平成17年12月10日 東洋大学白山校舎6201教室
平成17年12月10日 東洋大学白山校舎6201教室
不干斉ハビアンの思想遍歴をめぐって
「禅宗からキリスト教そして棄教へ 」
柿市 里子 客員研究員
〔発表要旨〕ハビアン(1565―1621)が京の臨済宗禅寺の修行僧からキリシタンとなったのは、仏主従神の公家が完全に政権担当能力を失い、「治国平天下」の儒家思想をもって、武家が為政者としての権威を築きつつあり、もはや仏教は社会的救済能力を失っていたころである。藤原惺窩(1561―1619)とその弟子林羅山(1583―1657)は臨在で学んだ後僧衣を脱ぎ日本朱子学を打ち立てる。ハビアンの転向も禅宗では救済の道は開けないこと、引いては将来の展望もないと考えたとしても不思議ではない。一方、イエズス会は、土着文化適応主義により、既存の宗教文化に通じている入会者を望んでいた。ハビアンは適任者であった。1583年入会を許される。イルマンとなったハビアンは説教者としてまた教理書の著作者として世にその名を馳せる。イエズス会公認の『日本のカテキズモ』(1581)に則って、創造者ゼウスを真実在であるとし、仏・神・儒・道いずれも非存在の「無」であると説いた日本人初の護教書『妙貞問答』(1605)を著す。前者は仏中心の仏神儒三教一致主義として論難するのに対し、後者は八宗十二宗派の仏、大極・陰陽説の儒、『老子口義』の大極の一気を説く道という中国伝来の儒仏道三教一致を採り、神は唯一神道を重視し、論難する。
彼の思想的特徴は体用論に現れる。1606年林羅山と天主と理(=大極)について論争し、羅山の「理、天主と前後あるか」の問いに「天主は体、理は用」と応える(『排耶書』)。禅では自心の清浄な根源が体、自心の変化する妙用が用(『大慧法語』)である。朱子は、心の完璧なる本体が理(=大極)で、私意を超えた公共(普遍性)的事柄に応ずるのが用、即ち「全体大用」(『大学章句補伝』)とする。『妙貞』に、ゼウスの霊的実態は視覚触覚では捉えられなくとも「物は用を以ってその根本を知る」とし、用(=理性)によって体=天主の存在を知ると云うが、理が「所以然の故(原因)」「所当然の則(原則)」であることを把握していたであろう羅山に通じるわけがない。体用論を持ち出したのはハビアンである。ここに彼の思想的宗教的揺らぎが見られる。つまり天主と大極の思想把握である。さらには、非存在としての「無」をキリシタンの間では容認されても、仏儒道側から容認されないことを百も承知していたであろう。キリシタンとして雄弁なる説教をし、最高の護教書を著した彼であるが、仏儒の研鑽を積むうちに、理論上の矛盾が顕在化し、やがては『破題宇子』(1620)の「無」を肯定し、既存の宗教思想の全面的否定へと結びついていく。イエズス会で育まれた合理性に基づく思想宗教の自由及び自主性は、天主と大極の比擬に見られるように、西洋文化と東洋文化の根本的な違いとその受容の限界に気づき、人間も自然の1部と捉える思想へと回帰していったのであろう。
嚴靈峯の老莊研究について
王 廸 客員研究員
〔発表要旨〕嚴靈峯は台湾の老莊学者でもあり、書誌学者でも、蔵書家でもある。彼は生涯を通じて、諸子の版本を求めることに力を注いだ。特に老列莊三子の書物を数多く所蔵しているのみならず、版本の景印まで行っていた。彼の『周秦漢魏諸子知見書目』(巻1)(巻2)は老莊関係書目録として、最も完備したもので、日本の老莊関係書物を幅広く収めている。
若い頃、中国国民党党員でありながら、中国共産党にも参加した2重スパイのような身分を持った文人政治家である嚴靈峯は、かつて様々な政治の場で活動をしたり、政治的業績を上げたりした。一方、彼は学問にも勤しみ、西洋の政治・経済のみならず、中国の哲学など、多くの著書や編著を残した。実は彼は幼小の頃から諸子学を勉強していたが、特に『老子』に傾倒し、20歳から『老子』の研究を始めた。
