現代老年期の意識像
―死後観と苦の克服―
現代老年期の意識像
―死後観と苦の克服―
内閣府編纂の平成19年度版高齢社会白書によると、平成18(2006)年10月1日現在日本の総人口は1億2,777万人で、65歳以上の高齢者人口は2,660万人、総人口に占める割合は20.8%となっている。そして、平成67(2055)年には国民の2.5人に1人が65歳以上となる社会が到来すると推計されている。また同白書には平成17(2005)年現在の平均寿命は男性78.56年、女性85・52年と示されているが、65歳以上になると、数多くの訃報に接するなど、死を身近なものとして考えぎるをえない状況になってくる。しかしながら「死後どのようになるのだろう」、「亡くなっていった方をどのように捉えたらよいのだろう」といった疑間に対しての受け皿となる、死生観を育む土壌は現在希薄であるといわぎるをえない。生体活動を基本的視座に置く科学的な世界観では、死後の世界を描くことはその対象外とされるが、上記の疑間が喫緊の問題として差し迫ってきた場合、死後観がたとえ「観」の域を出ないにせよ、死後観を提供することは極めて重要である。現代にあっても、形骸化しているともいわれようが、初7日から33回忌までの法要が行われ、亡くなった者の死後の存在などを描いたり、また残された者にとっては、いずれは旅立つであろう死後の世界を、たとえ強固な信念にまで至らずとも、描いたりする。古来日本にはこうした死後観に対する伝統や風習があり、それは文学や仏教に色濃く反映されている。西行の「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃」という歌にしても、そこから様々な側面をうかがうことができるのである。
また高齢社会においては、高齢者の身体能力の低下、疾病に伴う苦の問題が生じてくる。この問題に対して介護や医療といった社会的・経済的な対策が叫ばれているが、その苦というものにどのように向き合うか、内面的には、老いとは若年から老年に至る不可逆的かつ直線的な経過として捉えるのではなく、広井良典が『死生観を問いなおす』(筑摩書房、ちくま新書、2001年)で述べているように、老年が少年と隣り合わせになる円環構造としてライフサイクルを描くなど、老いそのものを苦の根源と見なす視座にも反省の目を向けるべきであろう。すなわち、老年期における苦の克服を重要な課題としなければならない。
そこで、死後観を把捉するための知見、苦を克服するための知見を、文学・仏教・道教・哲学・死生学・社会学・ヨーガ実践といった各分野のこれまで培って来た研究成果を深めた上で提示し、その上で現代における老年期の意識像を探求してみようとするのが研究の目的である。
この研究の目的の達成にあたっては、各分野の研究者がそれぞれの分担課題について研究し発表するだけでは、それぞれの成果がいかに大きなものであろうとも散漫な成果に終わるので、各研究者の成果を統合した上で、総合的な研究成果をあげる必要がある。具体的な方法として、研究成果の発表を公開とし、研究メンバーが発表内容について討論じ合う討論会形式をとる。そこで、研究メンバーは文学や宗教の研究分野の研究に現代における墓制の問題やターミナルケアを視野に入れ、また逆に基制の問題やターミナルケアの研究に文学や宗教を視野に入れて考察し、文学と宗教との相互の影響、ヨーガを通じての心身の関係の把握(呼吸法など簡単な実践も公開の発表会に取り入れる)、それらを総合的に把握する哲学の考察をも含めた上で、研究成果をあらためて検討することになる。さらに、研究発表会での討議において、研究者と、参会者の方々とのコラボレーションとして意見を交え、学生から生涯学習を営む方々まで、幅広い年齢層の参会者と研究者が共に老いの可能性について検討し合う双方向の場として、研究を進めていき、その討議の検討を踏まえ、研究を深化させていく。
本研究は本年度の東洋大学研究所プロジェクト追加募集に応募して採択されたものであり、研究期間は1年間で、本格的な研究に入る前の萌芽的研究として位置づけられている。研究計画としては、まず、研究打合会を開催し、各研究者の研究計画・方法を確認し、研究発表の準備を進める。そして、各研究者が文献研究、研究調査を行い、その成果を研究発表会で発表する。その後、各研究者は研究成果を改めて検討した上で成果報告を行い、その報告を小冊子にまとめる。
研究組織
研究代表者 役割分担
高城 功夫 研究員 研究総括・日本中世文学に見られる死後観と老苦の克服
研究分担者 役割分担
谷地 快一 研究員 俳諧を中心とした、日本近世文学に見られる死後観と老苦の克服
