日本における死への準備教育―死の実存的把握をめざして―
日本における死への準備教育―死の実存的把握をめざして―
本研究は、日本私立学校振興・共済事業団の学術研究振興資金に係る研究であり、日本における死への準備教育の1つの実践形態を、様々な死生観に鑑み、文学・宗教・哲学・社会学の側面から呈示することを目的とする。研究スタッフ・役割分担は次のとおりである。
研究分担者 役割分担
高城 功夫 研究員 研究代表中世仏教文学における死生観
大久保 廣行 研究員 万葉人の心性と死
菊地 義裕 研究員 万葉挽歌と古代の喪葬習俗における死生観
原田 香織 研究員 能楽にみる死生観
谷地 快一 研究員 近世俳諧師における死生観
山崎 甲一 研究員 近代作家の死生観
竹内 清己 研究員 現代作家の死生観
川崎 信定 研究員 仏教にみる死生観
渡辺 章悟 研究員 冥界信仰における死生観
中里 巧 研究員 ターミナルケア・ホスピス
相楽 勉 研究員 死への存在としての人間存在―死とどう向き合うか―
榎本 榮一 客員研究員 摂関期の古記録にみられる葬送・追善供養
大鹿 勝之 客員研究員 生命倫理と死の問題
大谷 栄一 客員研究員 宗教教団の死への関わり
本年度の研究調査活動は、以下のような研究計画に従って行われた。
1.死を主題とする公開講座の開催
2.実地調査
①奈良・大和十三仏の調査など、冥界信仰(十三仏信仰)に関する調査
②金沢・和歌山・下関等における、文学作品にまつわる死生観に関する遺跡。資料調査
③北海道稚内における北方民族の死生観の調査
④浜松等におけるホスピスケア、とりわけ死を意識した患者の精神的ケアに関する調査
3.死生学(サナトロジー)の研究安楽死・尊厳死を中心とした資料の収集・研究
4.シンポジウム・公開講演会の開催
医療・宗教関係者をパネリストに招いての「死への準備教育」をテーマとしたシンポジウム、公開講演会の開催
5.成果の発表
本研究の成果報告を『東洋学研究』別冊として刊行した。
以下に、研究調査活動を行った研究分担者別のテーマ・期間・調査地・報告(前号に掲載できなかった昨年度の研究調査も含む)と、公開講座、公開講演会、シンポジウムの概要を記す。
研究調査活動
北方民族の葬送儀礼・死生観・シャーマニズム調査
中里 巧 研究員
期間 平成18年2月24日〜2月27日
調査地 網走郷土博物館・北海道立北方民族博物館・網走市立美術館
網走市立美術館では、木村捷司(1905―1991)と居串佳一(1911―1955)について調べた。木村は、1938年から1945年まで数度にわたり樺太へ赴き、北方少数民族を題材とする写実絵画を描いている。網走市立美術館は、この時期の木村作品コレクションを所有している。このコレクションにはギリヤークシャーマンの宗教儀礼を描いた作品もある。さらに木村は、戦前新聞に、取材旅行について連載しており、特にシャーマン儀礼についての記事は、貴重なものである。居串は、北方ロマンティークやオホーツクの魂と呼ばれる作品を多く残している。北方イメージを探るうえで、貴重な画家である。美術館員から木村が新聞に掲載した資料や画集資料を提示していただいた。
北海道立北方民族博物館では、宗教習俗を中心とした展示のうち、なお調査したりなかったものを補った。シャーマンについて網羅的展示となっており、大変参考になる。網走郷土博物館では、明治以降の民俗のうち、なお調査したりなかったものを補った。また、アイヌ史・北方少数民族・オホーツク沿岸地域を中心とする地域史・河川などの自然史などの資料を、調べた。郷土博物館は、小規模な博物館であるけれども展示や資料は豊富であり、貴重な博物館である。
分担課題
「冥界信仰における死生観―十三仏信仰の研究」に基づく調査
渡辺 章悟 研究員
期間 平成18年3月26日〜2月29日
調査地 大分県 国東半島:豊後高田市(梅遊寺・報恩寺)、東国東郡国東町(岩戸寺・文殊仙寺)、西国東郡大田村(財前家墓地)の板
碑調査
3月26日
昼過ぎに大分に到着。この日は岩戸寺を訪れることができたのみ。
3月27日
早朝から午前中にかけて、この時期の九州には珍しく、春雷と雹が降った。午前中に財前家墓地、長岳寺、椿堂の十三仏を調査。この地域に伝わる十三仏信仰を確認。梅遊寺の板碑を調査。本堂の脇に十三仏種子板碑、阿弥陀三尊の種子板碑を確認。この十三仏の板碑はわが国でも最古の部類に属する。
3月28日
この日は豊前高田市の真言宗大楽寺に行き、所蔵の国指定重要文化財(弥勒像、普賢像、文殊像、絹本涅槃像)などを見学。境内には十三仏・光明真言・阿弥陀名琥百万遍の石碑があり、驚いたことに十三体の十三仏立像が安置されているのを確認、設立年代、寄贈者、由来などを調査。住職に長時間話を伺い、貴重な「大楽寺史」を頂戴した。午後は大分県立博物館にて豊後国の仏教に関する幾つかの調査資料を入手。
3月29日
午後調査を終えて大分発、羽田着、東京経由で、高崎に帰着。
分担課題
「能楽にみる死生観」に基づく研究調査
京都室町文化の樹立と能楽の死生観との関わりに関する調査
原田 香織 研究員
期間 平成18年7月15日〜7月17日
調査地 京都・世阿弥関係神社、交野・磐船神社ほか、淡路島・淡路神社ほか
7月15日 京都室町文化の樹立と関わる東山区を踏査した。観阿弥世阿弥父子と将軍足利義満の出会いの場である今熊野神社、謡曲の舞台ともなり舎利信仰と関わる皇室の泉桶寺、またその奥にある雲龍寺(南北朝の勝者側北朝の寺)、京都五山の中で室町幕府と禅との関わりを示した東福寺を踏査し、能楽と仏教文化との繋がりおよび室町文化圏の様相を探った。南北朝の争乱の勝者側の遺恨も同時に理解できた。
7月16日 奈良文化圏と境界線にある大阪交野地区を踏査した。中世日本神話を観点にしたとき重要視される山岳修験道とも関連のある磐船神社、北斗七星信仰と関わる星宮神社、機物神社を廻る。山岳修験道は中世の死生観とも関わり有意義であった。修験道は中世の死生観とも関わり有意義であった。
