立ち並んでおり、江戸初期から中期にかけての大規模な墓石の遺稿を資料として写真撮影してきた。夕刻長崎を出発し、夜に自宅に帰着した。
・中国式先祖供養(中国盆・普度)について
崇福寺の孟蘭盆会は「蘭盆勝会」といわれている。その目的は死者の霊を慰めるため行われるという意味では日本で通常行われている孟蘭盆会と同じであるが、在留する中国人によって毎年で行われている中国式の盆行事が日本化したという特有の性格を持っている。
まず、第1日は僧侶によりお経をあげ、釈迦、その他尊者の霊を慰め、第2日は同じくお経をあげ亡者や霊を呼ぶ。今回は都合により最終の第3日のみ調査を行った。
この日は全世界の霊に対し供物を供え、迷い出た人に悪戯をしないよう金銀貨や着物等を意味する金山、銀山、衣山などを燃やして米鰻頭を天に向けて投げて霊を送る。
先祖の霊を迎えるための足洗い場があり、さらには小さな社のような男の部屋、女の部屋、風呂、劇場、遊技場などが用意され、それらに花香灯燭などを供えて祖先の霊を歓待する。さらに、面白いのは本堂の脇の広場に先祖の霊が買い物を楽しむための多くの店舗が描かれることである。各店舗は現世の店と同様、酒屋・楽器店・本屋・漢方薬、瀬戸物、棺桶などを商う店などがある。ミニチュアの店舗であるが、内部には店主・売り子・客なども描かれていて、まるで屋台のように賑やかに立ち並んでいる。また、買い物をするために金と銀の貨幣も山型に貼って用意され、夕刻からはいくつもの赤いランタン(提灯)が灯され賑やかになる。いかにも現世的な中国の風習といえよう。
また、3日間のうち、最終日の午後4時までは精進料理が、5時からは豚の頭の九焼き、鳥の頭、魚、貝類などの生臭ものが供えられる。中国獅子舞、唐人鉄砲や太鼓が鳴り響くいかにも中国式の賑やかなお盆である。そして最後には儀礼に用いたさまざまなものを燃やして、祖先をもとの霊界に帰すのである。
・土神(どしん)について
長崎には中国の風習と関係の深い土神という民間信仰神がある。これは土地や家を守り、豊作の神様として中国では広く信仰されているもので、長崎では″つちがみ〔さま〕”と呼ばれ、しばしば墓地の中に安置される。多くは墓碑の横に赤い文字で「土神」と刻み込まれた石碑を祀るが、地神、土地神、と刻まれたものも見られる。これは墓所を土地神から借りるという意味で祀るのである。この信仰は、唐人屋敷に土神堂ができたのち、唐通事や帰化唐人から長崎市民へ広まったものと思われる。
『長崎墓所一覧』には、「唐人屋敷に土神堂ができたのち、唐通事の墓に、本山土地正神、土地神、福徳土后などが出来始めてから日本人が真似し始めたのではないか」と説明され、それに、多くの呼称があったことも紹介されている。土地霊・土祀・土地神公・地神・土荒神など約20種類が上げられている。
日本にも土地を治める神として、屋敷神・荒神・地荒神などと呼ばれる神々がいて、墓所をつくる時など、一時的にその場所を土地の神から借りるという意味で祀られてきた。長崎の土神と同じ意味があり、日本へは古くから中国の影響があったことが指摘される。
「瀬戸内国際芸術祭2010」が過疎地の高齢者とコミュニティーにもたらす影響に関する調査
相楽 勉 研究員
期間 平成22年9月22日〜9月25日
調査地 香川県小豆島町(豊島、小豆島)と高松市(大島、男木島、女木島)、岡山県岡山市(大島)
予定通りの行程で、岡山県と香川県の島を舞台に開催された芸術祭の模様とそれに関わる関係者からの聞き取りを行った。22日は岡山県犬島、23日からは香川県内の豊島と小豆島、24日は男木島と女木島、25日は大島を訪問した。
