日本における死への準備教育―死の実存的把握をめざして―
日本における死への準備教育―死の実存的把握をめざして―
本研究は、日本私立学校振興・共済事業団の学術研究振興資金に係る研究であり、日本における死への準備教育の1つの実践形態を、様々な死生観に鑑み、文学・宗教・哲学・社会学の側面から呈示することを目的とする。研究スタッフ・役割分担は次のとおりである。
研究分担者 役割分担
高城 功夫 研究員 研究代表 中世仏教文学における死生観
大久保 廣行 研究員 万葉人の心性と死
菊地 義裕 研究員 万葉挽歌と古代の喪葬習俗における死生観
原田 香織 研究員 能楽にみる死生観
谷地 快一 研究員 近世俳諧師における死生観
山崎 甲一 研究員 近代作家の死生観
竹内 清己 研究員 現代作家の死生観
川崎 信定 研究員 仏教にみる死生観
渡辺 章悟 研究員 冥界信仰における死生観
中里 巧 研究員 ターミナルケア・ホスピス
相楽 勉 研究員 死への存在としての人間存在―死とどう向き合うか―
榎本 榮一 客員研究員 摂関期の古記録にみられる葬送・追善供養
大鹿 勝之 客員研究員 生命倫理と死の問題
大谷 栄一 客員研究員 宗教教団の死への関わり
本年度の研究調査活動は、以下のような研究計画にしたがって行われた。
・死を主題とする公開講座の開催
平成16年度のテーマ「死をめぐる言説」
・公開講座の準備段階としての資料研究・調査
講座担当者による未検討の資料研究および国内各地への調査
・死生学(サナトロジー)の研究
①資料研究②死生学の概念に関するデータベースの構築
・死への準備教育における相互交流
国内各地の研究機関や団体における、死への準備教育の取り組みの調査と研究交流
・死生学の研究者を講演者に招いての公開講演会の開催
以下に、研究調査活動を行った研究分担者別のテーマ・期間・調査地と、公開講座、公開講演会の概要を記す。
研究調査活動
分担課題「能楽にみる死生観」に基づく研究調査
能と浄土思想・死生観との関連性についての遺跡調査
原田 香織 研究員
期間 平成16年7月17日〜7月20日
調査地 奈良 長谷寺、大野寺、室生寺、室生龍穴神社
吉野 (銅鳥居・金峯山寺蔵王堂・吉水神社)当麻寺寺院伽藍 春日大社 当尾
「日本における死への準備教育―死の実存的把握をめざして―」の分担課題「能楽にみる死生観」を考察する際、能楽発祥の地大和猿楽四座の環境・文化圏を調査することで中世の室町時代に連綿と続く「浄土思想」「死生観」が明確に具体化する予見のもとに寺院・神社・修験道関係遺跡と貴族文化と関わりを持つ神社仏閣を踏査した。第1日めは平安朝以来の信仰圏でもある観音霊験の長谷寺。自然の景観岩崖に仏を刻した大野寺、女人高野山として信仰を集めた室生寺を調査し宗教的雰囲気と能楽の世界との繋がりを見た。第2日めは山岳修験道。中世武家社会と関わりの深い吉野山を調査。金峯山寺蔵王堂では山伏の平和祈祷のための護摩(NHKでは翌日特別番組世界遺産の中継で放映)を焚き大合唱となった。修行者たちの姿を間近に見、吉野という空間の特殊性を感じ有意義であった。『太平記』や『義経記』とかかわる場所や寺院を巡り中世の死生観を辿った。第3日めは当麻寺寺院調査で当麻寺と中将姫関係の石光寺を踏査したが、寺自体に広大な伽藍を持ち中世では特に重要な意味を持った当麻寺は、能楽の中での信仰形態の通り曼荼羅に意義を持つ。第4日めは能楽とは関わりの深い春日大社若官神社および岩舟寺などのある当尾を調査し、大変多くの小さな石仏を見、当時の信仰の厚み、仏の世界への憧憬が実感できた。
分担課題「万葉挽歌と古代の喪葬習俗における死生観」に基づく研究調査
古代出雲地域における他界伝承に関する実地調査
菊地 義裕 研究員
期間 平成16年8月4日〜8月7日
調査地 島根県出雲地域
8月4日〜7日の日程で、「古代出雲地域における他界伝承に関する実地調査」を目的に島根県の出雲地域を巡った。4日夕刻松江市に到着し、翌5日から実地踏査を行った。5日には、まず『古事記』の黄泉国訪問神話で「黄泉比良坂」の所在地と伝えられる「伊賦夜坂」にかかわって、遺称地とされる東出雲町揖屋の揖屋神社を訪ねた。また、そこから少し離れたところに位置する「黄泉比良坂」伝承地を訪ね、付近の地理的状況や古来の伝承について調査した。また、松江市の風土記の丘資料館およびその周辺に位置する出雲国庁跡や神魂神社・八重垣神社等を巡ったのち、意宇川を上流にたどって熊野大社を訪ね、意宇川流域に発達した古代の東出雲地域の中での「伊賦夜坂」の位置について確認した。また、八俣大蛇神話でスサノヲが降臨したと伝えられる斐伊川上流域の横田町を訪ね、古代出雲の理解に欠かすことのできない鉄文化にかかわって、たたらと刀剣館などの施設を見学した。6日には、鉄山業で信仰の対象とされる金屋子神にかかわって、広瀬町の金屋子神社および金屋子神話民俗館を訪ねて周辺地域の地理と伝承について調査した。また、斐伊川を下ってその流域に位置する賀茂岩倉遺跡、荒神谷遺跡を見学、出雲大社、日御碕神社を訪ねた。また、『出雲国風土記』の出雲郡宇賀郷の条に「黄泉の坂」「黄泉の穴」として伝わる、平田市猪目浦の猪目洞窟を訪ね、周辺地域について調査した。『出雲国風土記』の宇賀郷の記事は、黄泉にかかわる伝承として従来広く注目されているが、実際には足を運びにくい地域であり、今回出雲大社、日御碕神社など周辺諸社に合わせて実地に訪ねることができたことは、古代出雲の地理的状況を理解するうえでも有益だった。7日には、出雲の古社のひとつである佐太神社および『出雲風土記』の嶋根郡の条に佐太大神の誕生地として伝えられる加賀の潜戸を訪ね、一連の日程を終了した。今回の調査では、『古事記』や「出雲国風土記」が伝える「黄泉」の伝承に注目して、その遺跡地を実地に確認するとともに、それらの地を古代の出雲の風土に据えて理解することを目的としていた。関係する故地を広範囲に踏査する中で、文献からは得られない地理的実感を得ることができたのが大きな収穫であった。今回得た知見をもとに、さらに古代における死の言説についての検討を深めていきたい。
