平成13年10月27日
平成13年10月27日
バーミヤーン渓谷から発見された仏典写本群
―スコイエン・コレクションとタリバーンー
渡辺 章悟 研究所員
ノルウェーの写本収集家マーティン・スコイエン氏が蒐集した仏典写本がもたらす仏教研究へのインパクトについて紹介する。
スコイエン・コレクションは4517点ほどの文物からなる。この中で写本は2083巻を含む12536種類の品目にのぼる。そのうち、6178点の写本が古代(BC3200ーAD500)、3848点が中世(AD500ー1500)、2510点が中世以降に属する。全写本の中で、紀元前3000年以前のものが4000点、紀元前5000年以前に辿るものとしては44点も存在する。書写された素材は岩石、粘土板、金属、動物の皮、パビルス、樹木の皮、紙など多岐にわたり,その言語の種類も全世界に広がる。
主なコレクションとしては、聖書がある。これは近代諸語はもちろん、ヘブライ語、アラム語、ギリシャ語、コプト語等の言語が見られる。今年になって、このコプト語の聖書の写本が公刊された。また、スメール、バビロニア、アッシリアの文物も多くある。
バビロニアの歴史に関する文物では、ウル第3王朝の5人の王系譜や、楔形文字の銘板、医薬の処方箋と収穫の予想を占う粘土板、あるいはバビロニアの算数の教材などもおもしろい。また,世界最古の文学とされるギルガメシュが刻まれた粘土板は貴重なものである。
教文物では紀元前1世紀後半から紀元後68年頃に存続したクムラン教団の規律を記したヘブライ語のマニュアルや、紀元前1世紀末頃のヘブライ語で動物の皮に記されたヨシュア記なども見られるし、特別なコレクションに納められる死海文書やパピルス文書の死者の書やコプト語聖書、あるいは各種のコラーンやサンスクリットのリグ・ヴェーダ、バガヴァッド・ギーター、はたまたアルダ・マーガディーで書写されたジャイナ教文献カルパ・スートラなども注目されるが、今回は仏教文物に限定しておく。
仏教の文献はインド、中国、チベット、日本と揃っているが、なんと言っても注目されるのは、「仏教の死海文書」と命名された一群のサンスクリット写本である。
これらはバーミヤーン渓谷からもたらされた写本群であるが、もともとタリバーンに追われたアフガン難民が、パキスタンのディーラーに売り渡したもので、それらがドバイ経由でロンドンの複数のディーラーの手に渡り、さらにその多くをスコイエン氏が買い求めたものである。その他は、大英図書館や個人の収集家の手に渡ったものもあるが、大部分はスコイエン氏が買い求めることになった。これらをノルウェー・オスロ大学のブロールヴイック教授をはじめとする仏教写本の専門家に調査を依頼したものなのである。この調査の成果は″Bud-dhist Manuscripts in the Schoyen Collection ; BMSC”,Vol.Ⅰとして今年の春に刊行された。
筆者はこのシリーズの第巻目に収録される予定の「金剛般若経」の調査を担当しているが、そのために今年の夏にノルウェーにて進められている出版の準備に参加し、これらの仏典の状況を実際に調べることができたので、今回の発表ではその報告をしておきたい。
まず、書体であるが、これらの写本は1.カローシュティー文字、2.クシャーナ文字、3北東型グプタ文字、4.北西型グプタ文字、5.ギルギット・バーミヤーン第1型、6.ギルギット・バーミヤーン第2型、バクトリア語仏教文書などである。
その素材は、パームリーフ、いわゆる貝葉写本をはじめ、樺皮、紙、あるいは動物の皮に書かれたものさえある。書写年代はおおよそ紀元後2世紀から8世紀の間にとされ、古代インド文化圏から発見された最古の大乗仏教写本群といえる。このように驚くべき内容を持つものばかりなのであるが、しかもその量も1400点以上にものぼり、現在までに何であるか同定されたものは1部分にすぎない。
しかし、現在判明している経典「大乗涅槃経」「八千頌般若経」「二万五千頌般若経」「金剛般若経」「勝鬘経」「阿闍世王経」「アショーカ・アヴァダーナ」「法句経」「魔訂僧衹律」「無量寿経」「法華経」「三味王経」「諸法無行経」等をみても大乗の伝統を継承した教団組織と深い関係があったことがわかる。