小豆島以外は小島であり、高齢化が進む過疎地であった。そこの空き家や空き地を借り、また村人の協力を仰いで作品を制作し、地域の活性化をも図るという趣旨は昨年の大地の芸術祭(新潟県で開催)と同じだが、今回特に印象深かったのはハンセン病療養施設のあった大島での展示であった。プロジェクトリーダーの高橋氏は3年に亙る島の入所者たちとの交流を通じて、ここの生活の中の確かな存在を「拾い上げよう」と思うようになったと言う。隔離されたまま老年期を迎えたここの人々にとって、この芸術祭は自分たちが必要とされている新たな生活への1歩となるように思えた。
分担課題「古記録にみる死と老年観の変遷」に基づく調査
(平安時代中期の貴族における追善供養の実態に関する、鳥部野から木幡への埋葬の経路と木幡の墓地の調査)
榎本榮一 客員研究員
期間 平成22年11月8日〜11月10日
調査地 京都・木幡
8日、鳥部野から南に下ると深草である。深草も平安京の回りにあった葬地の1つで、藤原冬嗣は深草で荼毘に付され、木幡に埋葬されている。藤原基経が建立した極楽寺跡に建つ宝塔寺を調査し、後深草天皇の深草北陵から、平安時代の骨蔵器の出土した中ノ郷山町を経て、仁明天皇深草陵に至った。
9日、木幡が葬地であったことを示すものとしては、藤原氏出身の皇后や中宮などの陵である宇治陵がある。今回主にJR木幡駅の南の丘に広がる宇治陵を中心に調査した。10坪にも満たないような陵が多い。「御陵所在地一覧表」に宇治陵は17を数えるが、宇治陵として管理されているものは37箇処あり、その中には道長などの墓も含まれている可能性もあると、宮内庁の管理事務所の方の話である。
10日、月輪南陵、仲恭天皇九条陵を巡り、東福寺山内にある忠平の建立した法性寺時代からある五社明神と、法性寺五大堂の本尊であったと考えられている同衆院の不動明王と、中尾陵を調査した。
研究発表会
平成22年7月3日東洋大学白山校舎6311教室
平安時代中期の古記録にみられる葬地と葬送儀礼
榎本 榮一 客員研究員
〔発表要旨〕藤原(小野宮)実資の日記『小右記』の記事を主に、平安時代中期の貴族における葬地と葬送儀礼についての一端を見る。平安時代中期の平安京の回りには幾つかの葬地があった。貴族および衆庶のものとしては東山酉麓の鳥辺(部・戸)野、京の北の蓮台野がその主なもので、『小右記』の永詐2年(991)7月13日の条に、11日に死んだ娘は、「七歳以下更不可厳重」という理由で鳥辺野の一角である「今八坂東方平山」に袋に入れ桶に納めて置かれ、また正暦4年(993)2月9日の条には、生まれて直ぐ死んだ子は、蓮台野の「蓮台寺南辺」に棄て置かれた。
氏族の葬地としては、藤原氏の宇治の木幡、宇多源氏の仁和寺の東北地などがある。『小右記』の寛仁2年(1018)6月16日の条に「先祖占木幡山為藤氏墓所、傷奉置一門骨於彼山」とある藤原北家の葬地である木幡については、長和4年(1015)4月2日の条に実資の兄懐平の娘である御匝殿を、また寛仁2年6月16日の条に円融天皇皇后藤原遵子を、また万寿2年(1025)8月5日の条に敦良親王妃の藤原嬉子を、また万寿4年(1027)9月17日の条に藤原道長の娘で三条天皇中宮藤原妍子を、また万寿4年12月8日の条に藤原道長を埋骨した記事がみられる。しかし木幡に埋葬されない例もある。実資の姉は般若寺の辺りに葬られ、一条天皇の皇后藤原定子の陵は鳥戸野にある。なお道長の正室倫子は、仁和寺の近く宇多源氏の葬地に葬られた。