嚴靈峯は、『老子』の最も早い解釈書物は『莊子』だと論断し、老子のいう「有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、先後相隨」の相対論は、決して「絶対的」ではなく、これらの対立は相対的であって、バランスを取る「対立の統一」であると考えている。また、彼は「無を用いる」ことは老子の最高原則であると認め、「無為」だから「為さざるは無し」ということができ、「無私」だから「其の私を成す」ことができるのであると考え、老子は決して「虚無主義」ではなく、「無為」「無私」を手段として、「為さざる無し」、「其の私を成す」に達することが目的だという結論を下した。従って、嚴靈峯は老子は「消極的」ではなく、「積極的」であると評価している。
嚴靈峯は多くの老莊関係書目録、及びそれに関する書誌を記したが、日本の老莊研究の転換をもたらした南北朝刊老莊口義本について全く触れていない。また、江戸初期の老莊思想の研究方向を定めた林羅山の老莊関係書物について、不十分な点及び書誌の誤記があることは非常に残念である。江戸時代の漢籍は殆ど漢文なので、日本語に精通していないからと言って、それが原因で誤読したとは考えられない。たとえ彼は「俾向學之士、為尋找古籍而不必遠渉重洋」との志で行った学術的事業だと言っても、そのように咎められざるを得ない。だが、嚴靈峯が膨大な著作や編著を世に送ったことは、後世の研究に裨益するものであることは、正当に評価すべきであろう。
六朝道教経典と初期雑密経典における神呪
菊地 章太 研究員
〔発表要旨〕道蔵には「神呪」の文字を題名に冠する経典が少なからずある。大蔵経にはかなり多い。とりわけ密教部に集中しており、しかも『大日経』漢訳以前の、雑密経典と通称されるものに多く含まれる。「神呪」の文字を題名に冠する経典を、ここでは仮に「神呪経」と総称することにしたい。
道教の神呪経と初期雑密の神呪経とのあいだには、なんらかの関連性や共通性があるのだろうか。
今回の発表では、道教と雑密の神呪経がさまざまな災厄を説くなかに共通して現れる「県官」という表現に注目した。これは普通には「役人」を意味する漢語であるが、神呪経においては盗賊による被害とならんで出てくることが多い。そのような文脈から解釈するならば、役人といっても「横暴な役人」や「過酷な役人」あるいは「役人の横暴による被害」すなわち「圧政」を意味すると捉えることができる。いかにも中国らしい災厄であり、人々にとっては水害や飢饉よりも恐ろしく忌まわしいものであったのかもしれない。このような災厄が、中国固有の宗教である道教の経典に頻繁に出てくるのは理解できるとしても、雑密経典にまで同じように出てくることは注目してよいのではないか。
雑密経典である『灌頂経』の巻12は、その後いくたびか漢訳された『薬師経』の最初の漠訳とされる。ここにも無実の罪を役人になすりつけられる苦痛が述べてある。ところで『薬師経』のサンスクリット原典は、ギルギット出土写本に一本あるが、対応する段落のうち、この文章だけは原典にない。ということは漢訳の段階で新たに加えられた可能性も考えられる。ではいったい何に依拠したか、ということが次に問題となろう。
道教と雑密の神呪経には、他にもさまざま災厄が述べられ、どのようにしてそれに対処したらよいかが説かれる。そういった徹底的な現世利益へのこだわりと、処方の速効性と効能の幅広さこそが、神呪の本質的な機能と言えるのではないか。
神呪経が説くのは、阿含経典が説く「三災」のような体系的な災厄の思想ではない。それは世のなかの悪しき事や忌まわしい事の羅列にすぎないが、どれも緊急の事態である以上すぐにも対策が講じられねばならないものばかりである。道教でも仏教でも、たちどころに災厄を除去するという神呪経が必要とされ、大量に作られた理由もそこに求められるのではないかと思う。