7月17日兵庫県淡路市、日本神話の再構築とかかわる伊井諾神宮を踏査した。イザナミ・イザナギ信仰は室町時代に余説を付加しながら独自の展開を遂げるが、淡路は神話の原点でもある。争乱の続く足利時代、日本国家再生の機運ともいえる日本神話の再構築が思想的にいかなる必要があったか、謡曲淡路との関係を探った。
日本の思想の崩落と再構築との様相を生と死という観点から確認できた有意義な調査であった。
分担課題
「万葉挽歌と古代の葬送習俗における死生観」に基づく研究調査
(熊本・福岡県下の装飾古墳および万葉故地の実地調査と関連資料の収集)
菊地 義裕 研究員
期間 平成18年7月27日〜7月29日
調査地 熊本・福岡県下(熊本市・山鹿市、太宰府市・桂川町)
27日の午後熊本市内に到着。当日は熊本県下の装飾古墳ならびに古代の歴史的状況の把握を意図して県立美術館(装飾古墳室)・県立博物館を見学、関係資料の収集を行った。また、28日には県立装飾古墳館・山鹿市立博物館を訪ね、菊池川流域の装飾古墳を中心にその実態の把握に努めた。県立装飾古墳館は主要な装飾古墳を復元・展示した専門の資料館であり、装飾古墳の多くが非公開、あるいは時期を定めての公開の措置がとられている現在、主要な古墳に限定されはするものの、実態の把握、基本情報の収集にきわめて有益であった。また、九州各県の装飾古墳についての関係資料の整理も行われており、可能な範囲で収集した。また、山鹿市立博物館では装飾古墳のひとつであるチブサン古墳等の関係資料に接するとともに、案内を得てチブサン古墳の石室内を実見することができ、テーマを深めていくうえで貴重な機会となった。
その後福岡県へと移動し、29日には、午前に日本を代表する装飾古墳のひとつである桂川町の王塚古墳を訪ね、古墳および隣接する王塚装飾古墳館を見学、熊本県下との比較のうえにその特色を知ることができた。また午後には太宰府市へと移動し、万葉の故地である大宰府政庁周辺。九州国立博物館・九州歴史資料館を訪ねた。当日から開催の、国立博物館の特別展も装飾古墳と関係の深い内容のものであり、見学して新たな知見を得ることができた。また、歴史資料館の見学も古代の大宰府を理解するうえで有益であった。今回得た貴重な知見を踏まえて、テーマについての検討をさらに進めたいと考える。
分担課題「中世仏教文学における死生観」に基づく研究調査
西行の生命観と死生観に関わる高野山・和歌山・南紀における遺跡調査
高城 功夫 研究員
期間 平成18年7月28日〜7月31日
調査地 高野山・和歌山(粉河寺・根来寺)、南紀白浜
第1日目は高野山の調査、北条政子が夫源頼朝の菩提を弔うために創建した禅定寺のちに、3代将軍源実朝供養のためもあって金剛三味院と改名された高野山で現存する1番古い寺を種々の資料を参考にしながら調査した。多宝院は国宝。高野版とよばれる教典は高野山の教学の典拠で中心的な存在であった。その経典を収納する校倉造りの経蔵、極彩色の春日造の四所明神社本殿などの建築物を調査した。西行が京の寂然と歌の贈答をした高野の玉川の1の橋、弘法大師空海廟奥の院の調査をし、金剛峯寺の宝物を拝観した。
第2日目は高野山の西行の遺跡西行庵といわれる三昧堂や西行桜の調査をし、西行勧進になる大会堂などの調査をした。そのあと、天野という女人高野である丹生津姫神社周辺の調査をした。西行堂があり、西行の木像が安置されていた。西行妻や娘の墓所も調査することができた。
第3日目は高野山からまず粉河寺を調査した。山家集によれば西行は粉河に参詣しているのでその足跡を調べ、覚錢上人興教大師が新義真言を唱えた根来寺の調査をした。根来寺の大塔の尊大さに弟子来喩の業績の遺跡を調べた。
第4日目は、和歌山市内の調査で紀州徳川家や紀三井寺、西行が吹上の浜とよんだ吹上周辺を調査した。その遺跡を探し、西行が「自良の浜」と歌に詠んでいる白浜海岸のあたりを調べ碑などを調査することが出来た。西行を中心に多くの調査をすることができた。
分担課題「中世仏教文学における死生観」に基づく調査
西行の生命観と死生観に関わる、宮島・山口・下関における遣跡調査
高城 功夫 研究員
期間 平成18年8月17日〜8月20日
調査地 宮島、山口、下関(壇ノ浦・赤間神宮)
第1日目は安芸の宮島を中心とした調査をした。平清盛によって平家一門の氏神となり安芸国一宮、平家納経で有名な厳島神社の参拝と宝物館、宮島歴史民俗資料館等の調査をした。西行が『山家集』の中で、「志すことありて、安芸の一宮に詣でけるに……」と詞書にある安芸の一官すなわち巌島神社に参拝したことは確実なことであって、西行が「志すこと」といっている目的は何であろうかと調査した。現在宮島桟橋のすぐ前の丘の上に行者堂があり、角仏堂と呼ばれる堂がある。「西行戻し」とか「西行返し」の伝承の存するところがあるので西行の修行の目的地であろうことを調査し得た。
次の日は宮島周辺の仏教等の遺跡調査をした。次に湯田温泉に行き、中原中也記念館を見学した。また役行者小角が開いたと伝わる修行地龍蔵寺などを調査した。
次の日は山口市内の瑠璃光寺と五重塔の問題、あるいはザビエル記念聖堂といったキリシタン文化との比較などを調査し下関へと足を進めた。下関ではまず御裳濯河の地から平家滅亡の壇ノ浦を遠望した。
第4日目は安徳天皇を祀る赤間神宮を調べ平家一門の墓所や宝物館などの調査をした。平家関連の資料も取得、平家滅亡の跡を調査した。そのあと長府の功山寺を調査し、下関市立長府博物館で種々の資料を得たり、見学したりし、長府の武家屋敷遺跡などを調査した。
分担課題
「近代作家の死生観」に基づく調査および実地踏査
山崎 甲一 研究員
期間 平成18年8月24日〜8月27日
調査地 茨木市、堺市、奈良市、桜井市
8月24日
○茨木市 1、川端家旧跡、川端富枝氏より当時の川端康成在住時のエピソード、家の間取り、墓所のことなどを伺う。
宿之庄 2、川端家墓所と共同墓地、池など川端家裏山の地形様子と実地踏査する。藪蚊多数閉回す。
8月25日
○茨木市 1、川端文学館伊豆踊子発表百年記念展示物確認。館長の田中氏より宿之庄裏山の地形、茨木、奈良の当時の街並復元図
