2000年度 公開講演会 発表報告
開催日:2000年11月11日
2000年度 公開講演会 発表報告
開催日:2000年11月11日
東アジアとマンダラ美術
講演者:真鍋 俊照 教授(宝仙学園短期大学 ・学長)
マンダラという語は、密教の礼拝対象となる絵画が原点である。インドの古典サンスクリットで、曼荼羅(空海は『三十帖策子』でこの漢訳を使う)、曼陀羅などとかく。仏典の旧訳では密教寺院金堂でみるような「壇」、新訳では「輪円具足」、「聚集」と訳している。空海が大同元年(806)に日本に請来した両界曼荼羅(現図マンダラという)は、縦横約4メートル余りの大幅の絵画である。これを堂内の内陣の東西(左右)の壁に向かい合って対面にかける。この礼拝対象のかざり方は、手法において、それまでの奈良時代にはまったく無かった配置である。つまりこうした本尊のたぐいは、普通は礼拝者の正面向きに配置されることが多かったのである。おそらく奈良時代のかざりかたになれた当時の人々は、この配置を不思議に思ったに違いない。東に胎蔵界マンダラ、西に金剛界マンダラを安置するこのようなやりかたは、正式な法会においても空海いらい今日なお変わらない。ところで胎蔵界マングラの図絵の根拠は、7世紀初期に中インドで成立したと推定される『大日経』を所依とする。その『大日経』の第2具縁品に、大マンダラ、また第8品に種子マンダラ、第11品に三味耶マンダラが説かれている。が、これらの経説にもとづいて図解・図像化された原形を大悲胎蔵生秘密マンダラといい、2巻に構成されたものが円珍請来本として知られている。(原本は無く、今日では写本が奈良国立博物館に保存されている)。もう一方の金剛界マンダラは、7世紀中頃に南インドで成立したと考えられている『金剛頂経』を所依とするが、このうち初会の部分が『真実摂経』をよりどころとして図絵せしめたものである。同系異本として知られる国宝・『五部心観』1巻は、やはり円珍の請来本で、金剛界マンダラが漢訳から図絵化する過程の重要な遺品とされている。両部大経と両界曼荼羅の関係については、数多くの研究がなされているが、1部の金剛頂経のサンスクリット写本との関係についてはわずかな部分しか知られていない。また『大日経』については梵字経断簡との比較など、両界曼茶羅の成立の問題は、今後の研究にまたなければならない。しかし、このようにインドで別々に発展してきた、2種のマンダラを1組にしたのは、中国・長安の恵果(「えか」とも読む、746―805)である。今回の講演では、この一対の仏画に組み合わされたことが、アジア的意味のもっとも重要なテーマと考えた。その構図の源を古くは涅槃図の仏陀の枕辺に寄りそう観音、弥勒、普賢、文殊、地蔵などの主要尊と比較し、実は胎蔵界マンダラの中心部分に組み込まれている四仏に合致することを証明した。また空海は、このマンダラを帰国の際、新たに中国の宮廷画家李真に描かせて、わが国にもち帰ったわけである。その時に使われた彩色の赤・青・黄・日・黒の5色がアジア地域に、またチベットのタンカ(画軸)の泥絵具の作例(壁画におよぶ)との比較などにおいて、技術的にというよりむしろ精神的なアジア的な連関の意識下において「マンダラ表現における尊像描写の連続性」という視点をとおして、成り立っていることを、スライド・ビデオ資料をもとに証明した次第である。