『御堂関白記』の長和5年(1016)8月1日の条に、一条左大臣源雅信室で一条尼上といわれた藤原穆子は、生前に観音寺に四面に廂のある恒久的な無常所を造り、死ぬと遺書どおり遺骸はその無常所に移された。これは墓堂に当たるものといえる。また『小右記』の長保元年(999)12月5日の条には、冷泉天皇皇后昌子内親王は、岩倉の観音院に御魂殿を造りそこに移され、その中を薪で積み満たしたとある。実資の姉は屋を作り仮に納めたとある。これは殯としてのものなのか、あるいは荼昆をするためのものなのかはこの記述だけではわからない。なお、一条天皇の焼骨は、埋骨する前に小屋を造って安置した。これは残に倣ったものか。
『小右記』にみられる葬送あるいは葬送所は、万寿4年12月7日の条にみられる道長の鳥戸野における例などのように、近親者や親しく仕えた人たち等との最後の別れの儀礼をし、遺骸を荼毘ないし土葬にすることでありまたその場所である、といえる。火葬の場合は多く翌日に、家司や乳母子など死者に近侍した者が骨を頸に懸け2、3の僧が付き添い、墓所に向かう。ただ昌子内親王の場合、観音院で葬送が行われているように、土葬の場合は葬送所と墓所が重なる。
また実資の妻の婉子女王や藤原公任の母である厳子女王のように、没してから数ヶ月ないし1年後に改葬が行われることもある。改葬されるまでの間遺骸ないし骨はどのような状態であったかは、『小右記』の記述からはわからない。
研究発表会
平成23年1月29日東洋大学甫水会館302室
近代文学における〈老〉〈死〉〈孤独〉―島崎藤村をめぐって
神田 重幸 研究員
〔発表要旨〕本発表は、研究プロジェクト「日本の老年期における死と孤独」の一環によるものである。いつの時代でも人間の〈老〉と〈死〉と〈孤独〉は、不可避的連想作用で繋がっている。しかし、それは形を変えた〈存在〉そのものの根源を問う苛酷な営みでもある。S・ボーヴォワールは『老い』上下(人文書院)の中で、「老いは人間存在の必然的な帰結ではない」と、「老年期において人間が1個の人間であり続ける」ことを社会的視点から問題にしたが、この課題は日本の近代文学においても大きなテーマである。
その認識、捉え方は大きくみて、1つに一般的老人像に対する不敵な挑戦として、谷崎潤一郎や川端康成文学など、〈性〉の問題と等分にみる考え方、2つには芥川龍之介、太宰治、遠藤周作などの文学における宗教的、終末論的発想や諦観の上に立つ考え方、3つには作家が芸術と実生活のはざまでズ老〉の呼吸を問い、〈死〉や〈孤独〉を見据えて文学的に対決、再生するという森鴎外、夏目漱石、田山花袋、志賀直哉文学などの考え方があげられる。〈老いの成熟〉を願望していた島崎藤村の晩年の生き方、文学はこの考えの典型であったと言えよう。
若き日に体験した父正樹の狂死や先達北村透谷の壮絶な自裁が、反転として「生きて出る」ことを不退転の信条とした藤村は、たえず生活者として準〈備〉〈支度〉をおこたりなくして生き、晩年は〈老いの支度〉を深く自覚していた作家であったと考えられる。
『お前が「老」か。』……今迄私が胸に描いて居たものは真実の『老』ではなくて、『萎縮』であつたことが分つて来た。……まだ
誰か訪ねてきたやうな気がする。私はそれが『死』であることを感知する。『死』もまた思ひもよらないことを私に教へるかもしれな
い。‥…。(「3人の訪問者」)
ここには50歳を境にしての〈老〉〈死〉の心境が語られ、さらに「芭蕉」「老年」「樹木の言葉」へと続き、「太陽の言葉」では、「まこと老年の豊富さは、太陽を措いて外にはない」と老年にしてなお来たるべき時代に向けての「成長と成熟」が思索、披涯される。
小説「嵐」「伸び支度」「分配」は、自分の子供に眼を向けることのなかった藤村が、大正期後半を迎え、巣立ち行く4人の子供と〈老〉と〈孤独〉を負う自分との間に、「私達が春を待ち受ける心は嵐を待ち受ける心だ」(「嵐」)と、強い嵐の体験が新たな生命を揺り動かすという〈老い〉の蘇生と成熟をテーマとした小説である。
