平成13年6月23日
平成13年6月23日
チベットに旅立つ男とネパールに残される女
―阿尼哥の結婚から『ムナ・マダン』まで―
吉崎 一美 研究員
ネパールの歴史を概観すると、この国からチベットに旅立った者には大別して3つのタイプがある。すなわち①チベット仏教の学と行を志した僧侶、②チベット仏教の僧院などから仏像や仏具の注文を受けた職人や技術者、ならびに③チベットとの通商に従事した交易商人たちである。彼らはみなネワール人であり、しかも例外なく男性であった。また彼らは都市部を基盤にした技術力のある職人やビジネスに経験豊かな者たちでもあった。さらに彼らの多くは仏教徒であり、チベット仏教とネワール(ネパール)仏教の交流は彼らによって活発に推進されたのであった。
元王朝の官廷に仕えたネワール人工芸家阿尼哥の墓誌銘は、有力な歴史資料に乏しいネパール中世では第1級の価値を持つ。彼の記録はチベットに旅立ったネワール人仏教徒のものとしてまことに貴重である。とりわけ、ネパールに残された彼の妻の苦難のエピソードは、その後のネワールの伝統的な歌謡のテーマの中に吸収されて歌い継がれた。それらの歌謡には、旅立つ者と見送る者の心情が赤裸々に読み取れる。歌謡のテーマは、現代ネパール小説の名作『ムナ・マダン』に結実した。しかしこの作品はネワール語ではなくてネパール語で執筆され、しかも歌謡の中に登場したネワール文化への言及も意図的に排除されている。そしてその主人公は仏教徒からヒンドウー教徒に改変された。こうして「チベットに旅立つ男とネパールに残される女」の物語は、ネパール語を国語とするヒンドゥー教国家のネパールで、国民的な支持を受けたのであった。
現代ネパール画壇の重鎮であったチャンドラ・マン・シン・マスケの「嫁入り(ラサ・クサ」)の絵には、結婚式に参列するチベット人の姿が描かれている。それはその家が、チベットとの交易によって裕福であることを暗示している。ところがマスケの絵は、仏教徒の家の結婚式ではなくて、ヒンドゥー教徒の家の結婚式を描いている。それは儀礼の導師となるバラモン僧の姿からだけでなく、戸口に描かれたヒンドゥー教の神々の画像や、そこに見られる1対の眼の形からも知られる。このようにしてマスケの絵は、チベットとの交易がもっぱらネワールの仏教徒によって行われていたという歴史的な事実よりも、『ムナ・マダン』が映す時代の趨勢を描いているのである。
敦煌本《地蔵菩薩経》について
川崎 ミチコ 研究所員
本報告では、先づ、敦煌文献とは何かということを説明した。次いで敦煌本地蔵書薩経についての概略及び中国へ伝来した「地蔵菩薩」が何時の頃から1つの神格として中国人に認識されたのかということを、地蔵菩薩の登場する翻訳経典を、登場する地蔵菩薩がどのように位置付けられているかということにより分類し、該当経典を翻訳年代順に並べるという方法で示した。
敦煌文献について
1900年5月、敦煌莫高窟に住いしていた王円籙道士により、石窟(後に第16号窟耳洞の第17号窟と呼称される)内から偶然に古文書類が発見された。これらの古文書類は、幾人かの知識ある中国人にはその貴重性。重要性が認識され、保護保管が願われてはいたが、当時の、清末民国初めの世情は如何んとも為し難き社会情勢であった。結局、1907年の英国のスタイン(A.Stein)―スタインは1914年にも王道士より多量の経巻を入手している―、1908年の仏国のペリオ(P.Pelliot)、1912年の我国大谷探検隊の吉川小一郎・橘瑞超等が、王道士よりそれら発見された古文書類を購入し(余りにも廉価であったため中国側からは″劫んだ″と言われてしまっている)、自国へ持ち帰えることとなり、1909年8月半ばに、ペリオが自身で購入した経典類の中の1部の経典等を北京に持参し、当時の錚錚たる中国人学者達――羅振玉・蒋伯斧・董康・王仁俊等々に見せたことにより、初めて敦煌に対して学術的関心が向けられることになったのである。このペリオが閲覧した敦煌発見古文書を、日本人の文求堂書店主人田中慶太郎も見ていた。そして、日本の敦煌研究の出発にこの田中慶太郎や羅振玉の貢献があったことはいうまでもない。
現在、敦煌から発見された古文書類は、英国大英図書館、仏国国家図書館(文書以外の美術関係資料はギメ美術館)、中国国家図書館(1998年12月北京図書館を改称)、露国エルミタージュ美術館東洋学研究室等にその大部分が所蔵されている。勿論上述以外にも、中国敦煌研究院、西北師範大学、上海図書館、天津図書館、国立京都博物館、国立東京博物館、大谷大学、龍谷大学、藤井有鄰館、書道博物館等々、所蔵数量の多少にかかわらず、又更に未公開のものも含めれば数えきれないほどの所蔵先が存在する。近年はそれら写本の真偽の問題についても喧しい議論が始まっている。目視・触紙だけではなく科学的検証が行なわれつつあること故、皆の研究に利有る結果を期待したいものである。
