平成23年10月15日 東洋大学白山校舎3205教室
平成23年10月15日 東洋大学白山校舎3205教室
天主教書における「格物」論
播本 崇史 院生研究員
17世紀における来華天主教説の痕跡は、漢語における文書伝道の成果によって今に伝わる。その際、宣教師らにとってより切実な問題となったのが漢語概念である。すなわち、宣教師は、漢語によって天主教説を説く以上、その漢語概念が従来有している意味について、より神経質になる必要があつた。それは無論、天主教説として記される漢語概念が、来華天主教説そのものの輪郭を決定づけるものに他ならなかったからである。明末の天主教書に記されている「格物」や「格物窮理」を、天主教徒たちは如何なる思想と認めていたのであろうか。朱喜によってまとめられた格物論の基本を踏まえた上で、イエズス会士が中国での布教に際して提示した「格物」観について考えてみたい。
イエズス会士たちが用いる「格物」論は、多く「格物窮理」の四字によって示されている。このことは従来、イエズス会士たちによって導入された西洋自然科学知識に関する用語として理解されてきた。また、このような理解が成り立つ背景として、そもそも朱子学自体に実証学の側面があり、それが継承発展してきた思想史的展開の内に、イエズス会による「格物窮理」がある、という点について考察が為されてきた。
ところが、朱喜¨哲学における「格物」論が、すべて自然科学ないし実証学に結びつけられていたか、と言えば必ずしもそうではない。言うまでもなく、「心」のはたらきとして理解されてきた側面の方が、むしろよリオーソドックスな理解であった。明末に来華した宣教師等は、この点を捨象して、呆たして本当に実証学としての「格物窮理」しか、理解してこなかったのであろうか。そうではなかったようである。
「格物」概念の用例が比較的多く見られる『霊言奎勺』によれば、むしろ「格物窮理」とは、「費隷蘇非亜」(フイロソフイア)として理解されていた。また、その「費藤蘇非亜」の学の中で、最も枢要な位置を占めるのが、「亜尼瑶之学」であった。「亜尼瑶之学」は、まさに天主教説における人間観の要でもあるが、これこそが、「格物窮理」たる「費藤蘇非亜」に包括された学の枢要として理解されていたものだったのである。
朱一景による「格物窮理」は、「人心之霊」たる心のはたらきが、その作用上において頗る重要な機能を有していた。その特徴は、作為に依らずともはたらく心の知覚作用である。とりわけ、瞬時に対象に即した心のあり方を適宜確実に引き起こさせようとする心のはたらきであり、それは心のあり方と実際のあり様とをさらに規定しているものであった。そして朱一景によれば、このような心的作用は、「窮理」しようとすることの内に初生するものであった。一方、亜尼璃論においては、正しさの原理を入力を超越した至美好なるものに求めるが、しかしその至美好なるものは、人にあっては gratia(聖籠)に依って機能するものとされ、人が様々な物に見いだせる美好の美好なる所以を求めようとしてこそ、はじめて享受できるものであると説かれている。しかし、その求めようとすること自体が、自他に通底している至美好のなせる作用なのでもあった。
イエズス会士たちが「格物窮理」という思想概念をその布教書において用いていた事実からは、作為を超越してはたらく心的作用、といった両思想哲学における類似性を見出すことができる。これが恐らく、明末の天主教書において「格物」論が説かれた理由である。
キルケゴール思想と遠藤周作
行武 宏明 院生研究員
キルケゴール思想において、「イエス=キリストの倣い」(「倣い」)は重要な意義をもつ。何故なら、「倣い」は絶望‐罪にたいする唯一の「治療手段」だからである。
そして、キルケゴール思想はこの「倣い」を聖句(マタイ11章28節)から導出される実践、すなわち苦悩者との真摯な対峙における配慮と自己否定に貫かれた、無条件的な献身的奉仕活動として規定し、我々実存者各々の理念として掲げる。しかし、キルケゴール思想は本来局地的であり、キルケゴールの直面したキリスト教(界)と時間的にも空間的にも「外」に存する我々とは直接的に関連していない。この問題意識から、本発表は遠藤周作についての考察からキルケゴール思想の提示する「倣い」のもつ、我々にとっての可能性を探る。
遠藤周作は日本人のキリスト教徒として西洋的なものと東洋的なものとの狭間で葛藤を続けた作家である。
遠藤文学はその葛藤から遠藤周作が模索する「日本人に合うキリスト教」を提示し、確立する展開であった。遠藤文学が自身の模索から「日本人に合うキリスト教」を提示し確立した作品群は『死海のほとり』『イエスの生涯』『キリストの誕生』である。これら作品群において、遠藤文学はキルケゴール思想が掲げた同一の聖句からイエス=キリスト像―「永遠の同伴者」―を構築する。永遠の同伴者は見棄てられ敬遠され軽蔑される者のもとへと赴き共に苦しむ者、そして苦しむ人全てを神的愛をもって永遠に慰めるために自ら死を選ぶ者である。
上記の永遠の同伴者はキルケゴール思想が「倣い」の模範とするイエス=キリスト像と本質的に合致する。遠藤文学とキルケゴール思想が各々提示するイエス=キリスト像において合致することは、「倣い」が強大な可能性を手むことを帰結する。遠藤文学に従えば、永遠の同伴者としてのイエス=キリストは三苦悩の普遍性、一三苦悩への普遍妥当性、三.母なるものの普遍性を含む。ここから、「倣い」が上記の普遍性を帯びる実践であること、詳細に言うと、各々すべての苦悩者の待望に応える希望の行為であることが理解される。つまり、遠藤文学との関連において考察するとき、キルケゴール思想の提示する「倣い」はその本来的局地性を脱し、人間存在全体を覆う希望として規定される。
