平成24年12月22日 東洋大学白山校舎6406教室
平成24年12月22日 東洋大学白山校舎6406教室
明末天主教と「本体」論
播本 崇史 院生研究員
(発表要旨)明末清初期天主教における最大の特徴は、その教説のために漢語を駆使し、儒教経文を独自に解釈した点にある。宣教師らは、漢語概念を天主教説と矛盾しない限りにおいて活用したが、問題のある場合にはその教説に適うよう、新たに解釈し直した。それは天主教独自の解釈ではあったが、しかし、従来の漢語理解からかけ離れていたわけでもなかった。利瑪竇や艾儒略といった宣教師らは、天主教に関心を寄せた士人たちから「西儒」ないし「西来孔子」などと称されることもあったほどである。
ただし、無論、これに対する批判が無かったわけではない。明末天主教に対する排耶論は、『聖朝破邪集』や『闢邪集』において見ることができるが、両書における排耶論の一大特徴は、儒仏一致の立場から批判論が展開されていることである。『聖朝破邪集』は『闢邪集』に先立ち、明末期の排耶書を広く集めた叢書であり、排耶論叢書の嚆矢とも言える。この書の編纂を企図した人物が黄貞である。
黄貞が天主教を排斥せんとした動機には5つの理由があるが、その根幹には天主教が王陽明の良知説や「万物一体」を認めず、人々の考え方を変革して「中華」の学脈を乱そうとしているという危惧があった。そこで本発表では、『伝習録』や『大学問』に基づき万物一体論を確認した上で、天主教における特異さの一端を明らかにすると同時に、その「本体」理解の特徴について、若干の考察を試みた。
『伝習録』などから窺われる「一体」は、主客を結ぶ「心」のありようを示している。すなわち、知覚作用において、主体と客体とを結び付けるその感応の確かなはたらきとして理解することができる。『大学問』では、大人の学として、「心」の「本体」たる「良知」が説かれるが、この「本体」とは、形体による自他の区別によって見出されるものなどではなく、他者に対しても我が事のように思いやれる「心」のありようを意味する。
一方、天主教書における「本体」は、人や鳥獣草木などの本性、すなわち魂という実体を説明するために用いられる。天主教説における「本体」とは、魂の種類に応じ、個々に成り立つそのもの独自の特性を示し得る概念である。したがってその「本体」は、人とそれぞれの物とを区別しさらには差別化するための原理ともなり、万物一体論とは大いに異なる解釈がなされることとなる。
天主教の「本体」観では、自他の関係性そのものが想定されていないにも関わらず、宣教師はこれを霊魂論に組み込み、本性論として説く。これに対し『聖朝破邪集』では、対他関係の中で自己を成り立たせながらも、自らの作為を超越してはたらく「良知良能」をこそ本性と見なし、さらに血気の属に共通して見られるはたらきとして認めている。批判者は、かかる「良知良能」のはたらきを、いわば生命存在を内から成り立たせるはたらきとして理解していたのではないだろうか。天主教批判に見られる危惧は、天主教がかかる生命観を蔑ろにし、その価値を損なわせる教説を訓じていたからであると言うことができるのではないだろうか。
朱熹のおのづからの哲学
辻井 義輝 院生研究員
〔発表要旨〕朱熹は、あらゆる現象を組成している、陰・陽の互いが互いを惹き寄せあう働きを、自動スイッチの要領で一定のリズムを伴ってあらしめて、結果として、万象を規則的に成り立たせているものを、「理」と考えていた。さらに、朱熹はそのような理を、ひるがえって実践主体の側から、われわれが現場でゼロからあれこれ模索して見出すようなものではなく、現場が成立する以前にすでに存在しているものであり、我々は、実践倫理にあって、あれこれ現場で模索することなく、それぞれの現場に対する理が心にあって自動的に自己展開するのに従えばよいと考えていた。例えば、ある現場にあっては、父子関係であったり、君臣関係であったり、兄弟関係といったものが、その場にいくつも複層的に存在しているわけだが、その中から、その現場にあってまさしく最重要な理が自動的にスイスイ見出されると考えていたのである。
ところで、朱熹は、陳淳が理というものは訓詁上四側面から捉えるべきとした主張に対して、絶賛を表している。そのうち①「能然の側面」とは、ある現場にあって、それに応じた働きをあらしめる面のことを言い、②「必然の側面」とは、そのような働きは、必ずそのように働くのであって、防ぐことができない面を言い、③「当然の側面」とは、「そのように働かなければならず、そのように働かなければ、天理に背反し、人の類ではない」面を言い、④「自然(おのづから)の側面」とは、そのような働きは、少しの人為も働かず本来固有している働きがそのまま展開して働いているのに他ならない面を言っている。このうち、必然、当然の側面については、「朱子学的な理」として従来からずっと指摘されてきたものである。それに対して、能然、自然の側面は、一般にはあまり注目されてこなかった側面で、本発表において追ってきた理の自動的自己展開とは、これらにあたるといえる。それに対し、必然、当然は、この能然、自然の特質を説明しているものとして位置づけることができる。当然、必然とは、理がこのように自動的に立ち現われてくるのが、必ずそのように立ち現われるので必然なのであり、また、我々がこれに従うのが当然であるために当然なのである。
また朱熹は、このような理に基づいて、さまざまな働きが、いわばシステムづけられて展開するものと考えていたようである。さらに、朱熹はこのような理を、各現場の個別的必要性に対応して、かつてそうであったように、同じ形態の現場が発生するならば、現在も、未来も、そのようにあるべきものとして類型化して捉えていた。このように考えると、朱熹のいう「理」とは、今でいう、あらゆる現象・行為を成り立たせている「パタ―ン」のことを言っていたと言える。