、写真など観覧させて頂く。必要図書資料を求める。2、茨木市街を実際に歩き、当時の地図と対照確認す。
8月26日
○堺市 与謝野晶子・アルフォンス・ミュシャ館展覧。「明星」とミュシャとの関係を具さに学んだ。必要図書資料を求めた。
○東大阪市 司馬遼太郎記念館。司馬文学と思想の骨格を展示物で確認した。
8月27日
○桜井市役所にて川端と古賀春江との関係調査。
○奈良志賀邸再訪す。
分担課題「中世仏教文学における死生観」に基づく調査
西行の生命観と死生観に関わる湖東・小浜・湖西における遺跡調査
高城 功夫 研究員
期間 平成18年8月25日〜8月28日
調査地 湖東(長浜)、小浜(明通寺・神宮寺ほか)、湖西(近江坂本)
第1日目は米原経由で長浜一帯湖東湖北の十一面観音を中心に調査をした。十一面観音は、慈悲の仏像で特に比叡山延暦寺の影響下にあった湖国には、国宝や重要文化財に指定される数多くの端正な姿の仏像が安置されている。まず高月駅近くの高月町立観音の里歴史民俗資料館で十一面観音の変遷を辿り、隣接する向源寺で今秋上野の国立博物館に来る旧渡岸寺の国宝十一面観音の特徴などを調査し、信仰の跡を辿った。次に木ノ本の己高閣に収蔵されているかつての鶏足寺の本尊であった素朴な容姿の十一面観音の調査をした。
次の日は大陸文化の玄関といわれる小浜の調査をした。特に若狭の国宝の寺々の調査と西行の若狭での足跡や伝承を訪ねた。まずは十一面観音を安置する羽賀寺、行基の開創と伝える古刹で、多くの寺宝を有する。次に若狭の国分寺の薬師如来の調査をし、周辺についても調査した。隣近くに福井県立若狭歴史民俗資料館があるので種々調査した。さらに西行が呪文を唱えたと文献にある明通寺の国宝本堂、三十塔などの調査をし、若狭のお水送りの行事のある神宮寺などの調査をした。
3日目は比叡山坂本の天台宗新盛宗本山西教寺と明智光秀の墓所あるいは坂本周辺の諸社寺の調査をした。
4日目は比叡山延暦寺をはじめ、西行が晩年慈円を訪れた横川の中堂や恵心僧都源信の遺跡源信堂を中心とした往生要集の世界の跡を考える調査などをした。
分担課題「宗教教団の死への関わり」に関する研究調査
(近代日本の在家仏教団体における死の位置づけの研究における、日蓮主義青年団山梨支部の活動拠点の現地調査と同支部メンバー関係者への聞き取り調査)
大谷 栄一 客員研究員
期間 平成18年8月21日〜9月2日
調査地 山梨県南アルプス市鏡中條
初日の8月21日、日蓮主義青年団山梨支部の一活動拠点だった南アルプス市鏡中條に住む戸栗宗氏(83歳)の自宅を訪ね、戸栗氏と時田勲氏(73歳)に聞き取りを行った。大正末期から昭和初期の日蓮主義青年団(創設者は妹尾義郎)の活動の背景となる当時の小作争議の状況、地主・小作関係のこと、妹尾が講演を行った長遠寺のこと、妹尾と関係のあった名取祐吾のことなどについて、貴重なお話しを伺った。
翌9月1日には鏡中條を含む中巨摩郡に関する郷土資料が所蔵されている田富町生涯学習館で鏡中條のことを調べ、南アルプス市鮎沢にある南アルプス市甲西支所内南アルプス市教育委員会に向かった。文化財担当者の田中大輔氏にお世話になり、戦前の鏡中條村の行政文書を閲覧させていただいた。「明治18年6月地券名寄帖」「鏡中条土地名寄帖明治廿4年」「田租名寄帖(大正11年8月)」「昭和8年田租名寄帖」など土地台帳関係を含む1次資料を閲覧できた。ただし、残念ながら、日蓮主義青年団の活動に関する資料はみつけることができなかった。
最終日の9月2日、鏡中條の地域内を歩き回り、現在の鏡中條の様子を見学した上で、甲府に向かった。帰路に着く前に、甲府市丸の内にある山梨県立図書館に立ち寄り、鏡中條や中巨摩郡に関する文献、妹尾たちの運動と敵対した農民運動に関する文献、日蓮主義青年団メンバーの中込長の刊行した文献を閲覧した。とくに、本年2006年3月に刊行された山梨県編『山梨県史』通史編六近現代二には、日蓮主義青年団の活動が取り上げられており、大いに参考になった。
日蓮主義青年団の妹尾義郎は、山梨での活動を通じて、自らの人間観や死生観を築き上げた。今回、その活動拠点だった山梨県南アルプス市鏡中條を訪問し、戦前の鏡中條の状況や妹尾、日蓮主義青年団甲府支部の活動について、現地調査と聴き取り調査、文献調査を行うことで、妹尾たちの人間観と死生観が形成された背景について調べることができた。
分担課題「中世仏教文学における死生観」に基づく調査
西行の生命観と死生観に関わる京都周辺の調査
高城 功夫 研究員
期間 平成18年9月4日〜9月6日
調査地 京都(賀茂神社、大原、鞍馬、貴船、東山周辺、今宮、船岡山、西山・長岡京、嵯峨野)
第1日目は西行が西国修行に出発するとき祈念した上賀茂神社を調査、藤原実方の祀られている社などを調査した。次に大原の寂光院、放火による焼失の状況と建礼門院平徳子の平家滅亡、六道めぐりの死生観の調査をした。次に鞍馬に源義経伝承と天台の修験道場の跡を調べ、貴船に和泉式部の遺跡を調査した。その後補陀落寺に寄り小野小町の遺跡を調査し、補陀落信仰を調べた。
第2日目は東山周辺の天台別所の調査をし、双林寺の西行堂や西行墓の調査、建礼門院が出家得度した長楽寺のあたりを調査した。次に今宮神社の調査をした。京の民衆が信仰した「やすらい花祭」の根源を探った。次に船岡山周辺の調査をした。西行が「波高き世をこぎこぎて人は皆舟岡山を泊にぞする」と詠んだ船岡山の葬送の地の調査をした。
第3日目は西山長岡の大原野神社や勝持寺の調査をした。西行が出家したと伝えられる寺で、西行木像や西行姿見の池などを調べた。そのあと嵯峨の二尊院の西行庵跡や西行井戸などを調べ、嵯峨の天台別所の釈迦堂清涼寺なども調査した。
西行の死生観を中心に、平家の死生観、天台修験の地の調査などであった。
聖隷三方原病院ホスピスセミナー参加と周辺地区調査
相楽 勉 研究員
期間 平成18年9月28日〜9月29日
調査地 静岡県浜松市