この中でも「八千頌般若経」はクシャン文字で書かれ、およそ2世紀頃と推定された現存最古の大乗経典である.この経が成立してから100年~200年も経過していないということから考えても、この写本の重要性がわかるであろう。
この写本の研究が進むことによって、これまで不明であった北西インドの仏教、及び初期大乗仏教の歴史と思想に新たな光が当てられることであろう。
初期ゲルマン=ケルト聖域と大地母神
―日欧死生観比較研究のために―
中里 巧 研究所員
序
スターヴ教会とは、AD800~AD1300年代北欧で建設された木造教会のことであり、現在ノルウェーに29基現存する。本発表は、4年間におよぶスターヴ教会18基の現地調査をもとに、キリスト教以前の宗教意識の古層を遡及して、ゲルマン=ケルト的要素のみならず農耕石器時代を起原とする大地母神信仰まで、概括する。農耕石器時代ドルメンは、デンマークシェラン島ロスキレ地域に多く保存されており、本年まで3基の現地調査をおこなっている。北欧聖域の特性には、日本における宗教的母性と多くの共通点が見られる。
1.スターヴ教会定義
(1)スターヴ教会定義
スターヴとは柱を意味する。4本の木柱とそれを囲む木壁から成るのがスターヴ教会の基本であるといった定義がある。デンマークで多く建設されたであろう初期スターヴ教会の構造は、たしかに、そうしたものであっただろう。けれども、13世紀にまでおよぶ教会建築のうち、現在スターヴ教会と呼ばれている建築群は、上記のような素朴な定義では収まりようがない。部分的であっても漆喰技法を用いた教会は、スターヴ教会と呼ばれないし、石造教会もまた、スターヴ教会とは呼ばれない。13世紀までに建設された教会のうち、礎石以外のすべてが木造であり、修復を経ていても、木造のままであるのが、スターヴ教会であると言うのが、もっとも現実に即応している。
(2)北欧精神史の規定と方法
研究対象となる北欧地域は、アイスランド・デンマーク・ノルウェーである。アイスランドは文献が、デンマークは農耕石器時代ドルメンと初期スターヴ教会遺構が、ノルウェーはスターヴ教会が、保存されている。精神史とは、文字資料と無文字資料双方を総合的にあつかい、当時の日常の思想、言い換えれば、有意味性体系を再構成する作業である。
2.UNDREDAL
(1)ケルト=ゲルマン紋様
ノルウェーUNDREDALスターヴ教会内部の南面木壁と東面祭壇壁に、ケルト紋様がみられる。これらのケルト紋様はすべて呪術的なものであり、魔除けである。スターヴ教会にケルト紋様がみられる主な理由は、北欧へのキリスト教宣教のおおくが、アイルランド人司祭によっておこなわれたことに起因している。
(2)BUMERKE
4年にわたるスターヴ教会調査の主要な課題のひとつに、BUMERKE(FAMIRY SIGN)がある。村の豪族などで教会にたくさん寄進した家族のシンボル文字が、教会の扉などに彫られている。このシンボル文字は、ローマンアルファベットでもルーンアルファベットでもない。固有でありながらそれ独自のシステムをもった象徴紋様であり、メソポタミア起原を思い起こさせるものもある。
3.キリスト教史とカルト
(1)最初期スターヴ教会
スターヴ教会史は、北欧にキリスト教が伝承され根を下ろしたAD870年頃のデンマークにはじまる。最初期スターヴ教会の大きさは4m4方に過ぎず、小型であった。長さ20mを雄に越える、バイキング船を文字どおりひっくり返したような巨大な集団生活型住居が、すでにこの時期建設されているため、最初期スターヴ教会が小型な理由は、決して技術が未熟だったためではない。当時、異教寺院というのが実際に建設されていたのか、最初期スターヴ教会が異教寺院に影響を受けているかどうか、不明である。
(2)HOVE