分担課題「近代作家の死生観」に基づく研究調査
夏目漱石・川端康成・梶井基次郎の足跡調査
山崎 甲一 研究員
期間 平成16年9月6日〜9月9日
調査地 修善寺町(伊豆)
○主に漱石の修善寺の大患に伴う実地踏査をした。
菊屋旅館跡地を中心に徒歩で実地をひとつひとつ確かめた。主だった場所を以下に記す。
菊屋、渡月橋、日枝神社、とっこの湯、ハリストス正教会、桂橋、源範頼の墓、源頼家の墓、指月殿、郷土記念館、夏目漱石碑夏目漱石記念館(虹の郷)、湯川橋、踊子街道。
○漱石大患時の具体的環境と川端の伊豆踊子発端の景観も分り有意義であった。
分担課題「近代作家の死生観」に基づく研究調査
森鴎外の小倉左遷時代の足跡調査
山崎 甲一 研究員
期間 平成16年9月13日〜9月15日
調査地 北九州市小倉(福岡県)
○鴎外の旧居を中心に当時の生活圏、縁りの場所を徒歩でひとつひとつ確認した。主だった場所を以下に記す。
鴎外旧屋(鍛冶町)、旧居跡(京町)、常盤橋、小倉城(第12連隊跡)、安国寺、紫川、松本清張記念館、無法松碑。足立山。
○当時の景観とはすっかり様子は変ったが、尚当時の面影を留める縁りの場所、旧居等を直に見聞できたこと、関連して清張との関係も確認が出来、有意義な踏査ができた。
分担課題「中世仏教文学における死生観」に基づく調査
中世文学と浄土思想・死生観との関連性についての遺跡調査
高城 功夫 研究員
期間 平成16年8月6日〜8月8日
調査地 秋田・横手・湯沢・雄勝・横堀
8月6日は秋田市内の佐竹家の遺跡を調査した。特に千秋公園内に残る遺跡、資料館に展示されているものや保管資料などであり、また城の遺跡資料などの調査をした。次に佐竹家の菩提寺である天徳寺を調査をした。佐竹藩主の墓碑や資料の調査をした。8月7日は、横手や湯沢の調査、鈴木家住宅は17世紀建立の民家であり、国の重文である。三輪神社、須賀神社などの調査もした。いずれも重文である。三輪神社は人世紀奈良よりの分祀であり、須賀神社は桃山時代の建立になるものである。湯沢も佐竹藩の重要な地であり、種々の遺跡が残っている。絵灯籠なども珍しいものが復活している。3日目は雄勝町に残る小野小町伝承の地を中心に調査した。小町堂があり、熊野神社さらに小町地蔵の存する向野寺さらには小町のこもった岩倉堂、深草少将との関係で磯前神社、あるいは桐善寺を見学し、長鮮寺跡を探し求め、芍薬園、姥子石も小町との関係があり、桐木田に小町誕生地を見、2つ森の地蔵に小町と深草少将の塚を調査した。小町伝承の種々相を調査することができた。
分担課題「中世仏教文学における死生観」に基づく調査
中世文学と浄土思想・死生観との関連性についての遺跡調査
高城 功夫 研究員
期間 平成16年8月23日〜8月27日
調査地 宮崎・高千穂・延岡・霧島・鹿児島
8月23日は日南海岸を南下し鵜戸神宮の調査をした。神武天皇誕生の地とも伝えられており、伝承廟も存する。また鵜戸神宮は洞窟の中に祀られているが、後世には隠れ念仏衆たちの洞窟も多く存したところであり、その宗教性と死生観との関わりで考えることのできるところである。24日は宮崎神宮に神武天皇とその父母も祭られているので調査し、高千穂の地へと向かった。25日高千穂では天孫降臨という神話の世界と現在の地との確認という調査をした。高千穂神社は垂仁天皇の創建として伝わるが、関東武者とのかかわりなどもあり、鋳造狛犬一対は重文であり、神社を象徴するかのようである。さらに次の日は天岩戸神社を参拝、天照大神を祭る天岩戸は遥拝所より参拝。神話の世界と現実の世界などを調べる。天安河原もその近くであるので調査し、信濃の戸隠神社との関連なども考える。次に国見ヶ丘の伝説の地を訪ねた。26日は霧島神宮とその周辺の遺跡を調査した。えびの高原は韓国岳の燎石による台地で自然の景観とえびの高原の謂れとを実見し、霧島神宮は天孫瓊瓊杵命を祭る社であるので参拝した。杉木立に囲まれた尊厳な社殿を拝し、高千穂河原に霧島神宮の古社のあった所を調査した。次に鹿児島の地へと尋ね、仙巌園に島津家の遺跡を調査。尚古集成館に島津家の資料の調査をした。島津光久や島津斉彬の年代の薩摩の歴史的背景を調査した。
分担課題「中世仏教文学における死生観」に基づく調査
中世文学と浄土思想・死生観との関連性についての遺跡調査
高城 功夫 研究員
期間 平成16年9月2日〜9月4日
調査地 長野・姥捨・松代・小布施
まず長野の善光寺に参詣し、中世善光寺信仰の遺跡を調査。一光三尊の阿弥陀如来と中世の阿弥陀信仰と民衆の信仰や、『とはずがたり』の作者の参詣の背景なども考察する調査をした。また善光寺の西方にある往生寺を見学した。境内本堂の刈萱道心と石童丸親子の地蔵や歌碑の調査をした。次に姨捨は、棄老伝承探訪の調査をした。長楽寺が謡曲「姨捨」の地であるので、長楽寺周辺の調査をした。遺跡としては、西行法師の田毎の月の田園と碑を見、『更級日記』の背景を探り、芭蕉の『更級紀行』の足跡の碑等を調査した。そのあと、現実的な伝承の地「姨捨石」の調査をした。その地のほぼ近くまで辿ることができたが、今ひとつ不明の場所であって特定するに至らなかった。それで次の調査へと期待し、今回は取りやめた。次の日は松代の周辺を調査した。真田邸の調査や真田宝物館を見学した。また松代藩文武学校に松代藩の子弟の武道や教育の遺跡を調査することができた。そのあと小布施に行き、高井鴻山記念館に陽明学や妖怪図を調査し、鴻山に招かれた葛飾北斎の遺品を北斎館に見、岩松院の天丼絵八方睨みの鳳凰図を見学した。