敦煌本地蔵菩薩経について
さて、敦煌莫高窟千仏洞第17号窟より発見された古文書類を敦煌本と言ったり、敦煌文献、敦煌遺書等と言うのであるが、此処ではその中にある「地蔵書薩経」について、少しく説明することにする。この経典は敦煌の地に於いて撰述された偽経である。というよりは、『大方広十輪経』『大乗大集地蔵十輪経』(これは同本異訳本である。前者は北涼397ー439時代に翻訳され、後者は唐永徽2年651に玄奘により翻訳された)の中のある部分が極めて濃縮されたダイジェスト本と言えるものであり、この経典の全文は僅かに200余字という極端に短かいものである。現在可見の写本(写真版)は、スタイン本・ペリオ本・北京本(俄本及び上海図書館本は未見)等合わせて20余点である。この経典中に、「若有人造地蔵菩薩像、写地蔵菩薩経、及念地蔵菩薩名者、此人定得往生西方極楽世界。此人捨命之日、地蔵菩薩親向来迎、常得与地蔵菩薩共同一處」。(金62)とあるが、これは、『大方広十輪経』巻第1序品第1の「若有衆生……、有稱地蔵菩薩名者、悉能令……、置涅槃道皆得快楽(又は安住涅槃道得第一楽)」や『大乗大集地蔵十輪経』巻第1序品第1にある「若諸有情……、至心称名念誦帰敬供養地蔵菩薩摩訂薩者、一切皆得……、随其所応安置生天涅槃之道」という表記をより判り易く、短文化して、知識階級ではない人々にも理解し易く記憶し易いものとしたものであるといえる。又、この敦煌本地蔵菩薩経を形態の面からみてみると、他の捨命後の冥界についての記述のある経典との接写として存在する巻子本形式のものばかりではなく、冊子本も存在する。これは、携帯経典として常に身につけていたということも推測でき、人間は(生きている者は全て)必ず″捨命の日″を迎えるということからして、地蔵菩薩が敦煌在住の庶民の生活の中に於いてかなり大きな位置を占めていたのではないかと考えることができる。当時の敦煌に於ける死生観、地蔵菩薩の神格化について考察する上での重要な資料であるといえる。
近世俳諧師と宗教―不夜庵太衹伝をめざして―
谷地 快一 研究所員
この発表の目的はふたつ。ひとつは、不夜庵太衹の作品と彼に関するわたくしの研究の経緯を紹介すること。ひとつは、その物証と仏教的知識の乏しさゆえに放置してきた問題、A発心の理由とその出家遁世の手続きB太衹墓所に残る過去帳・盆供霊墓帳・卒塔婆の読み方について、私見に対する批判と指導を仰ぎ、近世俳諸師と宗教との関わりを考える指針を得ることである。
不夜庵太衹は18世紀中頃の俳諸師。いわゆる蕉風復興運動の高揚期(『俳文学大辞典』田中道雄解説)に俳諧の事蹟をとどめる。だが従来の太衹像は、晩年に蕪村と会合するまでは俳諧への意欲もさしてなく、作品の精彩はこの蕪村との遭遇によってもたらされたといい、中興俳諧の最盛期に先立って没したことが原因で後世の評価が必ずしも高くないことをことを同情的に説くものが多い。
この太衹像をいかに修正したかを述べるために、まず検討の共通基盤として、谷地編による太衹秀句を懐旧・境涯・相聞・旅情・生活・四季の6項目に分類して紹介。ついで、この作家の史的把握のためにわたくしが付け加え得た研究の経緯と結果を紹介した。
すなわち、太祇は宗祇・芭蕉・衹空という漂泊の詩人の系譜に入る。太衹の発心と行脚は芭蕉追慕と俳詣修業を目的としたもので、穎原退蔵以後に説かれる肉親を失った悲しみによるものではなく、太衹の墓所である光林寺の盆供霊墓帳・卒塔婆の記事を出家遁世の資料とはできない。また唐突に見える晩年の島原移住は島原遊郭と吉原遊郭との歴史的つながりから解明できることであり、少ないながら太衹の出身地を江戸の吉原出身と推定できる資料もある。そして、市隠のごとく島原遊郭に庵住して以後の詩人としての達成は、蕉風復興気運のこの時代に芭蕉追慕を目的とした行脚・漂泊で養われた結果であること、その名が歴史上にとどめられたのは、作風の大いに異なる太衹を認知しうる見識を持っていた蕪村とその一門の力であること等である。
末尾ながら、発表後の質疑で賛意と激励をいただいた大久保廣行先生、過去帳・盆供霊墓帳の解釈で有益な示唆をいただいた川崎信定先生ほか気鋭の方々に感謝申し上げる。