ノルウェーの漁村ヴィークから山域に向かう途中に、ホーヴェHOVEという山村がある。ノルウェー語HOVEは、古代ノルド語でカルトが執行される場所を意味する。ノルウェーおよびデンマークには、現在なおホーヴェという地名が多数残っており、そうした場所はすべて、カルトが執行された場所だと推定されている。
4.聖域の発展と変容
(1)LANG DYSSE
上記ヴィークに保存されている民俗伝承およびホッパステードスターヴ教会の中世マリア信仰、上記ホーヴェの石造教会の中世マリア信仰等から、少なくともこの地域では大地母神信仰がかつて存在していたことが推測されうる。
ところで大地母神等の聖域が如何に発展し変容してきたか、その過程の発端に位置するのが、デンマークロスキレ地域に保存されている、農耕石器初期時代のLANG DYSSEロドルメンである。
(2)形態と聖性
LANG DYSSE、RUND DYSSE、JAGTE STUE、HOEJ、といったドルメン墳墓の変容過程と、初期スターヴ教会(AD850-1100)、中期スターヴ教会(AD1100-1200)、後期スターヴ教会(AD1200-1300)には、祭壇の形態・会衆空間の形・マリア像のあつかいなどの点で、有機的な繋がりがあることを指摘することができる。また大地母神信仰は、病気を癒す奇跡信仰へと変容してもいる。
『健拏標訶一乗修行者秘密義記』の基礎的考察
佐藤 厚 研究員
房山石経蔵『健拏標訶一乗修行者秘密義記』は房山石経に収録され他の大蔵経には収録されていない文献である。作者は朝鮮(韓)半島・平壌出身の法蔵という人物であり、華厳宗第三祖とされる賢首大師法蔵(643―712)とは別人である。テキストは文字のほか、数字・色彩名を配置した図と新羅義湘(625―702)の『一乗法界図』図印と形式や内容が類似した図印から構成される。内容は基本的に華厳教学の文献と考えられ、中でも図印などから新羅の華厳教学との関連の深さが考えられる。ただ、密教の教説など通常の華厳文献には見えない様々な思想的要素が盛り込まれている。こうした『義記』研究の意義としては、第1に華厳学、特に新羅の華厳学の新文献であること。第2に新羅の華厳と密教の関係の解明。第3に華厳・密教・『起信論』という『義記』と同様の思想要素を重視した遼代の仏教との関連など様々なことが考えられる。
成立時期は『義記』自体に記録がないため不詳である。下限は房山石経に刻経された金代であり、上限は『義記』が引用される文献、また『義記』が引用する文献などとの関係や内容の検討によらなければならない。現在判明した限りでは『義記』を引用。言及する文献は、永明延寿の『宗鏡録』(904―)、高麗の大覚国師義天(1055―1101)の『大覚国師文集』、希廸(?―1202―1208―?)の『五教章集成記』である。ただ、これら引用と房山石経本『義記』を比較すると、詳細な内容となっているほか、房山本には存在しない教説も多い。このことから『義記』にはテキスト的な問題が大きいことが分かる。
『義記』の全体的特徴と教学的特徴の2点を挙げれば次のようになる。全体的特徴は、第1に算木・銭で表現される「数」による教理の説明である。中でも五別相・五蓮蔵・五臓などの如く「五」という法数が重視されていることが特徴的である。第2に、体内に存在する摩尼や、視覚から脈を通じて業が薫習する過程や五教と五臓との対応など肉体に関連する所説である。第3に、止観を行ないながら自分の毛孔から気息や光が出ることを観ずるなどの具体的な体験の描写である。これらの背後にあるものが仏教的なものか、あるいは中国固有信仰の五行思想と関連するかが今後の課題となる。
教学的特徴としては第1に華厳教学、中でも新羅の華厳教学との関連、第2に大日如来の名が頻出することなどから密教との関連、第二に『大乗起信論』との関連である。
現段階で本書の性格をまとめるとすれば、華厳教学に密教など多くの思想が習合し、当時の諸思想を横断する性格を持っていること。また、一面では華厳教学との通俗化の1例と見ることもできるであろう。
『義記』の全貌については今後『宗鏡録』所引の『義記』の詳細な解析をまたねばならないが研究の意義は大きいと考えられる。