28日14時に聖隷三方原病院のホスピス病棟でホスピスコーディネーターの堀脇敬司氏と会った。まず、聖隷ホスピスの沿革、概要(運営の実際)などの説明を受け、その後こちらの用意した様々な質問にお答えいただいた。礼拝堂もあり、キリスト教の精神に基づいてはいるが、患者もスタッフも特に信者が多いわけではない。患者本人の生活習慣を重んじて家庭にいるような雰囲気を作り、また看病する家族のケアを重視している点にたいへん興味を惹かれた。質疑応答の後病棟内を案内してもらった。木を多く使い、緑の中庭をどこからでも見ることができる落ち着いた平屋の建物で、ホスピスの理念を表わしていると感じた。最後に当ホスビスが制作したビデオを5本見せていただいた。
29日は浜松市郊外引佐の天自磐座遺跡を訪ねた。引佐郊外薬師山の山頂付近に岩石が積み上げられた遺跡で古代の葬祭場だった可能性がある。今後さらに調査したい。
北方民族の葬送儀礼・死生観・シャーマニズム調査
中里 巧 研究員
期間 平成18年10月25日〜10月28日
調査地 稚内市北方資料館
稚内市立北方資料館にて、ホスピスケアやターミナルケアに関連する死生観の基層を形成する宗教民俗の古層を調べる目的で、旧石器・縄文・擦文。オホーツク文化期に属する石器・土器・骨格器等を調べる。同資料館は、稚内とその周辺および樺太における先史時代遺物の収集がとりわけ豊富であり、その多くが展示されている。また、江戸時代の北方警備を幕府から命じられた津軽・秋田。会津藩士の多くが、宗谷場所(現宗谷)で病死しており、その展示もされている。実際の情況を確かめるため、宗谷岬と宗谷丘陵および現宗谷に安置されている藩士の墓まで行って確認もした。宗谷丘陵は、氷河周辺河川地形であるが、その実際の地形や宗谷場所のロケーションが良く理解できた。さらに、稚内市教育委員会教育総務課内山真澄氏や全国樺太連盟の土屋祐美子氏に会い、先史時代葬送儀礼や樺太シャーマンについて、聞き取りを行った。
分担課題
「近代作家の死生観」に基づく調査および実地踏査
山崎 甲一 研究員
期間 平成18年10月26日〜10月29日
調査地 熊本市、長崎市、大分県中津市
熊本市 熊本文学館にて「草枕」「二百十日」発表百年展を展観す。併せて水前寺公園傍に移築された漱石旧居(第三の家)を踏査する。また、熊本市内、漱石縁りの旧蹟を徒歩にて踏査す。上熊本駅―新坂―漱石旧居(第五の家・漱石記念館)―熊本五高旧館。
長崎市 かくれキリシタンの里として知られ、「沈黙」の舞台となった外海町の、遠藤周作文学館にて遺品。生原稿。蔵書等、遠藤の文学を調査見聞す。
大分県中津市 福沢諭吉記念館。旧居を踏査見聞す。漱石の「現代日本の開化―明治四十四年八月和歌山において述―」における「現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるという事に帰着するのである」という講述と対比させながら、諭吉が幼少・青年期を過ごした旧家を見、記念館に展示されている著書学「問のすヽめ」「西洋事情」「文明論之概略」の原本など資料を調査しつつ、現代社会における、漱石のいう「人間活力の発現の経路」であるところの「開化」について考察した。
分担課題
摂関期の古記録にみられる葬送・追善供養のための調査研究来世信仰および追善の場(跡)の調査
榎本 榮一 客員研究員
期間 平成18年11月14日〜11月16日
調査地 京都市、吉野町、奈良市、宇治市(法成寺・法興院址、金峯山寺、般若寺、宇治陵等)
14日、京都御苑の東、寺町通を隔てた鴨折高校のグランドの南壁中に「従是東北法成寺址」の石柱があり、藤原道長の建立した法成寺の位置とその広大な寺域を確認することができる。なお、藤原兼家の建立した法興院址を示す標識などは見当たらない。吉田神社のある神楽岡一帯は、古代の京の葬地の1つであった。後一条天皇と陽成天皇陵もあり、その近くには、元は法成寺内にあり、再興された東北院もある。藤原氏一族の追善法要も多く行われたその東北院も現在は小寺院である。
15日、吉野の金峯山寺に参る。道長の弥勒経。法華経等の埋経跡を見ようとし、蔵王堂の僧に尋ねると、そこはここより24キロメートル先の山上ヶ岳とのことで断念し、吉野山系の主峰山上ヶ岳を望み、道長の来世信仰の切なるものを感じる。京から奈良に入る坂道の、大仏殿の大屋根を見下ろす処に般若寺がある。ここは古代の奈良の葬地の1つであった。
16日、先年は藤原道長の建立した浄妙寺址とその北側にある字治陵ニケ処を調査した。今回は南側を廻る。寺址より1キロメートル以上も離れた所にも字治陵は散在し、藤原氏一族の木幡の葬地の広大であったことが実感できた。
分担課題
「冥界信仰における死生観」に基づく調査奈良の十三仏板碑を中心とする調査
渡辺 章悟 研究員
期間 平成18年11月13日〜11月16日
調査地 長弓寺・石福寺(生駒市)、大安寺・西大寺(奈良市)他
11月13日生駒市の長弓寺と、乙田の正根山石福寺をようやく探し当て、十三仏の3つの板碑を見いだし、記録を取る。十三仏板碑の他にも、六斎念仏の文字が入った板碑、六字名号の板碑などがあり、中世の念仏信仰の影響が窺われた。十三仏板碑には天正年間と慶長年間の銘文あり。いずれも16世紀末と17世紀初頭に造られたものである。
11月14日は生駒山宝山寺の石室十三仏板碑や、十三層塔などを調査。役小角が般若経を収めたという般若窟には道路が危険なために上れなかったが、修験と十三仏信仰の深いつながりを確認することができた。
11月15日は奈良にて聖林寺、大安寺を訪問した。特に聖林寺では偶然に秘伝の曼陀羅を公開しており、その中に室町時代に作成された古い系統の十三仏掛け軸を偶然見つけた。国費の十一面観音が本尊の真言宗の寺院であるが、この形式の中世のものは貴重である。生駒から奈良市にかけての石仏文化、及び十三仏の遺物は、中世の仏教信仰を知る上で実にユニークである。大安寺では一木造りの木彫観音像が多く残されており、大安寺派とか大安寺様式と呼ばれている。この機会に、天平時代末期の独特な木彫を見ることもできたのは幸いであった。