神田 重幸 研究員 日本近代文学に見られる老いの意識像
山崎 甲一 研究員 日本近現代文学に見られる死後観と老苦の克服
川崎 信定 客員研究員 仏典における死後観と死の克服
渡辺 章悟 研究員 石仏・仏塔に見る死後観
相楽 勉 研究員 死への存在としての人間存在の理解、死後の存在についての探求
大鹿 勝之 客員研究員 臨終期における死後観と死の克服
菊地 章太 研究員 道教における死後観と墓葬制
井上 治代 研究員 現代高齢者の死後観の分析
番場 裕之 客員研究員 ヨーガにおける苦の克服
先に述べたとおり、本研究は本年度の東洋大学研究所プロジェクト追加募集に応募し、平成20年5月に申請書を提出、6月に採択されたものであり、研究の開始が7月となった。そこで7月25日に研究打合会を開催し、討論をもとに、各研究者が担当分野における役割意識を深め、研究発表会の開催について協議した。そして、研究調査を行い、研究発表会を11月29日および12月6日に開催した。11月29日は相楽研究員がコメンテーターを、また12月6日は高城研究員が司会を務め、コメンテーター、参会者と発表者との活発な議論が展開された。以下に、研究調査ならびに公開講座の概要を示す。
研究調査分担課題
「日本中世文学に見られる死後観と老苦の克服」に基づく調査
(遍路にみられる死後観および老苦の克服に関する、四国霊場およびその歴史的背景の調査)
高城 功夫 研究員
期間 平成20年8月18日〜8月21日
調査地 直島、善通寺、三野津、白峰山
8月18日、高松築港から船で直島に渡った。直島は崇徳院が保元の乱の結果最初の1年流罪となった所である。崇徳上皇を祀った崇徳神社があり、その入口に西行の石像が安置されていた。西行と上皇の間柄を象徴しているかのようであった。
第2日目は、弘法大師空海出生の地であり、88箇所巡礼の地でもある善通寺とその周辺の調査をした。塔頭の玉泉院には西行の「久乃松」の遺跡と西行堂・西行石像がある。また玉の泉も存じ西行と関わりの深いところである。次に火上山の麓西行庵(山里庵)を調査、西行歌碑や西行木像の確認をした。筆の山を遠望し、我拝師山、出釈迦寺の調査をした。我拝師山は弘法大師の修行の地であり、西行が追体験したところである。
3日目は三野津の調査をした。三野津は西行の上陸した港である。吉津小学校跡に西行の歌碑が存した。三野の港の調査のため託間の考古学資料館を尋ね、古地図などを調査じ館長から種々話などをうかがった。
4日目は、自峰を中心とした崇徳院と西行の遺跡の調査である。雲井の御所の地を確認。青梅神社から「西行の道」歌碑群、御陵まで辿り、札所の白峰寺に参詣、境内の西行石像と歌碑の調査をした。
今回の調査は崇徳院の御霊信仰、生きるという老の克服、空海の思想、西行の追体験と西行遺跡と鎮魂など修行の実体の調査であった。種々収穫の多い調査研究であった。
研究調査分担課題
「日本近現代文学にみられる死後観と老苦の克服」に基づく調査
(本分担課題と関連した、夏目漱石の作品における風土とモチーフに関する調査)
山崎 甲一 研究員
期間 平成21年2月1日〜2月2日
調査地 熊本(玉名市天水町小天、阿蘇)
2月1日熊本空港着11時、小天天水町へ。「草枕」交流館で展示資料学ぶ。前田家と前田案山子墓所、漱石館、鏡が池を踏査。「草枕」の舞台全景を押えるために、起伏多い旧道、新道、を足で確認し、町並全体の距離感を視野に収めながら、作品本文の領域との重なり具合を立体的に計測した。
2月2日小天から熊本市内へ。熊本近代文学館にて、縁りの文人展示を見る。ラフカディオ・ハーン記念館(旧居)、漱石第5の下宿跡(内坪井町)藤崎八幡宮、ハーン第2旧居跡、漱石第6の下宿旧跡を徒歩にて踏査。
2月3日阿蘇山西駅迄バス、火山西駅ヘロープウェーで登頂、「210日」との重なり具合を眼で確認した。雨風悪天候のため踏査難航。ために帰路便3時間早め東京駅着16時過。本研究課題遂行上、有益な調査であった。
研究発表会
平成20年11月29日東洋大学白山校舎6302教室
尊厳死の尊厳について
大鹿 勝之 客員研究員
今回の発表では、「現代老年期の意識像」というテーマに関連して、どのような死を迎えるかということに焦点を定め、尊厳死の尊厳について、何をもって尊厳死とするのかを少しばかり検討した。
