平成17年11月19日 東洋大学白山校舎6202教室
平成17年11月19日 東洋大学白山校舎6202教室
初期不二一元論学派の宇宙論について
佐竹 正行 奨励研究員
〔発表要旨〕ブラフマン以外のものは無明により生じた非実在であると主張し、ブラフマン一元論を説く不二一元論学派が、これに矛盾しないように、「いかにして世界が生ずるのか」という問題に答えたのかを、初期不二一元論学派の人物サルヴァジュニャートマンの著作により考察していく。
一般的なインド哲学学派の字宙論は、ヴァイシェーシカ学派の説く集合説、サーンキヤ学派の説く開展説、不二一元論学派の説く仮現説の3種類である。
サルヴァジュニャートマンは、この3説に仏教徒の説く結合説を加え、4種類の字宙論に言及している。そしてこの4説のうち、結合説と集合説を誤った見解とし、この両説を、各々の学派の見解と矛盾が生ずるために誤っていると論駁し、排斥している。そして、残りの2説、開展説と仮現説を自派の見解として、開展説は、1番最初に論理的矛盾を取り除き、日常的な行為を認めるために説かれ、世界の実在を承認する。この見解はブラフマンから多くの多様な形をもつ実在を創造するものであり、大地からの農産物の創造を例としている。仮現説は、開展説が虚偽の結果を生ずるので、これを否定するための次の段階である。仮現説は、世界が仮象であるとし、ブラフマンから誤って様々な形を顕現することであり、様々な波に各々月が映っている様子を例としている。この2つに、究極の見解である解脱の段階を含めて、開展説、仮現説、解脱の段階の3種類の段階を形成している。
これらの段階を各々、付託、損減、両者の混合した見解という形に分類している。開展説を付託、解脱の段階を損減、両者の中間にある仮現説を付託と損減の2つの働きをなすために両者の混合した見解と位置づけている。このように認識上の点から見ると3種類の宇宙論は各々、無明により付託されたものとして状態を持ち、それが損減される段階と位置づけられ、実在性の差異を持っている。
このようにサルヴァジュニャートマンは3種類の字宙論を3段階に分け、実在性の段階により区別する、特徴的な段階的宇宙論の体系を作り上げている。
最後に、サルヴァジュニャートマンの相互付託説と合わせて考察した。サルヴァジュニャートマンの相互付託説では、そのつの要素が実在性の差異によって分けられることから、同様に実在性の差異によって区別される宇宙論の考えと類似している。このことから、実在性の差異により段階的に分類している構造は、サルヴァジュニャートマン思想の特徴と考えられる。
ヴァイシェーシカ学派の「かなた性」と「こなた性」について
―発生し消滅する「区別」の概念―
三浦 宏文 奨励研究員
〔発表要旨〕 インドの実在論学派とされるヴァイシェーシカ学派は、独自のカテゴリー論により現象世界を合理的に説明する。同学派にとって、正確に事物を説明・認識するためのカテゴリーの区別は、大変重要である。そこで本発表では、同学派のカテゴリー論上重要な概念である、かなた性(paratva)・こなた性(aparatva)という区別の概念について考察し、ヴァイシェーシカ学派のユニークなテゴリー論の一1端を見ていきたい。
まず、ヴァイシェーシカ学派の根本聖典である『ヴァイシェーシカ・スートラ』(以下『スートラ』)(1世紀)では、時間・空間上の位置の区別のための概念というかなた性・こなた性の基本性格が、素朴なカテゴリー論の形で定義されている。空間的にも時間的にも、「遠隔」に対応するのがかなた性であり、「近接」に対応するのがこなた性である。これは、慧月の『勝宗十句義論』(4〜5世紀)でも基本的に変更はなく、『スートラ』の説を忠実に受けた、カテゴリー論的な枠組みでかなた性・こなた性を捉えていると言うことが出来る。プラシャスタパーダの『プラシャスタパーダ・バーシュヤ』(以下『バーシュヤ』)(6世紀)では、まず「1人の見る者」―「2つの見られる事物」という構図を前提として、その「見る者」からの「見られるもの」が「遠い」という認識から、かなた性・こなた性を説明している。したがって、かなた性・こなた性は、『バーシュヤ』の段階で認識論的な枠組みの中で位置付けし直されたということが言える。さらに、『バーシュヤ』においては詳細に論じられているかなた性の消滅は、『スートラ』・『勝宗十句義論』ともに全く論じられていない。これは、『バーシュヤ』の段階で認識論が整備されるにつれ、認識のプロセスにかなた性の発生と消滅が組み込まれたからだと考えられる。それに伴い必然的に因果論的なかなた性の消滅プロセスの説明も必要になってきたのである。
このように、かなた性・こなた性の概念の変遷から、ヴァイシーシカ学派の学説に、プラシャスタパーダの段階で認識論と因果論の精緻に組み合わされた枠組みが導入されたということの1端を、見ることが出来るのである。