平成17年1月22日 東洋大学甫水会館401室
平成17年1月22日 東洋大学甫水会館401室
原始仏教聖典に記される釈尊の雨安居地
ーパーリ聖典を中心にしてー
岩井 昌悟 客員研究員
〔発表要旨〕筆者はパーリ聖典のアッタカター(聖典の註釈書)などに記載されている、釈尊の45回の雨安居の地点とその年次を伝える「雨安居地伝承」の資料的価値を確定するために、原始仏教聖典(ここではパーリのニカーヤと律、漢訳の阿含と諸律の総体を指す)中の釈尊の雨安居記事と雨安居地伝承の比較を試みてきた。今までの研究から、すでに雨安居地伝承と聖典中の釈尊の雨安居記事とがかならずしも調和しないことが明らかになった。しかしながら聖典中の釈尊の雨安居記事の中には、パーリ聖典と諸漢訳聖典とで記述される内容が対応しながらも、雨安居への言及の有無の差や場所の相違が多々あり、それらの整理を経た後でなければ、雨安居地伝承と聖典中の釈尊の雨安居記事との関係は明らかにならない。
聖典中の釈尊の雨安居記事には直接「釈尊が某処で雨安居を過ごされた」と明記せずとも、雨安居時の記事であることが推測可能なものがある。過去の研究でもその点には留意してきたが、今回、聖典中の釈尊の雨安居記事を整理するに当って、そのような表現形式の分類と実例の吟味をより厳密に行う必要が生じた。本発表では、パーリ聖典を中心にして、①釈尊が某処で諸比丘とともに雨安居(夏坐)を過ごした云々と明記される場合、②釈尊が自恣の日をむかえる場合、③釈尊が某処におられた時、仏弟子の某が某処で雨安居を過ごすという場合、④釈尊が某処におられた時、仏弟子らが作衣を行っていたという場合、⑤釈尊がAにおられた時に、某が釈尊にBにおいて雨安居されるよう要請して受諾される場合、⑥弟子たちが雨安居に入るために某処におられる釈尊に会いに来たという場合、⑦弟子たちが雨安居を終えて某処におられる釈尊に会いに来たという言う場合、③釈尊が3ヶ月乃至4ヶ月間、某処に留まっておられたという場合、⑨4月薬が言及される場合、⑩釈尊がコームディー(カッティカ月の満月の日)を過ごす場合、⑪釈尊のもとに到来した比丘に対して、釈尊が「比丘よ、がまんできるか?元気にしているか?労苦なくやって来られたか?どこからやってきたのか」などと声をかける場合、⑫釈尊のもとに至った比丘が「我々は久しく釈尊に対面して法話をお聞きしていない」と阿難などにうったえる場合の12のケースの表現形式を、実例を挙げて紹介した。
最終的な目標はこれらの表現形式を有する資料を全て取り出した上で分類整理し、原始仏教聖典中に記述される釈尊の雨安居地を特定し、その結果と雨安居地伝承を比較することにあるが、その報告は今年度中に発刊される『原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究』第10号(中央学術研究所)と、それにつづく号に掲載する予定である。
『御堂関白記』にみられる仏事について
―長和元年(1012)から治安元年(1021)まで―
榎本 榮一 客員研究員
〔発表要旨〕藤原道長の日記である『御堂関白記』から仏教関連の記事を抜き出し、整理し、平安時代中期社会における仏教の1側面を見てみた。前回(平成15年10月15日の発表例会)は長徳4年(998)から寛弘8年(1011)を対象にしたのに続き、今回は長和元年から治安元年を対象にした。
年中行事としての仏事としては、天皇および東宮・中宮等が主催あるいはそれらを対象としたものを公として、その主なものは、正月、御斎会、2月、円融院御8講、3月、御灯、薬師寺最勝会、天皇・東宮・中宮等の春季御読経、仁王会、4月、御灌仏、6月、円教寺御8講、法興院御8講、7月、御盆、8月、仁王会、9月、御灯、秋季御読経、10月、興福寺維摩会、東宮・中宮秋季御読経、冷泉天皇御国忌12月、天皇・東宮・中宮御仏名等である。また、道長が主催した私的なものとしては、1月の生母忌日斎食・供養経、2月、法性寺修2月会、3月、春季読経、5月、法華30講、6月、参感神院、7月、盆供、12月、秋季読経並びに懺法、慈徳寺斎食等を主なものとして挙げられる。これら年中行事に加え、寛弘8年9月より月の15日を中心にした1条院に於ける御念仏と、長和2年3月より月の18日を中心にした道長邸に於ける例講・供養経が、月例のものとして加わってくる。これら定例の仏事は、最勝王経、法華経、仁王経、および大般若経といった護国経典の読誦と講経を主としたものである。
臨時の仏事としては、長和2年6月頃の3条天皇中宮である娘妍子の出産、寛仁2年4月頃から道長自身の病気平癒、および寛仁2年6月の祈雨等に関わるものがその主としたもので、内容は諷誦および法華経、仁王経、大般若経などの読誦などとともに、5壇法、薬師法、聖天供、孔雀経法、8字文殊法などの密教関係の修法が見られる。
『御堂関白記』に見られる定例化した仏教行事を、曾祖父忠平の日記『貞信公記』および祖父師輔の日記『九暦』に見られるものと比べると、しだいにその数が多くなってきており、仏教がより社会生活と密接になってきたことがわかる。また、道長邸に於ける春秋2季の読経などは、道長の社会的地位からいえば、天皇あるいは国家の祭祀権に対する侵犯をも意味してくるのではなかろうか。
臨時の仏事には密教関係のものが多くみられるようになるが、道長が眼病平癒のために仏眼法を行うなど、しだいに個人の利益と密教とが緊密になっていくように見られる。