確かに、遠藤文学はキルケゴール思想の如く「倣い」を強調することなしに、永遠の同伴者の下に留まる。それ故、根本的傾向の異なる両立場を関連付けることによって得られる「倣い」に関する見解を直ちに受容することには問題が伴う。しかし、本発表はキルケゴール思想の提示する「倣い」のもつ、我々にとっての可能性を肯定的に論じる契機を得たのである。
無自性説と了義・未了義・密意(趣)説
ー喩伽行派の中観派批判と Kamalaśīla の解決策ー
計良 龍成 客員研究員
インド後期中観派の Kamalaśīla (c. 740-795)の主著『中観光明論』(Madhyamakāloka )の中で、対論者である喩伽行派は、『般若経』等が説く一切法無自性性(niḥsvabhāvatā )という教説は未了義(neyārtha )説であり、三無性(trividha niḥsvabhāvatā )を意図して説かれた密趣(趣)(abhiprāya )説であると言う。無自性説意は了義( nītārtha )説であると考えるkamalaśīla にとっては、喩伽行義(派の解釈は受け入れられない。この教義的対立の問題に対する彼の解決策は、「三無性を意図して説かれた無自性説は了義説である」というものであった。本発表では、彼の了義解釈と三無性解釈を分析することにより、彼の解決策の根拠を明らかにした。
彼の了義・未了義解釈は、「密意(趣)説は、未了義説とは限らず、了義説でもあり得る」という別の解釈の可能性を与える。その解釈によると、ある経文が文字通りではない意味で理解されるべき場合、その意図された、文字通りではない意味こそが、その経文の実際の意味であり、その意味こそが了義かどうかを判断するために考察されるのである。それゆえ、その意図された、文字通りではない意味は、必ずしも未了義ないのである。彼のこの解は、Dharmakīrti の主張命題の解釈に基づいたものと考えられる。
Kamalaśīla は、中観派も三性・三無性の成立を受け入れると明言する。彼の三無声の解釈は「三無性を意味する無自性説は了義説である」と言うことを可能にする。つまり三無声を意味するものとして無自性説を理解すると、その教説によって意図された意味(密意)はまた勝義(=中観派が解釈する勝義無性)をも表しているので、その場合、その密意は了義であるというのである。
Kamalaśīla は、彼の了義・三性・三無性解釈を根拠にして、喩伽行派の思想を中観派の思想と調和させようとしていると思われる。彼のそれらの解釈は全てDharmakīrti の認識手段(pramāṇa )の理論とKamalaśīla の〔五論証因を述べる〕「事物の力によって機能する推論」(vastubalapravṛttānumāna )に基づいたものである。Kamalaśīlaの推論もDharmakīrti のpramāṇaの理論に基づいて成立したもののであるので、Dharmakīrti の理論がKamalaśīlaのそれらすべての解釈を確立するための基盤・根拠となっていると考えられる。
「近代医学」と「二医学の危機」論争、自然療法」の相克
―あるいはドイツにおける近代医学の確立への道程を背景にして―
長島 隆 研究員
ドイツのいわゆる「代替・補完医療」はその歴史的出自から起因する特殊性を帯びている。この問題は「自然療法」の問題として見ることが妥当性を持つ。この自然療法(Naturheilkunde)は、 19世紀に近代医学の興隆し、伝統医学、民間医学が排除されていくプロセスの中で、その理論的根拠を近代医学のコンセプトの中に見出し、その姿を一新させるところに成立するからである。理論的には、治療のコンセプトとして、「自然治癒説」に基づき、独自の組織形成を行い、独自の後継者養成を行うことになった。実際、1800年前後には、「近代医学の祖」として日本でも知られるフーフェラント(Hufeland, Christoph Wikhelm, 1762-1836)が、「自然治癒説」を主張し、現代における自然療法の出発点に位置づけられてもいる。
自然療法の歴史を文献的に確認すると 、 歴史的には 、 古代のヒポク ラテスや 、 ルネッサンス期のパラケルススにまで遡って叙述されるこ とがしばしばある。それは、ドイツ自然療法が、近代医学と相即して 確立してくることを後景に退かせてしまい 、 その固有性をあいまいに してしまうのではないか。今日の自然療法の直接の淵源は、1800 年前後にあり 、 かつ1900年前後の近代医学との論争の中でその姿 を一新させている 。
1900年前後には 、 「医学の危機」をめぐる論争として、「学校医学」派と「自然療法」派の間で、争われた。中心問題は、医師たちによる治療の独占を主張する「治療の禁止」と自然療法家たちの活動の 自由を認める「治療の自由」の争いである 。 一応の解決をみるのは 、 ナチスの政権獲得下の一九三九年 、 Heilpraktikergesetz の制定によると言えよう 。 この法律はナチスによるものとはいえ 、 その戦後まで 生き延び、今日の自然療法家の活動を規制している。この解決は、端的に言えば、今日の日本などでも話題になる「医業独占」を認めるかどうかにかかっている。
このような両者の相克の中で 、 自然療法家の方も 、 「療法師」とし て組織的に発展し 、 1939年には Heilpraktikergesetz によって、 暫定的なものであれ、Heilpraktiker の公法上の意味ではなく、私法 上の職業団体が承認されることになった。自然療法は、近代医学と対 決する中で 、 その療法の在り方を多様化させ 、 理論的にも「自然治癒説」に基づく療法として 、 今日に至っていると言えよう。十九世紀前半は 、 いわゆる小市民の文化(ビーダーマイヤー時代)を背景にし て 、 日常のこまごましたことに関心が集まっていた時期であり 、 この文化を背景にして 、自然療法と近代医学が成長してくる。