患者の権利に関する世界医師会リスボン宣言(1981年採択)には、「患者は、人間的な終末期ケアを受ける権利を有し、またできる限り尊厳を保ち、かつ安楽に死を迎えるためのあらゆる可能な助力を与えられる権利を有する」と述べられているが、ここでいう「尊厳を保ち」(dignified)の尊厳には様々な価値観が反映されるものと捉えられる。尊厳の捉え方によっては、尊厳死(death with dignity))は延命措置の停止として理解されるのみならず、致死薬の投与により生命短縮を図ることも尊厳をもって死ぬことと捉えられる。オレゴン州で成立したオレゴン尊厳死法The Oregon Death with Dignity Actの下では、主治医が患者に致死薬の処方を行うことが一定の要件のもとに認められている。
発表では、延命措置の停止に関する事件を取り上げてみた。カレン事件は遷延性植物状態と診断されたカレン・アン・クインランの呼吸器取り外しを求める訴訟を起こした事件であるが、ニュージャージー州最高裁判所は、父親を法律上の後見人とし、入院している病院の倫理委員会もしくはそれに相当する機関での同意額に基づき生命維持装置を撤去則しても民事上および刑事上の客責任を問わない、という判決を下した。ここで問題となるのは、子供の意思を父親が代行し得ることが認められたという点である。ナンシー・クルーザン事件は、ナンシー・クルーザンの両親が栄養補給チューブの取り外しを求めた事件で、ミズーリ州最高裁判所の判決も、連邦裁判所の判決も、本人の意思が明確でないことを理由に訴えを取り下げた。その後彼女の元同僚が、ナンシーが植物状態になったら生きていたくないと話をしていた事実を証言したため、ミズーリ州ジャスパー郡の検認裁判所は、チューブの取り外しを認める決定をした。テリ・シャイボ事件は、経管栄養チューブで生命が維持されていたテリ・シャイボ(テレサ・マリー・シャイボ)に対し夫は「妻は延命を望んでいない」として治療停止を望んだが、患者の両親は、回復の見込みがあり、事前に治療停止を望んでいたとはいえないとして、存命を求めた。フロリダ州裁判所は夫を法的な後見人と認め治療停止を認めたが、両親の要請に動かされた行政が介入し更に裁判が続いた。最終的には夫の主張が認められ、経管栄養チューブ撤去後二週間で患者は死亡した。
これらの事件を検討する上で、頭に入れておくことは、いわゆる植物状態となった者に尊厳があるのか、ということである。理性的存在、判断能力、自律性、他者の世話にならない独立性をもって尊厳があるとした場合、それらが失われたときにあ(るいは失われたと判断された場合に、すなわち遷延性植物状態とされた者を見て判断するとき)、尊厳をもって死ぬことは延命措置の停止、あるいは死を要求することにもつながってくるといえる。しかしながら、人体の活動に尊厳を置く場合はどうだろうか。
人体といいつつも人体は、例えば山田太郎などの体となっている。山田太郎は名だが、「山田太郎」と呼ばれれば「ハイ」と返事をし、山田太郎が学校に行き、主張し、意思表示する。名誉のために体を酷使する。総死など、体が殺される場合もある。その山田太郎が名乗ることも呼ばれて返事をすることもなくなり、体が延命措置を受けながらも活動を続けている時、延命措置の停止は、体を殺すことにならないか。尊厳ということが取り沙汰されるならば、後は、装置の助けを借りながらもはたらきつづけているという、体のはたらきに任せるというとらえ方に尊厳があるとして、人体の尊厳が主張されてもいい。
もう1つ問題とすることは、経済的負担や家族への負担に対する配慮から、延命措置停止の意思表示をしておくことは、これを尊厳と呼ばずして、「経済死」「配慮死」あるいは、生き続けていたいけれども仕方なく死を選択するということで「残念死」ともいえないだろうか、ということである。尊厳死の尊厳は多様に捉えられるものだが、尊厳を一律的に定めることはその多様性を排除することになる。
研究発表会
平成20年11月29日東洋大学白山校舎6302教室
墓場からの叫び
―大尿訟章にみる六朝道教の死生観
菊地 章太 研究員
道教において古くから行なわれてきたと考えられる儀礼のひとつに上章がある。上章とは神々へ請願書を奏上して救済を求める方法である。六朝時代に儀礼の場で使用された上章文のいくつかが今日に伝えられている。請願の内容は、人の誕生から死まで、さらには死後の霊魂のゆくえまでと多岐にわたっている。昔の中国の人々が生きていくうえでどのような不安をかかえ、どのような願いをいだいてきたのかを具体的に知るうえで、精神史や生活史の資料として貴重である。
そのなかに「大家訟章」と名づけられた上章文がある。家訟とは墓を通じてもたらされる死者の訴えを意味する。先祖の霊魂が墓の下にひろがる冥界で苦しみを受けているために、それがさまざまな災厄となって子孫の身にあらわれると考えられた。そのような災厄を除去するには子孫に転嫁された苦しみのもとを解消しなければならない。そのための具体的な方法として家訟章が奏上されたのである。