晩年になるにつれ藤村は〈老〉〈孤独〉を深くしてゆくが、「富とは、生命より外の何物でもない」(「分配」)という〈老い)の感慨を持ち続け、「夜明け前」「東方の問」に向けて倦むことなく書き続けていった作家であった。
公開講演会
平成22年7月24日東洋大学白山校舎6211教室
正岡子規―病気を楽しむ
坪内 稔典・佛教大学教授
〔講演要旨〕22歳で喀血して子規と名のった正岡子規は、以来、余命10年を自覚して生きた。俳句も短歌も文章も、そして読書や議論も、彼にとっては病気を楽しむことであった。子規は亡くなる年、明治35年に『病沐六尺』を新聞に掲載しているが、その記事を取り上げてみよう。
○草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に篤生して居ると、造花の秘密が段々分つて末るやうな氣がする。(8月7日)
8月7日と下に書いてあるのは新聞に載った日付である。非常に短いが、短いということは病状がとても悪くなっているということを示している。草花の一枝を枕元に置いて、それを写生で描いて、見つめている。造花の秘密というのは、大自然の秘密みたいなことで、この世の中の成り立ちみたいなものが、枕元の一枝の草花から見えてくる。世界はこんなふうにできているんだ、いうことが見えてくる。だから、病林六尺の小さな世界、その小さな世界に置かれた一枝の草が、大宇宙とつながっている感覚がある。それは病気を楽しむところから来ている。
健康な人は、ゴルフに行ったり、古本屋に行ったりすることができる。だけど、年がら年中病人の自分は何ができるかといったら、何もできない。唯一できることといったら、病気である自分を楽しむことである。病気というのは、周りから見たら1番嫌われること、最大のマイナスの条件だが、それを引き受けて生かすというのが、子規の理屈である。病気を楽しむという考えに至ったら、病床で俳句を作り、短歌を作り、原稿を書き、友達と語らうことも食べることも全て病気を楽しむことに変わった。
そういう子規の考えが見られるのが、上の草花の一枝の話である。それから次の記事を見ていただきたい。
○或給具と或給具とを合せて草花を畫く、それでもまだ思ふやうな色が出ないと又他の給具をなすつて みる。同じ赤い色でも少しづゝの色の違ひで趣きが違つてくる。いろに工夫して少しくすんだ赤とか、少 し黄色味を帯びた赤とかいふものを出すのが篤生の1つの柴みである。紳様が草花を染める時も矢張こん なに工夫して柴んで居るのであらうか。(8月9日)
神様が宇宙を創るとき草花を創られた。その時自分が写生しているとき工夫しているのと同じように工夫したのであろう。つまり、病沐六尺という小さな世界で、正岡子規がしていることが、逢かな広い世界につながっている感覚が彼にはあった。そういう感覚を持てたのはなぜかというと、病気を楽しむという考え方だと思う。
私たちは病気を楽しむというより病気をできるだけ避けたいと思っている。私のところに俳句をやりたいといってやってくる方も、モーロク(私は「竃稼」という言葉を悪い意味ではなくいい意味で使いたくて、「モーロク」とカタカナで使っている)しないとか、ぼけ防止のためにやってきましたというのだが、私はそれは違います、むしろぼけましょう、モーロクしましょう、ということにしている。病気になるのも、年を取らていつたらそれはどうしようもなく自然かもしれない。しかしながらその老いていくという自然な過程を、もしかしたら、百年前の正岡子規が楽しんだように、私たちも楽しむことができたとしたら、ぼけることも、モーロクすることも、わくわくしていいかもしれない。そのためにはやはり心構えを作っておかなければならない。つまり、いやだと思っているとだめなのだろう。