分担課題「中世仏教文学における死生観」に基づく調査
中世文学と浄土思想・死生観との関連性についての遺跡調査
高城 功夫 研究員
期間 平成16年9月10日〜9月13日
調査地 高松・善通寺・白峰・三野津
まず最初高松市内三名町の来光寺を訪問した。この来光寺には、西行の『山家集』の唯一の古注釈『増補山家集抄』の著者、釈固浄の墓が存し、この来光寺第12世住職であったことなどの調査をした。その他資料等も調査した。次の日は善通寺周辺を調査した。善通寺は弘法大師空海の誕生の地であり、真言密教の真髄を知るところである。善通寺の近くに神泉院があって、ここは西行が庵を築いたところであり、西行の久の松の遺跡のある寺である。それらの遺跡の調査をし、また珍しく西行の石像が存するのでそれらも調査した。次は白峰寺周辺の調査をした。崇徳院の御陵に詣で、頓証寺殿にその威徳を偲び西行が「かからん後は」と詠んだ歌碑や西行像を調査し、宝物殿で種々の資料を調査し、文献の集収をした。そのあと、出釈迦寺のあたり、西行の山里庵の調査をし、禅定寺に修行道場を調査するため山の中腹まで登ってみた。ここはかつて空海が修行した場所であり、西行も追体験をしたところであるが、その途中までしか行けなかった。さらに次には、西行が四国の修行をするにあたり何処に到着したのかということを調べるために、空海との関わりで三野の港やその足跡を求めて、その周辺を探索した。
姨捨棄老伝説の背景と当地における葬送儀礼の調査
中里 巧 研究員
期間 平成16年9月21日〜9月22日
調査地 長野県千曲市
21日 周辺における聞き取り調査により、地域一帯で鳥葬儀礼の習慣があった可能性がわかり、長楽寺の姨捨石と冠着山頂上付近の実地調査をおこなう。鳥葬儀礼・風葬・棄老・葬制習俗の間を結ぶ接点は何か、同行の相楽研究員と現地で議論しつつフイールドワークをおこなう。聖湖周辺も、聖域であった可能性があり、葬制儀礼もおこなわれていたであろうと推定し、周辺調査をおこなった。
棄老伝承は、葬制儀礼との関係で伝説化した可能性があると考えてみる。
22日冠着山頂上付近にあるボコダキ岩にまで登坂して、風葬・鳥葬・葬制儀礼が起こりえたロケーションかどうか、調査をおこなう。長谷寺近郊の七尋薬師にまつわる巨岩伝承について、地元で聞き取り調査をおこなう。巨岩信仰という1つの媒介を通して、棄老伝承が、風葬・鳥葬から派生した可能性があることを確信する。日本には棄老は実際にはなかったとする説とあったとする説に、現在なお分裂しているが、風葬・鳥葬・巨岩信仰・墓地・葬制儀礼といったことを総合すると、棄老が決してなかったとは必ずしも言えないのではないか、と思いいたる。
姨捨棄老伝説の背景と当地における葬送儀礼の調査
相楽 勉 研究員
期間 平成16年9月21日〜9月22日
調査地 長野県千曲市
21日 13時すぎに姨捨の里歴史資料館に到着。休館日だったが地元の人から壊捨伝説の背景をなす鳥葬跡に関して幾つかの情報を得た。それに基づき、長楽寺(姨捨石)と姨捨山(冠着山)、さらに聖湖方面を調査。
22日 10時に姨捨の里歴史資料館着。姨捨伝説関係の展示資料を見るとともに、学芸員から当地の姨捨伝説に関する情報を得る。ここで千曲市の寺社に関する資料も入手。その後、鳥葬跡という説のある姨捨山中腹の児抱き岩(ボコダキ岩に)向かう。午後は、もう1つ鳥葬跡があるという情報を得た、長野市長谷地区を調査。長谷寺近くで地元の人から、かつて鳥葬の場所と推定される巨岩と古墳跡(七尋薬師、鶴萩古墳に関する話を聞いた。ここは姨捨地区から6キロメートルほど離れているが、かつて葬場を意味した「ハツセ」にかかわりのある地名であり、姨捨山との関連が、語源説(オハツセ→オバステ)を通して考えられる。今回の調査はここまでである。
分担課題
「ターミナルケア・ホスピス」に基づく調査(死の受容に関するアニミズム・シャーマニズム的比較考察)
中里 巧 研究員
期間 平成16年11月3日〜11月5日
調査地 網走北方民族博物館
3日・4日両日ほぼ全日にわたり網走北方民族博物館でアニミズム・シャーマニズム儀礼を北方諸民族について比較調査した。アニミズム的世界観は、「主」(ぬし)による霊魂の支配であり、人と動物の間に優劣はない。シャーマニズムの特徴は、太鼓によるパフォーマンスであり、熊まつりとともに、北方全域にわたるものである。生と死の境界は、狩猟民族的なものであり、肉体はいわば着衣であり、本体は霊魂であって、そのレベルでは、熊も人もともに霊体として等しい。5日はモヨロ貝塚を調査し、さらに葬送儀礼を、復元遺骨から調査した。屈葬であり、東部がオホーツク文化では、北西に向けられているのが、関心を引いた。
分担課題「近代作家の死生観」に基づく調査
三浦綾子におけるキリスト教と死への準備教育
竹内 清己 研究員
期間 平成16年11月4日〜11月7日
調査地 旭川・三浦綾子記念文学館、札幌・北海道立文学館