11月16日は奈良の新薬師寺と自豪寺に立ち寄り、石仏遺品などを調査し、帰路についた。
分担課題
「現代作家の死生観」に基づく調査
金沢第4高等学校時代の井上靖および、室生犀星、泉鏡花、徳田秋聲――北陸作家の死生観に関する文献調査・実地踏査
竹内 清己 研究員
期間 平成18年12月25日〜12月28日
調査地 石川県金沢市(石川近代文学館、室生犀星記念館、泉鏡花記念館、徳田秋鷲記念館ほか)
かつて北陸の金沢に旧制第4高等学校があり、そこに後に文化勲章を受章する井上靖が学んだことは、北方の死生を考える上で示唆に富む問題を提出している。なぜなら丼上の生誕の地は北海道の旭川(父は軍医だった)であり、温暖な伊豆の湯が島で幼少年期を過ごした井上が、金沢の4高に進学し柔道部(武術)に所属し詩を書くようになったことには、北方(北海道―金沢)の風土の連関が考えられるからである。前年旭川の実地調査をしたわたしはその連関を求めて金沢の調査に入った。
まず石川近代文学館では第1室から第11室の展示資料をつぶさに調査した。とくに第1の鈴木大拙、西田幾多郎の「思想界の先人たち」、3・4・5室の秋声・鏡花。犀星の3大文豪、7室の「4高その青春の光亡」、ことさらには第八室の悠「久を刻む井上文学のロマン」から得たものは大きい。文学館には4高記念室があり草創期から閉校までの文学・文化・生活を知ることができた。文学館とそれを取り巻く一帯の公園が4高の跡であった。詩集『北国』、小説『北の海』『夏草終涛』と風土の連関を具体的にたどることができた。
井上の文学に多大な影響を与えた文学者の泉鏡花の記念館(鏡花にみる能楽の世界)、徳田秋声記念館(秋声全集完結記念)、室生犀星記念館(犀星の文字短冊・原稿・手紙から)が金沢にあり、特別展が催されていて、その資料を調査することができた。さらに北方の自然と死生観について文学館のみならず金沢周辺に身をもつて考究することとなった。
分担課題
「万葉人の心性と死」に基づく調査および実地踏査
大久保 廣行 研究員
期間 平成19年2月23日〜2月25日
調査地 奈良県南部(明日香など)
2月23日 橿原神宮前駅到着後、甘橿岡へ直行し、最近発掘された東麓遺跡を確認する。長大な石垣と敷地造成は日本書紀に記す城柵や武器庫の跡と指摘されるが、その目的が乙巳の変(大化の改新)とかかわって今後論議を呼びそうである。その足で石舞台古墳に行き、馬子をはじめ蘇我氏一族の興亡について考える。
2月24日大和の国魂を祀る大神神社に参拝後、狭井神社から三輪山に登って多くの磐座を見て廻り、山をご神体とする原始信仰の様相を理解する。さらに崇神天皇陵。手白香皇女陵・箸墓など広大な古墳群を巡り、黒塚古墳で内部構造(実物大模型)を見学し、死者の埋葬法や副葬品の配置のさまを実感する。
2月25日壺坂寺に登り、「心の眼を開く仏」とされる十一面千手観音像を礼拝し、奈良時代の鳳凰碑を見る。さらに当麻寺へ廻り、蓮糸曼荼羅を模写した文亀曼荼羅を見、中将姫伝説を偲ぶ。また山麓より二上山を仰ぎ、大津皇子と大伯皇女の姉弟の悲劇的事件の跡を辿る。
公開講座
平成18年6月24日東洋大学白山校舎6301教室
芭蕉信仰のかたち―『諸国翁墳記』をめぐって―
谷地 快一 研究員
『諸国翁墳記』は、はじめ義仲寺(滋賀県大津市)が編んで刊行し、のちに橘屋治兵衛を版元とした俳書である。蕉門書林として名高い書津がこの書を引き受けたわけは、将来的に増補・再版が見込まれ、商売的に採算のとれる可能性があったからだろう。その予想が当たったかどうかはわからないが、宝暦11年(1761)と思われる初印以後、本書の増補・再版は幕末まで続いた。
『諸国翁墳記』は芭蕉塚を集録した俳書である。『俳文学大辞典』の「芭蕉塚」の解説に従えば、芭蕉塚とは〈芭蕉の亡骸を埋葬した義仲寺の本墓を分ける形で、全国各地に建立された芭蕉の墓碑〉であるから、その記録である本書は各地に広がる芭蕉信仰拠点の総覧といってよい。芭蕉塚は〈その地の俳壇の芭蕉供養や俳諸興行の場〉を目的とし、〈義仲寺の土や芭蕉の遺品、またその句を記した短冊などを埋めて霊と〉する手続きを踏んだ。それは〈芭蕉長逝直後から始まり、蕉風俳諸の流布に伴って累増し、幕末には1000基に迫ったと思われる〉とされ、碑の形式についても〈表面の刻字に3形式があり、初期は「芭蕉翁」の3字、後期は芭蕉発句のみ(現代の芭蕉句碑とは区別すべき)を刻むものが多く、両者併存の中間形式は、宝暦〜安永期(1751〜81)の造立に著しい〉という考察が備わっている。現在いうところの句碑ではない。
このような信仰のかたちが生まれた理由は、芭蕉が自分を〈腰間に寸鉄をおびず、襟に一嚢をかけて、手に18の珠を携ふ。僧に似て塵あり、俗ににて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠の属〉(野ざらし紀行)と規定していたからである。西行撰と信じられていた『撰集抄』にみえる高僧伝によって、俗世から離れて乞食に落ちぶれている人の中にこそ賢人がいると信じて、すでに30代に自ら「乞食の翁」を名のっていたからである。出家は果たせなかったが、出家修行者よりもずっと修行を徹底していると自負していたからである。そうした芭蕉像が芭蕉信仰の歴史をつくった。芭蕉の1部を受け継いで、神格化を助長する門人系譜ができていった。
これらは幕藩体制に組みこまれた近世の仏教界が世俗の欲求に応える能力を失っていたこと無関係ではなかろう。かれらは既成の神仏中心の宗教観を捨てて、自前の人間中心の宗教観を作り上げたのだと推測出来るかもしれない。ただし、その証明のためには、それぞれの芭蕉塚について、「建碑の目的」の考証、つまり霊前に供物を捧げて冥福を祈るためのものか(供養碑)、恩徳に報いるためのものか(報徳碑)、記憶や思い出を新たにするためのものか(記念碑)、あるいは地域教化や社会意識の高揚のためのもの(顕彰碑)かを区別する仕事が不可欠である。
公開講座
平成18年7月8日東洋大学白山校舎6302教室
「死の準備教育」はなぜ必要か?