先祖代々の墓にたまりにたまった罪咎は尽きることがない。墓場からの訴えが次から次へとわが身にふりかかってくる。先祖をさいなむ苦しみのもとはさまざまにあろうから、それをことごとく把握することなどできはしない。特定しきれぬほど多くの罪障がより集まり、重なりあって災厄にふくれあがっている。だから請願にあたっては、思いつくかぎり先祖の訴えを列挙して遺漏をふせぎ万全を期する。
先祖の苦痛は一族の者たちにかぎりなくおよんでいく。そういった意識がここには前提されている。不安や不満をかかえたまま死んでいった人の思いが、あとにのこされた者の心にしこっている。死者の霊の抑えがたい力と、その霊力に対する恐れとを、漠然とではあるが災厄発生の根源と人々はとらえている。そこで道士にすがって死霊の苦痛をやわらげてもらい、罪の大もとを「分解」してもらう(「大冢訟章」ではこの言葉が使われる)。
こうした救済儀礼はかたちを変えつつ、今もさかんに行なわれている。道士はまず救苦天尊に祈願し、冥界の責任者に向けて、死者の罪過をゆるす文書を発給してもらう。これを放赦という。あの世の役人にもいっせいに儀式の場に降臨していただく。つづいて死者を救いだすべく地獄の城を打ちやぶりにかかる。これを打城という。紙と竹でできた地獄の城を遺族がゆりうごかす。道士はそのなかから死者をかたどった人形を取りだし、日に朱を点じて霊を注ぎこむ。そのうえで天尊に帰依させて先祖の罪を解消させるのである。
このような道教のまつりの基盤にあるのは、古くから受けつがれてきた儒教の祖霊観であろう。
先祖の魂をまつるのは一族の者に限られる。時を定めておまつりすることによって、霊魂はしずまり一族のつながりがたもたれていく。それが大原則である。まつってくれる人がいなければ、しずまる所を得ない霊魂はさまようしかない。悪しき霊となって世のなかに災いをもたらす。まつり手のいないそれは孤魂と呼ばれる。孤魂の救済もまた道教にとって大切な行事である。儒教が関与しない中国社会の周縁での道教の役割は、けっして小さくない。今回の報告では、上章儀礼の背景にある道教信仰の諸相をたどったのち、「大冢訟章」からの抜粋を読みながら六朝時代の死生観のありようについて探った。そのうえで日本人の先祖祭祀とのかかわりを考えるための手がかりを見つけていくことをめざした。
研究発表会
平成20年12月6日東洋大学白山校舎6311教室
先祖祭祀からメモリアリズムヘ
ー価値意識の転換―「樹木葬」「手元供養」を中心に―
井上 治代 研究員
戦後、イエ意識を基盤にした日本人の先祖祭祀は維持されたが、核家族化、少子高齢化、個人化を背景に、1990年代より大きな変化をみせている。本研究では集団から個人への価値意識の転換、先祖祭祀からメモリアリズムヘの転換を、樹木を墓標とした「樹木葬」墓地や、遺骨を身近に置いて供養する「手元供養」から考察した。
樹木葬は、戦後の工業化社会がもたらした環境問題に対応して登場し、「自然志向」をその特徴に持っている。さらに自然に還るため墓の継承者を必要としない点で支持されている(樹木葬墓地申込者の意識調査、2002年、筆者)。このような墓の形態は、夫婦一代限りで終わる核家族に適合して登場してきたものである。
一方、遺骨を家庭において供養する形態が登場した。骨壷をそのまま安置するもの、プレートやペンダント、ダイヤモンドに加工する選択肢もあって、それは「手元供養」と呼ばれている。購入者に選択理由(上位3つ以内)を問うと、「故人の一部である遺骨は、仏壇や位牌より身近に感じられる」59%、「そばに置いてあげたかった」55%、「持ち歩くことができて、いつも一緒にいる感じがいい」29%、「祭祀の継承者でない者、次男三男、娘でも祭祀ができる」12%などの順となった。手元供養は核家族に親和的な祭祀形態で、伴侶性、個別性、分配性、携帯性、継承性といった特徴をもっている(家庭内死者祭祀の変化に関する意識調査、2006年、筆者)。回答者のうち寺の檀家が6割、仏壇所有者が8割にもなる。自由記述では伝統的な仏壇神(棚)や墓を持ちながら、それだけでは満足できない現代人の意識が浮き彫りになった。「仏壇は先祖、手元供養は親」というように、「家」という集団の先祖のほかに、近親死者という個人を祀る意識の高まりが確認された。「神棚に手を合わせるのは、今の自分や家族が無事にいられることの先祖代々への感謝の気持ちの表し方であり、手元供養は自分を生み育ててくれた母故人へのいつまでも一緒にいたいとの気持ちの表れです」「仏壇は宗教心の対象。手元供養は自分に近しい人物を偲ぶ」というように、R・スミスのいうメモリアリズムが家庭内の遺骨による死者祭祀という形態で表出していることがわかる。