2000年10月12日除幕式を迎えてから4年後の三浦綾子記念文学館は、石狩川に注ぐ美瑛川とJR旭川駅の背後を流れる忠別川とに挟まれた神楽町の一郭、美瑛川の河畔にあった。外国樹見本林のなかである。かつて学会で訪れたこの林が、まず今秋の台風に無惨にたおされたありさまに驚いた。これも災害によってもたらされた死の実存的把握というものか。記念館にはいると「三浦綾子著作年譜」が小説、自伝・随筆、伝記・歴史、共著ほか、の4項目で三浦文学のすべてが書籍掲示で展望できる。さらに生誕から終焉までの生の資料、闘病と看護の日々や病をも糧とした円熟期、晩年のパーキンソン病の発病と口述筆記の有様をつぶさに見ることができた。2階には開架の書庫があり綾子と夫光世氏の録音テープ、ビデオがあつた。最初のテレビドラマ化「氷点」を鑑賞中、陽子役の内藤洋子(今日の)その人の1行が光世氏と入室、わずかにお話を伺う機会があった。氷点40周年の「三浦綾子のすべて」展のあととて資料が豊富だった。
『氷点』にみる人間の原罪と神の愛、癒し、それを心に入れつつ、北海道の晩秋・初冬の自然を実地に歩いた。陽子の自殺未遂の場面、雪の中を歩いてストロープの松林を抜けと堤防、「美瑛川の流れが青くうつくしかった。川風がほおを刺した。」と描かれたあたりを逍遙した。さらに市街に出て常磐公園、平和通りから六條教会、綾子生誕の地など訪ねた。
札幌では三浦文学にしばしば登場する道庁、北海道大学、中島公園を踏査し、北海道立文学館に入って書庫で三浦綾子と更科源蔵の文献調査に入った。『生命に刻まれし愛のかたち』との前川正との書簡を読み、死の床の前川が綾子に宛てたメモ「イツモ祈ツテタ 信仰デ、ガンバレ 綾チャンヘ。」に手を休めてしばし感動。綾子没後の光世氏の『遺された言葉』の夫への献本の言葉『愛することと生きること』の、悲しみ苦しみの中から又ささやかな1冊となりました感謝をこめて―わが夫なる光世さま、に見入る。『妻と共に生きる」『夕映えの旅人―生かされてある日々』『死ぬという大切な仕事』があった。
最後に、北海道開拓人の生命の鎮守のあとをとぶらうべく、さらに円山公園の北海道神宮、開拓神社などを訪れた。
分担課題
「摂関期の古記録にみられる葬送・追善供養」に関連して、古代の葬送場所・無常所等の調査
榎本 榮一 客員研究員
期間 平成16年12月10日〜12月12日
調査地 京都市・宇治市
10日、平安時代中期以降、平安京の周辺には大きな葬地が2か処あった。1つは、東山の山麓の鳥部野であり、もう1つは、平安京の北の舟岡山から蓮台野にかけての一帯である。その1つである鳥部野と、俗に六道の辻といわれ、平安京の人々には幽界と顕界の境と考えられていた一帯にある六波羅蜜寺、六道珍皇寺、西福寺等の踏査。
11日、衣笠山の周辺にある摂関期および院政期頃の天皇陵を巡る。竜安寺の背後の山裾から尾根伝いに、後朱雀・後冷泉・後三条天皇陵を始め、一条・堀河天皇陵、円融天皇火葬塚を巡る。さらに宇多天皇陵も巡る。また、千本北大路交差点の東、住宅地の只中に、こんもりと浮ぶ舟岡山に登る。この山周辺が、かつての葬地であったという面影を感じることができない。
12日、宇治の木幡には平安時代より藤原氏一族の墓所が設けられ、その供養のために、藤原道長は浄妙寺を建立した。その浄妙寺三味堂跡が出土した木幡小学校周辺と、藤原氏出身の皇后・中官の陵と思われる宇治陵を、住宅地の中に調査。
分担課題「万葉人の心性と死」に基づく調査および実地踏査
大久保 廣行 研究員
期間 平成16年12月25日〜12月27日
調査地 奈良市および明日香方面
12月25日
滝坂の道(旧柳生街道)を上り、万葉の能登川の音を聞きながら、寝仏・夕日観音・朝日観音・首切地蔵・穴仏などの石仏群をめぐり、古人の祈願の所以を考える。
12月26日
二上山に登り、大津皇子の墓を訪ねる。双耳峰は古来信仰の対象とされる聖山であり、雄岳(515m)・雌岳(474m)を実際に登って確かめる。また、皇子の山が大和に背を向けていること、また大伯皇女の悲歌との関係を考える。また大和と難波方面との境界をなしていることもそれらとかかわって重要であり、麓には古道竹内街道が通じ、それらの地形上の確認ができた。さらに鹿谷寺跡の石塔と石窟を見、下って当麻寺で当麻曼荼羅や奈良時代の仏像を拝観した。
12月27日明日香の古墳をめぐる。中尾山・高松塚(絵画館も)。キトラ・マルコ山・束明神塚など。いずれも多角形古墳で、高貴な者の墓とされるが、現状で我々が確認することは困難である。これらの被葬者に比定される人々(例えば高市皇子・草壁皇子・文武天皇など)はいずれも万葉集との関わりが深く、それらの挽歌との関係を考える上で、重要である。真弓の丘への古墳の集中や壁画の問題も、古代の死を扱う際に見逃すことのできない鍵を秘めている。
阪神・淡路大震災における悲嘆とその克服についての研究調査
大鹿 勝之 客員研究員
期間 平成17年1月15日〜1月16日
調査地 神戸(六甲、大倉山ほか)
1月15日 灘の阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センターに赴き、映像や展示資料、巨大地震についての情報を紹介する阪神・淡路大震災10周年特別企画展などから、震災の凄絶さや復興への足取りを再認識する。