相楽 勉 研究員
本講演では日本の学校教育における「死への準備教育」の必要性が考えられる理由(1)と、そこからしてこの教育カリキュラムの構築に当たってどのような点が考慮されるべきかをまず考え(2)、最後にソクラテスの「死の修練」の考え方を紹介しながら(3)、「哲学」がこの教育にどのような点で資するものがあるかを述べた。
(1)「死への準備教育」が必要とされる理由とその背景
まず「死への準備教育」という言葉が定着してきた諸々の経緯―1969年7月にアメリカのミネソタ州立大学に「死の教育と研究センター」設立から1980年代にアルフォンス・デーケン氏が日本で開始した「生と死を考えるセミナー」まで―を振り返った。
その上で、次に特に若い世代に対する死に関する教育が何故必要かを、今日の生活実感と社会学的な統計的な調査研究(特にデーケン編『死を教える』に収載の若林論文)を手がかりに考えた。若年世代がリアルな「死」に接する機会が高齢化や医療の高度化によって減る一方で、「死」に関する感情やイメージの個人化は進み、死への社会的対処の共通了解は形成されにくくなっている現状を考察した。感情の社会化、あるいは社会的な感情の育成こそが必要であろうと思われる。
(2)日本の実情に即した「死への準備教育」
「宗教」科目のあるドイツや、「死の教育」カリキュラムを初等教育から取り入れているアメリカの例を挙げながら、高等教育における「倫理」のみがかろうじて「死」に触れる日本の現状を説明。ただ、科日としての「倫理」のみではなく、日本の伝統的な「死」への対処法を文学作品や民俗学的考察を仲立ちに考えさせることを1つの方法と考えることができる。そして、そのような考察を有効なものにするはじめの1歩が「死の修練」といわれた哲学ではないか。
(3)哲学的な「死」の省察
プラトンの『ソクラテスの弁明』と『パイドン』に、「死」を考える際最も基本となる「心」(魂)に気づくヒントを見いだした。ソクラテスに従えば、「死」をひたすら恐れるのは、「知らないのに知っていると思いこむ」ことになる。死を知らないと自覚することが自分の心に近づく手がかりになる。心を脳の機能であると推測できても、自分自身の心の経験を外からみることはできない。己の肉体の死を思う時こそ、自分の心に率直に向き合い、純粋に心だけになることがありうる。またこの時こそ、他者を「心」として敬うという真の共同意識も生まれうる。ここにこそ社会的な感情の育成の手がかりがあろう。
公開講座
平成18年11月25日東洋大学白山校舎1404教室
安楽死・尊厳死について―「山中静夫氏の尊厳死」を読む―
大鹿 勝之 客員研究員
本講座において、安楽死・尊厳死の定義、オランダ安楽死法、オレゴン州尊厳死法、オーストリア北部準州の安楽死法、カレン事件、ナンシー・クルーザン事件、名古屋高裁判決事件、東海大学「安楽死」事件、京北病院事件を取りあげつつ、森鴎外の「高瀬舟」や南木桂士「山中静夫氏の尊厳死」を読み、安楽死・尊厳死のあり方について参会者の方々と共に検討してみた。
安楽死という言葉は、ラテン語のエウターナシアeuthanasia 英語で言えばユーサネイジャの訳語である。この言葉はギリシア語のエウ(よく、幸いに)とタナトス(死)から来ていて、文字通り訳せば、「幸せに死ぬこと」「安楽に死ぬこと」となる。ローマの伝記作家・歴史家であるスエトニウスのDe Vita Caesarumの第2巻、アウグストゥス99には、アウグストゥスは安らかな死を願らてギリシア語のεύθαυαοιαをよく口にしていた、とあるが、今日使われる安楽死という言葉には、当事者に対し他者が死に至らしめるというニュアンスがある。宮川俊行の定義によれば、安楽死とは、「合理主義的な発想に支えられた、他者の生命を意識的に死の方向にコントロールしようとする行為」とのことだが(官川俊行『安楽死の論理と倫理』東京大学出版会、1979年)、今日安楽死といえば、末期がんや不治の病で苦しんでいる患者に対し、生命維持装置を取り外す、あるいは致死薬の投与などの方法で安らかな死を迎えさせること、という理解が一般に受け入れられているといえよう。
尊厳死(death with dignity)については、宮川俊之によれば、非理性的・非人格的な人間生命のあり方を無意味だとして、その生存を拒否しようとするものが尊厳死にあたる(上掲書)。ただし、治る見込みのない場合に延命医療措置の停止を求める場合に「尊厳死」という言葉が使われたりする。その点で尊厳死は「自然死」(natural death)とを指しているともいえる。
南木桂士「山中静夫氏の尊厳死」(「文学界」平成5年8月号、文春文庫『山中静夫氏の尊厳死』、文藝春秋社、2004年に所収)は次のような内容である。
医師の今井は肺がんであることを認識している山中静夫氏を引き受ける。山中氏は入院当初は生まれ故郷に墓をつくっていたが、病状は悪化する。山中氏の「苦しくなったら楽にしてください」の言葉を受け止め、以前担当した患者に行ってきたような、死を迎えるまでモルヒネで眠らせたままにするようなことはせず、心嚢に水がたまればカテーテルを入れ心嚢液を排出させ、「楽にする」ことを実行していく。山中氏の言葉は「死なせてください」ではないのだ。山中氏が息を引き取った後今井はうつ状態に陥るが、快復に向かった頃に、山中氏がつくった墓に出かけ、手を合わせる。
この小説には、バイオエシックスの論客であるエドワード・W・カイザーリンクの"Sanctitiy of Life and Qualiy of Life -Are They Compatible?"(邦訳「生命の尊厳と生命の質は両立可能か」、加藤尚武・飯田亘之編、『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』、東海大学出版会、1988年)の「たとえ治療の目的が実現されない場合にも、ケアは存在する」という言葉が浮かんでくるような、安らかな延命のあり方が見いだせる。
そこで、安楽死とは死に至らしめることではなく、また尊厳死とは延命医療措置の停止ではなく、末期がんの場合であれば抗がん剤の投与や放射線治療などは停止しても、腹水がたまれば抜き、高熱になれば解熱剤を投与するように、生命の維持を図ることが、アウグストゥスが言っていたような安らかな死、尊厳ある死を迎えさせることにはならないだろうか。今日、安易に安楽死や尊厳死、「生命の質」という言葉が叫ばれているように聞こるが、まず安楽生や尊厳生に至る道を模索してみてもいいのではないかといえよう。