1月16日 午前中、神戸市営地下鉄大倉山駅近辺にある神戸市立中央図書館の1.17文庫にて資料調査。午後、六甲カトリック教会にて、「兵庫・生と死を考える会」の会長である高木慶子・英知大学教授にお会いする。高木会長はカトリックのシスターである。同会は18年ほど前に創設されたとのことで、月例会や「生と死の教育」研究会、講演会、セミナーなどを行っている。当日は亡くなった方々を偲ぶ「メモリアルサービス」の日で、「大震災で亡くなられた方を偲んで」と題し、音楽療法士の方々の演奏を交えながら高木会長の講演が行われた。被災後の心理的な時間、悲嘆、傾聴することの重要性などについての講演を拝聴する。その後、昆陽池公園にて蝋燭を灯し、また灯す方々の姿を見つつ、帰途についた。
遺された被災者には「何故生き残ったのか」という念と、そのような念を踏まえつつ生きていこうとする強い姿勢が見出される。死別の悲嘆の克服において、阪神・淡路大震災から学ぶことはまだまだ多い。
公開講座
平成16年6月12日東洋大学白山校舎1307教室
〈看取り〉のフィアンセあるいは青春の別れ
竹内 清己 研究員
ここ数年、高城功夫教授を世話人・代表者とする「死生観」「墓制・送葬儀礼」、今回は「日本における死への準備教育」というプロジェクトの一端を担当して調査研究を行ってきた。その一端をお話しすることになる。看取りの「場」が青損年の自立と文学の樹立の契機となる事例についてだが。死への準備教育、デス・エデュケイションを近代小説にみることは、そう困難なことではない。今日、文学および文学研究をやっているものの苦しさ、困難は、人間社会の求める有用性、実益性に直接応えることを、明示できないことにある。なぜなら文学のもつ批評性は、とくに近代文学のそれは、既成道徳からの解放、勧善懲悪からの自立、芸術そのものの無目的性において、非社会、反社会性をおびざるをえないからである。ところが社会は、あるいは社会の中に生きる人間は、しばしば既成道徳、勧善懲悪、目的意識において有益を得ようとする。実存哲学者ジャン=ポール・サルトルの「餓えた子供の前で文学は可能か?」の問いは今も生きている。そうしたとき美学、芸術学、技芸、方法に支えられた文学が道徳の更新、新しい有用性の発掘、新しい実利主義、ひいては社会貢献という実益にどこまで応えてきたか、どこまで担いうるか、その財産目録―破産目録を、点検してみることが重要になってきた。
その際、事に臨む、床に臨む、死生の「場」からの点検であることがこのプロジェクトの必要用件であるといえる。
釈迦のいう生・老・病・死の四苦、それに関わる愛・憎、看護・虐待、いつくしみ・にくしみといった人間関係の相反関係の構造は、文学作品にまざまざと描出され検証されている。
ここでは、日本の昭和文学の横光利一の『春は馬車に乗って』『花園の思想』、堀辰雄の『風立ちぬ』を取り上げる。それは新感覚派から新心理主義へという文学史成立の実現の「場」であると共に近・現代における結核の文化史的意味の検証の「場」ともなろう。
そこでは、婚約者・結婚者の死が語られた物語と書く人としての作品制作の物語が同時に語られる。関係者の死を書くことが自己の死を書くことの練習、準備教育ともなる。
課題
・死者が最大の生者の死への教育者であること、癒しはどちらから。
・生者が最大の死者の看護人であること、過酷なものとの立ち会い。
・生誕―赤子と老人―死去というライフ・サイクル、生命循環。
・ライフ・インデキスとして生命指標、墓標、魂の入れ物。
・儀礼は表現行為。詞章・歌枕・枕詞・縁語・唱え・芸能・呪術・芸術・文化。文学。
・文学表現と看とり。看取りの看護人達から読者まで、受容理論。
公開講座
平成16年7月17日東洋大学白山校舎1202教室
万葉挽歌にみる「家」
菊地 義裕 研究員
『万葉集』の挽歌では、死について「死」や「死ぬ」といった直接的な語は忌避され、別の語に置き換えて表現される。万葉挽歌にはそうした例の1つとして、「家離る(いへさかる)」(3例)、「家ゆは出でて」(1例)、「家ゆも出でて」(1例)といった「死」を「家」からの旅立ちととらえた表現が見られる。この表現は旅の歌にも見られ、「家離る」(2例)、「家を離る」(1例)の例が見いだされる。
これらの表現を基にすると、死は旅の認識に通じ、家の外は非日常の世界として「死」を、家は日常の空間として「生」を象徴する存在として認識されていたことがわかる。
実際、上記の挽歌の諸例で「家」に上接する語に注目すると、「家」には「にきびにし」「しきたへの」の語が冠され、生前、死者が寝起きをし、慣れ親しんだ空間として「家」が表現されている。また、それらの歌では、「家」に対峙して墓所がとらえられ、墓所が死者を偲ぶよすがとされている。そこにはまた色濃く無常感が纏綿してもいる。諸例はいずれも奈良朝に至ってのものであり、こうした傾向の背景には、葬儀の仏式化の浸透が大きくかかわっている。無常感の胚胎も仏教の「世間虚仮」の思想の浸透と無関係ではなく、現世を仮の世とする認識を背景に、生と死とが断絶の相のもとにとらえられたことによる。こうした葬制や思想の変化を背景に、墓所は死者を偲ぶよすが、言い換えると死を象徴する空間としての意味をもつことになり、逆にその対局に位置する「家」は、「生」を象徴する空間として明確に意識され、歌にも表現されることになったのだと考えられる。
このように万葉挽歌の「家」の表現に注目すると、「家」は家族との紐帯に根ざした空間としてとらえられ、「死」はそこからの旅立ちとして認識されていたさまをみることができる。「家離る」の表現は旅の歌にも見られるところであり、実際の旅も「家」を基点としてとらえられる。その点をよく示すのは、『万葉集』に伝わる、行き倒れの死者を悼んだ行路死人歌である。それらの歌では、「家にあらば妹が手まかむ」(巻3の415)、「国間へど国をも告らず家間へど家をも言はず」(巻9の1800)など、死者の家郷への思いを斟酌ししつつ、死者の帰るべきところとして妻や父母が待つ「国」「家」がうたわれる。万葉の時代、旅に際しては家人が旅人の無事を祈って潔斎し、旅人はそれを心の拠り所にして旅をすることを習いとした(巻15の3582・3583など)。旅人と家人とは、いわば共感の関係で結ばれ、そのため、旅においては「家」との共感関係の確認が身の安全、心の安らぎには不可欠であり、それに基因しての習俗や俗信も万葉歌にはさまざまに伝わる。行路死人歌も、旅人と家人との共感関係を背景に、死者の帰るべき「家」とのつながりを確認することによって死者を慰霊、鎮魂する歌であったと考えられる。『万葉集』の巻5には、行路死を遂げた大伴熊凝を悼んだ、山上憶良の一連の挽歌が伝わる。その1首には「家にありて母が取り見ば慰むる心はあらまし死なば死ぬとも」(889)とあり、家で母に見守られての死が心の慰めとなることがうたわれている。歌中の「母」は家族とも置き換え得るものであり、家族に見守られての「死」、家族との絆を拠り所にしての「死」こそが死者の大きな「慰め」となり得るものであったことがわかる。
万葉挽歌のこうしたありように注目すると、「死」との対峙にあたっては「家」との紐帯、家族との絆こそが見直されるべきであろう。日常、人と人との絆に支えられてこそ「生」は充足し、そうした「生の充足を背景に、「死」は「生」の延長にあるものとしてみずからにも、また残された者にもとらえられることになる。生命の尊厳が問われることが多い現在、健全な状況の回復のためには、家族をはじめとする人と人との絆の回復や、それに支えられての個々人の「生」の充足のための方策の模索こそが大きな課題であろう。それはまた「死ヘの準備教育」にも通じる今日的な課題ではなかろうか。
公開講座
平成16年11月6日東洋大学甫水会館401室
漱石の修善寺の大患
山崎 甲一 研究員
「死の実存的把握をめざして」という研究課題の1つの具体相を、漱石の修善寺の大患と呼ばれる死の体験に見た。その折の回想「思ひ出す事など」には、漱石の生涯において死の現実と最も強烈に直面したその体験が、自己の命と死をどのように凝視させ、意識し直させ、新たに自己の文学に位置づけさせようとしたかが窺われる。
500グラムの大吐血から30分間の人事不省を経験した漱石が認識したのは、死の「果敢な」さ、「生死二2面の対照の、いかにも急激でかつ没交渉」という動かし難い事実であった(15章)。そこに合理的な説明を求める姿勢はない。自己の意識や精神で領略不可能な、「明白な」事実、「ただこの不可思議」な実相に直面しての、自己の無力、或は、死という自然の力への長怖を新たにしている。
死に対する合理的な解釈に向かわず、漱石が新たに感得したものは、自己の病臥に関わる世の人の「親切」であった。予想外の手間と時間と親切とを掛けてくれた世間を省みて「病に生き還ると共に、心に生き還った。余は病に謝した」(19章)と言う。何故なら、自活自営の立場に立って、自然、社会、朋友、妻子、自分すらも「悉く敵」として闘って来た漱石が、この大患を機に、心に潤いを取り戻したからである。世間を「悉く敵」と見なしていた漱石から、他者への感謝の念を忘れぬ自己の「善良」性を打壊す者を「永久の敵」とする意識の変化も記されている。義務や命令からの世の人の親切心でなく、内発的な親切というものの相をたしかに見出し得たからである。
この純化された「親切」への希求は「何事もない、また何者もないこの大空」、大自然と自己との一体感を促し、更に、霊が「泥で出来た肉体の内部を軽く清くすると共に、官能の実覚から杳(はる)かに遠からしめた状態」をも現出させる日常付着する利害や打算という肉体の不浄、「地の臭を帯びぬ」、昇華した精神の存在も自覚させている(20章)
そこから、理屈や観念という日常性の大事が、あるがままの作為のない自然の、無心の姿によって相対化されていく(24章)。観念や理屈を越えて、自己の仰臥に関与してくれた人々の「好意」に対する「篤い感謝の念を抱」くことにこそ、「人間らしいあるもの」、「生き甲斐のあると思われるほど深い強い快い感じ」を見出している漱石の姿がある(7章)。現代の文明が「好意の干乾びた社会」を現在させるほどに、「吾人が人間として相互に結び付くためには」、「たとい純潔でなくとも、自分に活力を添えた当時のこの感情を、余はそのまま長く余の心臓の真中に保存したいと願う」(23章、道楽と職業)その願いこそ、漱石の「文学」の中核に新たに、或は改めて附加された、修善寺の大患という病に得た大きな収穫物であった。その収穫物の例を、妻鏡子と故子規とに見た。
公開講座
平成17年1月22日東洋大学甫水会館401室
死を観想する―能楽の中の死生観
原田 香織 研究員
「死」に向き合う中世の死生観は、翻って「生」の問題と繋がる。「死」に臨みそれが避けられない事態であると認識した時、人は「死」に向かって準備をしなければならない。何の心構えもない場合、人は虚無や不安や絶望感にさいなまれ、その「生」は危ういものとなる。死後の準備は「徒然草」140段「身死して宝残ることは智者のせざる処なり」に見られるような身辺の財損産整理や、同211段「万の事は頼むべからず」の「諦念」の思想、すなわち自ら対峙する問題を手放し、人生の流れに身を任せるという自在な生き方こそが1つの指標ともなる。そうした現世的な事象の中で捨て難いものは「末期の眼」に映った自然であり、そこから生きる意味を探求する先人の系譜もある。