公開講座
平成18年11月25日東洋大学白山校舎1404教室
死との対時―万葉歌人山上憶良に見る死の文学化―
大久保 廣行 研究員
プロジェクトの課題で、1人の人間が迫り来る死をはっきりと予期した場合、それをどう受け止めどう対応しようとしたか、という問題に置き換えて、それを八世紀の万葉歌人山上憶良の場合について考えてみた。
憶良は60歳を過ぎて関節リウマチ的症状にとりつかれて悪化の一途をたどり、死ぬまで老いと病の苦しみにさいなまれ続けた。
人はだれでも老いの挙旬には外から疎外され孤独に追いやられて、老醜を無惨にさらすことになる。その無常の襲来をまず「哀世間難住歌」(5 804・805)に活写して示した。それから5年後、筑前から帰京した憶良は、老身重病2部作ともいうべき大長編の制作に打ち込んだ。
第1作の「沈痢自哀文」は病苦から逃れえぬ自己を哀嘆し、第2作の「悲嘆俗道詩序」では世の無常迅速を確認して間近に迫る死期を予感し、それらの上に立って第3作「老身重病歌」(5 897〜903)は、長年の老病音のあまり死への願望をつのらせるに至るが、幼子の存在のゆえに遂に永生を欲する思いに反転し、生と死のはざまに大きく揺れる姿を描き出す。それはとりもなおさず「世間蒼生」(衆生)の姿であることにおいて、憶良自身もまた悟りすました理詰めの死を選ぶのではなく、人間的な迷妄の中に死を迎えることの方にむしろ安らぎを見出だしたものらしい。そうした死をめぐる思索を、自己のものから人間一般の普遍的なものへとおし及ぼして、「述志」「言志」の文学をここに実現したのである。文学をそのようなものとして位置づけ、そのテーマに死を据えたところに憶良の独自性がある。実に憶良は、生の終焉の燃焼を死の文学化によって体現しようとしたと言えるだろう。
なお、辞世作となった絶唱(6 978)は、立名の叶わぬ己の一生の無念さを藤原八束という青年貴公子への激励歌に転じて贈ったものと考えられるが、そこには己の死を客体化して、他者の生に活かそうとする姿勢が見て取れる。それは死に赴く者が生きる者を思いやる、憶良のやさしさに外ならない。
憶良が死を儀礼としてでなく文学の対象として自覚的に扱ったことで、ここに死の文学の新たな誕生を認めることができよう。日本文学の新領域を開拓したものとして、その文学的功績は高く評価されてよい。
実に憶良は、最後の最後まで死を思い、生を問い、人間の真実を探り求めてやまなかったのである。
公開講座
平成19年1月27日東洋大学白山校舎3203教室
西行の生死観―命と死をめぐる思想―
高城 功夫 研究員
西行の生命観を考えたとき、命の力強さと精神力の強靭さに驚嘆する。その命について検討した。『西行上人集』雑に
あづまの方へ、あい知りたりける人のもとへまかりけるに、小夜の中山見しことの音になりたりける、思ひいでられて
年たけりてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
という歌があるので、この「命なりけり」について種々検討を加えた。西行69歳の折の詠歌であり、東大寺大仏殿再建の勧進行脚の途次、40年ぶりに越える難所、小夜の中山での年老いた西行の感慨が伝わってくるような「命なりけり」の歌であると考えた。「命なりけり」という表現は、西行以前には見いだすことができないし、西行ならではのものである。自らに感激し、自分の生涯を振り返って、命と我が身に自信を表した「いのちなりけり」なのではないかと思われた。
次に西行は『山家集』の中で、命をどのように展開してるかを見てみた。自然詠の中でも命の表現は種々の形を見せているし、経文や中国の故事に典を求めた歌などにも当然であるが命の展開がみられた。また恋歌中の命の問題があるし、恋死にということも精神上において重要な課題になっている。ということを考えた。加えて雑歌中においても「命なりけり」の思想の反映が見られた。
次に無常10首中の「うらうらと死なんずるなと思ひ解けば心のやがてさぞと答ふる」の「うらうらと」という表現を検討し、自己の凝視と死の意識ということを検討した。そして「うらうらと」と「虚」ということの様相を見、究極のところは、自己の凝視と独自の心境ということであり、西行の創造の世界、歌の境涯にまで辿ることのできる世界であると考えた。
西行の歌には、人1倍激しい情感の表出が見られるとともに、憂愁に満ちた情熱の旺盛なまでの表現が多く見られるのである。自己の性格との烈しい格闘が、詠歌の発想の基盤となっている。西行ほど花や月に対して執拗なまでの愛着を表現し、複雑なまでの心の葛藤を託した歌人はいないであろう。しかし花や月に対してと同じほどに、西行は「死」に真正面から対していたのである。「うらうらと」の歌は、西行の自己凝視と「死」に対する感懐のよく表された1首であると検討した。
さらに無常連作歌について、その無常の様想と死の問題について解明した。山家集中巻雑に「題しらず」とした13首の無常連作歌がある。連作という形をとりながら、「題しらず」としての無常観あるいは死生観を綿々と綴っているのである。そこにみられる死の意識を検討した。次に「無常の歌あまた詠みける中に」と題した人首連作歌を考察した。そこには、死後の世界必ずや極楽往生へと導くという死が綴られていると考えた。そして鳥辺山・船岡山・岩陰・蓮台野と無常所を連ね、無常八首連作における死生観を見ごとに詠いあげている配列であると検討した。
次に月や花に見る仏徒としての西行の死生観について考えてみた。山家集下巻雑に10首連作の月詠歌がみられる。それは讃岐国三野津での詠作であり、四国巡礼の地の港であり、弘法大師空海の故地善通寺等に対峙する地であった。この三津野での連作十首には全て「月」が詠じられている。おそらく西行はまず弘法大師空海の修行の地の港に立ち、心円満にして心月輸の観法を唱えたのであろうと考え、月輪観は満月の菩提心を観想するものであって、清浄の象徴であり、真言僧としての西行の心月輸が如実に表された連作歌であると考察した。
そして西行の死生観は花へと展開される。山家集上巻に「花の歌あまたよみけるに」と題した連作25首がある。その中に、
願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃 仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とよぶらはば の2首がある。この詠歌はわが身の死を悟った西行があの釈尊の様相に擬えて生涯愛して止まない桜花の下にて望月(満月)の夜月輪の真言を唱えながら死をのぞむ姿と捉えることができる。その思想の背景には、月輪観の観想も意図するとともに、空海の唱えた即身成仏をも考えてみる必要を提示した。そして仏前には桜を供花せよ、と詠歌し、我が菩提を弔う人がいたならば、と願うのであると詠み解いた。