一方現代の日本社会においては「死」という現象は「病院」から所謂「葬式業者」へと完全に受け渡され処理されるために、人間の日常的な営為から不自然なまでに覆い隠された状況下にあり、死者とその家族との間の心理的な問題が生じる場合もある。近親者の「死」を感情的に悼むことさえ憚られる社会風潮が、日本の良識としてあるため親しい個人の死は認識されぬまま、抑圧された心理下に苦しむ事例も多い。
しかしながら覆い隠されても猶「死」は私たちの眼前にあり、私たちは死を免れず、また死者を見送る役目からも免れ得ない。そうした問題を考える必然性があるのは言うまでもなく、死は思索されなければならぬ古くて新しい問題である。
中世文学は「末世」と認識された時代とともにあり、絶え間ない戦乱、疫病、火災、天変地異と「死」は日常の出来事であった。そして中世において「死」を学び観想することは、「生」をより豊かに生きるための方法となる。視覚的な説諭の方法としては、九相図、地獄絵などの絵解きがあり、肉体が朽ち果てるとどうなるか、死後我々はどこへ趣くかという問題をわかりやすく解き明かしていた。これに対しては指標として源信『往生要集』があり、地獄と極楽という思想と輸廻転生思想があった。その影響を受けつつ能楽には生死の根源的問題が様式化され展開する。
無常の認識から生の在り方を再確認する方法は、中世日本文学に底流する重要な人生観であり、自然や万物の摂理にそれをみるものである。「唯心の浄土」という謡曲の中の死生観も現実世界に重なりあう形での「地獄」と「極楽」の思想がある。自らの思いが境地となって人生につぶさにたち現れるものである。最終的には現世への執着を解き放つ人間の心の問題こそが人間存在そのものを自由な境地へと導き、完全性を実現するのではないか。
公開講演会
平成16年12月18日東洋大学白山校舎1404教室
死ぬ権利はあるか
木阪 昌知・明海大学教授
「死ぬ権利はあるか」という標題からは
・「死ぬ」ことを患者が望んでいる(患者)
・「死ぬ」ことを望む病状にある(末期状態)
・「死ぬ」ことに医師が関与する(医師)
・「死ぬ」ことを権利として求める(自己決定権)
ことが読み取れる。ここでいう権利とは、憲法第13条が基本的人権として保障している生命権・自由権のことである。身体の完全性に対する不可侵権、身体処分の自己決定権、と読み取るこの権利、医療にあっては治療選択権・治療拒否権として用いられている。この自己決定権、医療の領域にあって末期医療の指示書・リビング・ウイルやアドバンスディレクティブ、インフォームド・コンセント、治験の被験者、臓器移植のドナー、さらには死後の献体、散骨へと広がって、最早患者の意思を無視した医療は成り立たなくなっている。1995年には世界医師会が患者の権利と副題とするリスボン宣言で自己決定権を宣言している。
次に死ぬことを望むほどの病状とはどのような状態を言うのであろうか?そもそもがなぜに死を望むのかと言えば、医療の目的である除痛・救命・延命・予防に関して
・痛みの取れないときがある(安楽死・緩和死)
・助けられないときがある(心肺蘇生措置禁止)
・治療に限界がある(尊厳死)
・自己管理していないときがある(生活習慣病・慢性疾患)
これまで医療は救命・延命を行って自然死を成就出来る程に平均寿命を伸ばしてきた。しかしここにきて医療は自身の限界に直面している。そして、解決できないその限界を、患者自身が苦痛(トータルペイン)回避の方法としてとしてやむなく死を選択する、というのが現状である。換言すればSOL(生命の神聖・生命至上主義)という医療の在り方に対し、患者がQOL(生命・生活の質)を選択した結果起こっている問題でもある。しかもこの問題に解決の光は見えてこない。2003年度死亡者1,015,034人の死亡原因は(厚生労働省人口動態統計課)1位悪性新生物309,465人、2位心疾患159,406人、3位脳血管疾患132,044人。1位の悪性新生物、昭和54年に死亡原因の1位になって以来25年、1位を保ち続けている。このことは悪性新生物に有効な治療法がなかったということであり、2003年度がん罹患者298万人、2015年に530万人と推定されていることを考えれば、今後とも悪性新生物については治療は悲観的、と考えるべきである。そうであるから「対がん10か年戦略」でも治療ではなく予防と検査に方針転換している。がん死者は平成15年度におよそ31万人、つまり死亡者のおよそ30%ということであるが、これは厚労省人口動態統計課が原死因主義(死亡の直接原因)をとっているためで、実数は死亡者の50%ががんに罹患していた。そして2015年には死亡者の89%が罹患すると推定されている。現在も老衰によって天寿を全う出来るのははたかだか23,000人に過ぎないが、将来死亡する時にはだれもががんに罹患していると考えるべきであろう。ところでこのがんについて言えば、
早期がん・・・痛みの起こることは少ない
がん治療が積極的に行われている場合・・・30〜50%の患者に痛みが発生
非常に進行したがんの場合・・・平均70%に痛みが発生
と統計されている。もし痛みが取れなかったら、と仮定してみよう。この痛みが緩和できず、間断なく痛みが死ぬまで続く、と。苦痛が緩和できなければ、後は回避するしかない。回避とは、すなはち死、である。では
・死が間近い
・苦痛が堪え難い
・苦痛緩和の方法がない
という状況を設定して果たして
・患者は死を望むことはできるか?
・医師は患者の希望に沿って苦痛回避のため死に至らせることができるか?
通常安楽死と言われているものである。そもそも医師といえども投薬や注射、手術のような侵襲行為を行って違法性が阻却され、正当業務行為となるためには
1.治療を目的にする
2.医療水準
3.同意
の要件を満たしていなくてはならない。つまり医師の行う医業とは治療行為であって、たとえ耐え難い音痛にあっても患者を死に至らしめることは殺人刑(法第199条)、もしくは自殺干与(刑法第202条)として罪の訴追を受ける。また、 BC5世紀頃に宣言された医師の自律倫理「ヒポクラテスの誓い」は安楽死を禁じ、ナチス医師団が行った非人道的安楽死(慈悲殺)を反省し、戒めとして世界医師会が宣言した「ジュネーブ宣言」(1948)、さらには「安楽死についての宣言」(1987)でも患者の生命を故意に終わらせることを禁じている。つまり、死に手を貸し、手を下すことは倫理的にも禁じられてきたのである。
しかし、他方で除痛できない患者の苦しみを哀れと思う「人間的同情と測隠の行為」、「死因を転換する治療行為」、「科学的合理主義に裏付けられた人道主義」などをもって死ぬ権利を認めようとする風潮もあった。折しも東海大学付属病院であった安楽死事件を契機として除痛できない末期患者の安楽死について横浜地裁は被告人を懲役2年、執行猶予2年に処したうえで、安楽死について違法性阻却の要件を示した。
(1)耐え難い肉体的苦痛がある
(2)死が避けられず、その死期が迫っている
(3)肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がない
(4)生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示がある
明示的な意思表示を必要としたうえで患者の自己決定権として死ぬ権利を認めている。しかし、この要件を整えて不起訴、起訴猶予になった事例は今もって1例もない。ともあれ、緩和ケアが普及しQOLが向上すれば、肉体的苦痛を理由にした安楽死はなくなると予想される。
なおオランダでは2001年4月10日「嘱託に基づく生命の終焉と自殺援助の診査法」が成立(安楽死等診査法)、医師による積極的安楽死と自殺援助は不処罰となる。ベルギーにも安楽死を容認する法律が成立している。ただ緩和できない肉体的苦痛を理由にする安楽死に留まらず、精神的苦痛を理由に安楽死を承認するカナダの事例やシャボット事件が人命軽視、弱者差別に繋がりはしないかと懸念される。
次に、・末期状態で・延命措置が行われている、こうしたケースで死ぬ権利はあるのだろうか?いわゆる尊厳死といわれるものであるが、・尊厳死として容認された最初の事例と言うのはカレン・クインラン事件(1978年2月)である。日本でも尊厳死は厚生省「末期医療を考える」の見解「尊厳死(Death with Dignity)は本人の自発的意思で延命治療を中止し,人工呼吸器等の医療機器を用いた医療処置によらない自然な状態で寿命がきたら自分らしく迎えることの出来る死(自然死)をいう」で大方の理解を得ていると思われる。その他にも「リスボン宣言」(1981)世界医師会、「マドリッド宣言」(1987)世界医師会、日本医師会(平成4年)の「末期医療に臨む医師の在り方」についての報告、日本学術会議(1994)の「死と医療特別委員会報告」が尊厳死を容認している。
それではこの尊厳死、医師はいかなる干与をするのであろうか?尊厳死は末期の状態を、人格として尊厳を損ない、無価値であると判断することにより患者が治療停止を求めるものである。通常は意識の清明な時にしるされたリビング・ウイル(生前に発効する末期医療の指示書)により患者の意思表示とするが、装着している人工呼吸器を外し、栄養補給も停止する、いわゆる治療停止が医師の正当業務行為として許容されるかどうか、ということになる。医療は「すべきことをする」「すべきでないことをしない」という倫理の原則に則っている。治療停止は人命尊重を掲げているヒポクラテスの誓い以来の医の倫理に反することになる。それにもかかわらずあえて治療停止を認めることを認めるのは自己決定権の治療拒否権に基づくものだからである。
最後に、いくつかの指摘をしておきたい。
・死ぬ権利を求めるのは自己決定権という、憲法第13条の生命権・自由権に基づいている。苦痛が耐え難いからと求めるこの権利、しかし、他方で40万近い胎児が両親の自己決定権(ロウ対ウエイド)により堕胎されている。12週未満の堕胎は報告もされていないことを考えれば実数100万とも言われている。死ぬ権利のみならず殺す権利もあるのだろうか?。WHOは平均寿命のみならず健康寿命を発表するようになった。健康寿命とは、心身とも健康で、活動的でいられる期間がどのくらいあるかを試算したものである。乱暴に言い換えると「自分の事は自分でする」、つまりはひとの負担にならない状態ということになる。およそ4年ある平均寿命とのギャップが無価値と判断され、自己決定により死を選択する安楽死や尊厳死のように「すべる」ことになりはしないかの懸念が残る。アメリカのシンクタンクの予想では2050年の日本人の平均寿命は世界一で90才と予想されている。