公開講演会
平成18年10月21日東洋大学甫水会館301室
詩歌に表れた北方の生と死―中城ふみ子の短歌を中心に―
田村 圭司・國學院大学大学院兼任教授
「死の実存的把握をめざして」行われている研究の一環として与えられたテーマは「北方の死」に関するものであった。死を把握するのが常に生の側にあるなら、人にとって生と死は表裏一体の事柄である。北海道帯広に生まれた歌人中城ふみ子は、己の死を女性として生の側から見つめ表現した歌人である。1954(昭29)年2月、ふみ子は短歌誌「短歌研究」の第1回新人50首詠の特選となったが、その時はすでに乳癌の転移により、31歳の若さで死に直面していた。死亡したのはその年の8月、その間に、己の半生を辿り得るように作品を編集し、歌集『乳房喪失』を出版した。本の入手は死亡の1月前である。その歌から彼女の生と死を確認したい。
夜ふけて涙ぐみつつ子に還すもろき手の爪エナメルはがす 年々に滅びてかつは鮮しき花の原型はわがうちにあり
母であることと女性であることの間で揺れる心と、そこから女性として生きることを選び取った時の歌である。「わがうちに」ある「花の原型」は女性としての生命の原型である。
施術されつつ麻酔が誘ひゆく過去に倖せなりしわが裸身見ゆ 冬の級よせゐる海よ今少し生きて己の無残を見むか
乳房切除手術中に幻視した、己の無傷の裸体への郷愁と、放射線治療のために小樽から札幌へ向かう途中、冬の暗く激しい波を己の生きる姿と重ね、それと付き合う覚悟を述べた歌である。
黒き裸木の枝に紐など見え乍ら総れしわれは居らざる或日死の世界を垣間見たとき、そこに自分は居ないという不在証明。
公園の黒き木に子らが鈴なりに乗りておうおうと吠えゐるタベ
己が健康な女体を持っていれば誕生に関与したであろう新しい命たちが、その可能性を失って悲しくほえているという幻視の歌。耀
葉ざくらの記憶かなしむうつ伏せのわれの背中はまだ無瑕なり
乳房を失った体でも背中はまだ美しいと確信することによって己の冷持を貫き、目前に追る死に対抗しようとする歌である。
これら生の姿勢を崩さずに歌う中城ふみ子の心を培ったものは、「雪かぜの中に乙女と母となり曖味に量かす生き方を知らず」とか「凍土に花の咲かずと嘆く半歳はおのれが花である外はなし」とふみ子が歌っているように、光の中でも物の命を凍らせて絶つ帯広の冬の自然と、それに立ち向かう意識であろう。また帯広高等女学校、東京家政学院を戦前に卒業し、旧い価値観を持つふみ子が出会った、自立を促がす戦後の価値観であろう。「すでに腐蝕の匂いを放つモラルなりためらわず拳に唇ふれよ」という歌はそれを表している。
シンポジウム
平成18年7月1日東洋大学白山校舎6211教室
日本における死への準備教育―中等・高等教育機関における現状と課題―
中里 巧 研究員
朝倉 輝一 氏(東洋大学他兼任講師)
山舘 順 氏(サレジオエ業高等専門学校講師兼人文社会系コーディネータ)
司会:相楽 勉 研究員
本シンポジウムは、副題が示すとおり、中等・高等教育機関における死への準備教育の現状と課題について、中里巧研究員(文学部哲学科教授)、東洋大学のほか関東の短期大学や看護大学、看護専門学校などで死を題材とする授業を担当している朝倉輝一氏、高等専門学校の専任講師である山舘順氏がパネリストを務め、司会進行役を相楽勉研究員(文学部哲学科助教授)が務める形で、パネリストによる基調報告、パネリスト間の質疑応答、フロアからの質疑応答がなされた。
中里研究員は日本や北ヨーロッパのホスピスの調査、東京の山谷地区でのボランテイア活動、九州にある病院での患者との交流・患者サポート体験を通じて、高等教育(大学1年〜4年)における死の準備教育の課題を5つ提示した。
1.資本主義的発想の見直し金銭や利益を優先する価値観の反省。
2.十九世紀的旧世界観の見直し人格の陶冶、魂の存在、神の実在に関する19世紀的な世界観を見直していく。
3.世俗化の見直し魂の非存在や人格の陶冶の否定を考える世俗化に対する検討
4.教育の荒廃と教育改革によるさらなる荒廃教育改革における現状と教育に対する理解の問題
5.気づき
死生観や末期の人に対するボランティアなどを教育に導入することは、教育の根幹とは何か、勉強とは何かという根本的な問題と切っても切り離せない関係にあることに気づく。
朝倉氏は、東洋大学、看護大学、短期大学、専門学校(医学技術系学校・看護学校)での死を題材とする授業の取り組みを紹介し、次の課題を指摘した。
最近は、死が病院に管理され、死に逝く人たちと関わる経験がなくなったために、死のリアリティが希薄になっている。そのような場合どのように授業を展開していくかが問題となる。また、学生は非常にナイーブな所があるので、特定の宗派や考え方に偏らず、1つの考え方を提示したならば、それとは反対の見解を提示するなど、偏らない立場で授業を進めていく必要がある。
山舘氏は、高等専門学校での倫理社会の授業における取り組みや学生の感想を紹介し、授業に取り組むにあたっての課題を以下の通り挙げた。
特定の宗派の系列に属する学校の場合、死に対する様々な観点を取り上げる(特定の宗教に偏らずに、広い分野からの視点を提示する)にせよ、どうしても特定の観点から死について論じることになり、そのことがかえって学生たちによい刺激になることもあるが、死を遠ざけるような文化的風土の中で、死に関する教説や学説を提示しても、学生たちがどれほど関心を持つのか、という問題がある。
生命倫理の問題において、人間という存在を環境の中の動物として捉えるか、それとも主体的な存在としてとらえるかの、どちらの立場を優先すべきか、ということが大きな問題であり、考えていかなければいけない課題である。
以上の基調報告の後、相楽研究員の司会の下で、パネリスト間の質疑応答、フロアからの質疑とパネリストの応答がなされた。脳死患者からの臓器移植などに関する欧米と日本における死生観の相違、倫理学という授業の中で死ヘの準備教育を行うことの有効性と限界、ボランティア体験を教育に導入するときの問題点、多分野間の連携における死への準備教育の取り組みの可能性、文学に見られる、死に対するリアリティの問題など、様々な問題が提示され、活発な議論が展開された。(大鹿勝之 記)